聖女と呼ばれたくなかった公爵令嬢は、静かにざまぁを選ぶ

ふわふわ

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第三十三話 それでも残るもの

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第三十三話 それでも残るもの

 季節は、確実に夏へ向かっていた。

 王都の朝は早く、窓から差し込む光も強さを増している。庭に立つ木々は葉を広げ、影の形も日ごとに変わる。ヘレン・バートンは、その変化をぼんやりと眺めながら、一日の始まりを迎えていた。

 今日も、特別な予定はない。

 それが、少し前までなら信じられなかった。王太子との婚約があり、聖女騒動に巻き込まれ、教会の歪みを間近で見てきた日々。常に何かが起き、何かを判断し、何かを終わらせなければならなかった。

 今は違う。

 何も起きないことが、日常になっている。

 執務室で領地からの報告書を開く。収穫の見込み、灌漑の状況、街道の整備計画。数字と文章が並ぶだけの紙だが、そこには確かな生活が詰まっている。

(奇跡より、ずっと重たいですわね)

 誰かが祈れば叶うものではない。
 誰かが叫べば変わるものでもない。

 だが、確実に人の暮らしを支えている。

 午前中、屋敷に一通の手紙が届いた。差出人は、かつて教会で働いていた修道女の一人。名前も肩書も、もう使っていないらしい。内容は簡潔だった。

 ――地方の孤児院で、子どもたちの世話をしている。
 ――奇跡は起きないが、毎日は忙しく、充実している。
 ――あの時、黙って見送ってくれたことに、感謝している。

 ヘレンは、手紙を読み終え、静かに封を閉じた。

(……残るものは、ちゃんと残りますわね)

 すべてが崩れたように見えても、
 人の意思まで消えるわけではない。

 形を変え、場所を変え、
 それでも、続いていく。

 午後、屋敷の裏庭で、使用人たちが夏支度を進めている。布を干し、窓を開け、家具を動かす。その様子を眺めながら、ヘレンはふと前世を思い出す。

 聖女ヘレンヘレンとして、
 「救い」を与えていた頃。

 あの頃は、自分がいなければ何も始まらないと思っていた。だが今なら分かる。救われたのではなく、背中を押されただけの人も多かったのだと。

 押す役目が終われば、
 その先は、本人が歩く。

 夕方、紅茶を淹れながら、ヘレンは静かに考える。

(私は、何を残したのかしら)

 奇跡でも、伝説でもない。
 名声でも、恐怖でもない。

 残ったのは、
 嘘が暴かれたという事実と、
 自分で考え始めた人々。

 それで、十分だった。

 夜、書斎で灯りを落とし、窓を開ける。夏の匂いを含んだ風が、静かに流れ込む。

 遠くで聞こえるのは、
 人の声、
 馬車の音、
 生活の気配。

 奇跡はない。
 聖女もいない。

 それでも、世界はちゃんと続いている。

 ヘレンは、椅子に腰掛け、目を閉じた。

 すべてを変えなくてもいい。
 すべてを救わなくてもいい。

 それでも、
 何かは残る。

 そして、その「何か」を信じられるようになったこと自体が、
 彼女にとって、
 最大の変化だった。

 ――それでも残るもの。

 それは、
 静かで、
 確かで、
 決して派手ではないが、
 確実に、
 この世界に根を下ろしていた。
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