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第三十六話 誰のためでもなく
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第三十六話 誰のためでもなく
朝の空気が、わずかに冷たくなっていた。
窓を開けると、夏の名残と秋の気配が入り混じった風が入ってくる。王都は相変わらず忙しく、誰も季節の変化を大げさには語らない。ただ、服装が少し変わり、食卓の品が少し変わる。それだけで、人々は前へ進んでいく。
ヘレン・バートンは、その変化を静かに受け止めていた。
執務室で今日の予定を確認する。領地の視察報告、倉庫の整理、冬に向けた備蓄の計画。どれも、誰かに見せるための仕事ではない。拍手も称賛もないが、確実に必要なことだ。
(……誰のためにしているのか、
もう迷いませんわね)
前世では、その問いに答えを出せなかった。
人々のため。
世界のため。
神のため。
どれも立派で、どれも曖昧だった。
今は違う。
これは、自分が選んだ責任だ。
だから、他人の評価はいらない。
午前中、領地から戻った役人が報告に訪れる。収穫は安定し、備蓄も順調だという。特別な成功はないが、失敗もない。
「このままいけば、冬も問題なく越せます」
「そう。
それなら十分ですわ」
役人は一瞬、拍子抜けしたような顔をしたが、すぐに納得した表情に変わった。派手な成果を求められない仕事ほど、続けやすいものはない。
午後、ヘレンは屋敷の裏手にある小さな書庫を整理していた。古い記録や帳面、使われなくなった書類。そこには、過去の判断や選択が積み重なっている。
ふと、一枚の古い紙に目が留まる。
王太子との婚約が正式に決まった日の記録。
手に取り、少しだけ眺めてから、元の場所に戻す。
(もう、意味はありませんわね)
怒りも、悲しみも湧かない。
ただ、遠い出来事として受け止められる。
それは、忘れたからではない。
自分の中で、終わったからだ。
夕方、庭を歩いていると、使用人たちが冬支度の話をしていた。薪の量、毛布の数、屋敷の隙間風。現実的で、具体的な話題ばかりだ。
ヘレンは、その会話を聞きながら思う。
(奇跡より、
よほど人を守りますわね)
前世では、祈り一つで救えた命もあった。
だが今は、備え一つで守れる生活がある。
どちらが上かではない。
ただ、今の自分には、こちらが合っている。
夜、書斎で灯りを落とし、椅子に深く腰掛ける。今日一日を振り返っても、劇的な出来事は何もない。誰かに感謝される場面もなかった。
それでも、胸の奥は静かに満たされている。
誰のためでもなく、
期待に応えるためでもなく、
自分が選び、自分が続けている日々。
ヘレンは、静かに目を閉じた。
――これでいい。
そう言えることが、
かつては、どれほど難しかったか。
今はもう、
自分の選択を、
誰かの言葉で補強する必要はない。
この日常は、
誰のためでもなく、
確かに、
彼女自身のものだった。
朝の空気が、わずかに冷たくなっていた。
窓を開けると、夏の名残と秋の気配が入り混じった風が入ってくる。王都は相変わらず忙しく、誰も季節の変化を大げさには語らない。ただ、服装が少し変わり、食卓の品が少し変わる。それだけで、人々は前へ進んでいく。
ヘレン・バートンは、その変化を静かに受け止めていた。
執務室で今日の予定を確認する。領地の視察報告、倉庫の整理、冬に向けた備蓄の計画。どれも、誰かに見せるための仕事ではない。拍手も称賛もないが、確実に必要なことだ。
(……誰のためにしているのか、
もう迷いませんわね)
前世では、その問いに答えを出せなかった。
人々のため。
世界のため。
神のため。
どれも立派で、どれも曖昧だった。
今は違う。
これは、自分が選んだ責任だ。
だから、他人の評価はいらない。
午前中、領地から戻った役人が報告に訪れる。収穫は安定し、備蓄も順調だという。特別な成功はないが、失敗もない。
「このままいけば、冬も問題なく越せます」
「そう。
それなら十分ですわ」
役人は一瞬、拍子抜けしたような顔をしたが、すぐに納得した表情に変わった。派手な成果を求められない仕事ほど、続けやすいものはない。
午後、ヘレンは屋敷の裏手にある小さな書庫を整理していた。古い記録や帳面、使われなくなった書類。そこには、過去の判断や選択が積み重なっている。
ふと、一枚の古い紙に目が留まる。
王太子との婚約が正式に決まった日の記録。
手に取り、少しだけ眺めてから、元の場所に戻す。
(もう、意味はありませんわね)
怒りも、悲しみも湧かない。
ただ、遠い出来事として受け止められる。
それは、忘れたからではない。
自分の中で、終わったからだ。
夕方、庭を歩いていると、使用人たちが冬支度の話をしていた。薪の量、毛布の数、屋敷の隙間風。現実的で、具体的な話題ばかりだ。
ヘレンは、その会話を聞きながら思う。
(奇跡より、
よほど人を守りますわね)
前世では、祈り一つで救えた命もあった。
だが今は、備え一つで守れる生活がある。
どちらが上かではない。
ただ、今の自分には、こちらが合っている。
夜、書斎で灯りを落とし、椅子に深く腰掛ける。今日一日を振り返っても、劇的な出来事は何もない。誰かに感謝される場面もなかった。
それでも、胸の奥は静かに満たされている。
誰のためでもなく、
期待に応えるためでもなく、
自分が選び、自分が続けている日々。
ヘレンは、静かに目を閉じた。
――これでいい。
そう言えることが、
かつては、どれほど難しかったか。
今はもう、
自分の選択を、
誰かの言葉で補強する必要はない。
この日常は、
誰のためでもなく、
確かに、
彼女自身のものだった。
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