聖女と呼ばれたくなかった公爵令嬢は、静かにざまぁを選ぶ

ふわふわ

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第三十四話 振り返らない理由

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第三十四話 振り返らない理由

 真夏の陽射しが、王都を包み込んでいた。

 石畳は白く照り返し、空気はゆっくりと揺れている。人々は日陰を選んで歩き、店先では冷たい飲み物が売られ始めた。季節は確実に進み、立ち止まる者を置き去りにしていく。

 ヘレン・バートンは、屋敷の奥にある静かな部屋で帳簿を確認していた。窓は半分ほど開けられ、風が紙をわずかに揺らす。書類の内容は、今年後半の支出計画と、来年に向けた投資の検討。派手さはないが、領地の未来を左右する大切な数字だ。

(……こうして数字を追う日が来るなんて)

 かつては、想像もしなかった。

 王太子の婚約者として見られ、聖女の転生かもしれないと囁かれ、教会の歪みを間近で見てきた日々。その中心にあったのは、いつも「過去」だった。前例、伝説、役割、期待。誰かが決めた物語の続きを、無意識に歩かされていた。

 今は違う。

 向き合っているのは、まだ形になっていない未来だ。

 午前中、屋敷を訪れたのは領地の代官だった。畑の用水路についての相談で、雨量の変化に合わせた改修案を持ってきている。

「昨年までのやり方では、どうしても無理が出ます」

「ええ。
 過去の成功が、今も通用するとは限りませんわ」

 地図を広げながら、二人で検討を進める。どこを広げ、どこを残し、どこを切り捨てるか。どれも、振り返るより先を見る判断だ。

 話が終わり、代官が帰ったあと、ヘレンはふと気づく。

(私は……もう、後ろを見ていませんわね)

 教会のことも、聖女の名も、王太子との婚約も。思い出すことはあっても、引き戻されることはない。

 それは、忘れたからではない。
 整理がついたからだ。

 午後、屋敷の回廊を歩いていると、使用人たちの会話が耳に入る。

「最近、昔の話をなさらなくなりましたね」
「ええ。でも、その方が安心します」

 ヘレンは、その言葉に足を止めなかった。

 昔の話をしなくなったのは、
 今の話が増えたからだ。

 夕方、庭の木陰に腰を下ろし、冷たい飲み物を口にする。葉の隙間から差し込む光が、ゆっくりと地面を移動していく。時間が流れていることを、これほどはっきりと感じたことはなかった。

 前世では、時間は区切りのない連続だった。祈りは終わらず、期待も尽きなかった。だが今は、一日が終わり、また新しい一日が始まる。

 その区切りが、心を軽くする。

(振り返らない理由は、
 前に進んでいるからですわね)

 夜、書斎で灯りをともす。窓の外では、夏の虫が鳴き始めている。机の上には、明日の予定が書かれた紙が一枚。そこに、過去の文字はない。

 ヘレンは、椅子に深く腰掛け、目を閉じた。

 もう、証明する必要はない。
 誰かの期待に応える必要もない。

 振り返らなくていいのは、
 忘れたからではなく、
 今が満たされているからだ。

 静かな夜の中で、
 彼女は確信していた。

 ――私は、ちゃんと前を向いている。

 それだけで、十分だった。
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