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第三十二話 選ばれなかった道の先で
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第三十二話 選ばれなかった道の先で
初夏の気配が、王都に混じり始めていた。
朝の空気は軽く、窓を開けると風がすっと通り抜ける。冬の名残も、春の湿りも、もうここにはない。季節が一段階、確かに進んだことを、ヘレン・バートンは肌で感じていた。
執務室の机に向かい、今日の予定を確認する。特別な会合はなく、急ぎの用件もない。領地から届く報告は順調で、修繕計画も予定通りだ。どれも、静かに積み上がる仕事ばかりだった。
(……悪くない日ですわね)
前世であれば、こうした日は落ち着かなかった。何も起きないことを「見落とし」と捉え、どこかで誰かが助けを求めているのではないかと、常に気を張っていた。だが今は違う。何も起きないことが、きちんと管理されている結果だと分かる。
午前中、屋敷を訪ねてきたのは、若い役人だった。王都の行政に携わり始めたばかりだという。用件は簡単で、教会の再編に伴う、周辺施設の引き継ぎについての確認だった。
「……公爵令嬢にご相談するのは、少し気が引けるのですが」
「構いませんわ。
私も、当事者の一人ですから」
そう答えると、彼はほっとした表情を見せた。
書類を一通り確認し、必要な助言だけを伝える。どれも、派手な判断ではない。現実的で、慎重で、少しだけ面倒な選択だ。
それでも、役人は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。
……奇跡がなくても、回るものですね」
その言葉に、ヘレンは小さく笑った。
「奇跡がなくても、
回るようにするのが仕事ですもの」
役人が去ったあと、静けさが戻る。
紅茶を淹れ、窓際の椅子に腰を下ろす。
ふと、頭をよぎるのは、選ばなかった道のことだ。
もし、婚約破棄のあの日、
怒りに任せて声を荒げていたら。
もし、聖女の名を自ら名乗り、
表舞台に立っていたら。
その道は、今よりもずっと分かりやすく、
ずっと称賛されていたかもしれない。
だが同時に、
また別の期待に縛られ、
また別の役割を背負っていただろう。
(……それは、もう十分ですわ)
選ばれなかった道は、
必ずしも間違いではない。
ただ、今の自分には必要なかった。
それだけのことだ。
午後、庭を歩く。木陰に咲いた花は、誰に見せるためでもなく、ただそこにある。水をやり、手入れをし、季節が来れば咲く。奇跡の介入はない。
それでも、美しい。
夕方、屋敷に戻る途中、使用人が何気なく話しかけてきた。
「最近、お嬢様はお忙しそうでも、
どこか楽しそうですね」
ヘレンは、少し考えてから答える。
「ええ。
ようやく、自分の速度で歩いていますから」
その言葉に、使用人はよく分からないまま頷いた。
夜、書斎で灯りを落とし、本を閉じる。
今日も、誰にも名前を呼ばれなかった。
それが、心地いい。
選ばれなかった道の先で、
選び直した日常を、
彼女は確かに生きている。
そして、その静かな確信こそが、
今のヘレン・バートンにとって、
何よりの支えだった。
初夏の気配が、王都に混じり始めていた。
朝の空気は軽く、窓を開けると風がすっと通り抜ける。冬の名残も、春の湿りも、もうここにはない。季節が一段階、確かに進んだことを、ヘレン・バートンは肌で感じていた。
執務室の机に向かい、今日の予定を確認する。特別な会合はなく、急ぎの用件もない。領地から届く報告は順調で、修繕計画も予定通りだ。どれも、静かに積み上がる仕事ばかりだった。
(……悪くない日ですわね)
前世であれば、こうした日は落ち着かなかった。何も起きないことを「見落とし」と捉え、どこかで誰かが助けを求めているのではないかと、常に気を張っていた。だが今は違う。何も起きないことが、きちんと管理されている結果だと分かる。
午前中、屋敷を訪ねてきたのは、若い役人だった。王都の行政に携わり始めたばかりだという。用件は簡単で、教会の再編に伴う、周辺施設の引き継ぎについての確認だった。
「……公爵令嬢にご相談するのは、少し気が引けるのですが」
「構いませんわ。
私も、当事者の一人ですから」
そう答えると、彼はほっとした表情を見せた。
書類を一通り確認し、必要な助言だけを伝える。どれも、派手な判断ではない。現実的で、慎重で、少しだけ面倒な選択だ。
それでも、役人は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。
……奇跡がなくても、回るものですね」
その言葉に、ヘレンは小さく笑った。
「奇跡がなくても、
回るようにするのが仕事ですもの」
役人が去ったあと、静けさが戻る。
紅茶を淹れ、窓際の椅子に腰を下ろす。
ふと、頭をよぎるのは、選ばなかった道のことだ。
もし、婚約破棄のあの日、
怒りに任せて声を荒げていたら。
もし、聖女の名を自ら名乗り、
表舞台に立っていたら。
その道は、今よりもずっと分かりやすく、
ずっと称賛されていたかもしれない。
だが同時に、
また別の期待に縛られ、
また別の役割を背負っていただろう。
(……それは、もう十分ですわ)
選ばれなかった道は、
必ずしも間違いではない。
ただ、今の自分には必要なかった。
それだけのことだ。
午後、庭を歩く。木陰に咲いた花は、誰に見せるためでもなく、ただそこにある。水をやり、手入れをし、季節が来れば咲く。奇跡の介入はない。
それでも、美しい。
夕方、屋敷に戻る途中、使用人が何気なく話しかけてきた。
「最近、お嬢様はお忙しそうでも、
どこか楽しそうですね」
ヘレンは、少し考えてから答える。
「ええ。
ようやく、自分の速度で歩いていますから」
その言葉に、使用人はよく分からないまま頷いた。
夜、書斎で灯りを落とし、本を閉じる。
今日も、誰にも名前を呼ばれなかった。
それが、心地いい。
選ばれなかった道の先で、
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彼女は確かに生きている。
そして、その静かな確信こそが、
今のヘレン・バートンにとって、
何よりの支えだった。
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