聖女と呼ばれたくなかった公爵令嬢は、静かにざまぁを選ぶ

ふわふわ

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第三十八話 静かな確信

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第三十八話 静かな確信

 夜明け前、屋敷はまだ眠りの中にあった。

 廊下を歩く足音もなく、使用人たちの気配もない。ヘレン・バートンは、書斎の窓辺に立ち、薄く白み始めた空を眺めていた。夜と朝の境目は、いつも曖昧だ。どちらとも言えない色が、ゆっくりと空を塗り替えていく。

(変わるときというのは、
 いつも、こんなふうに静かですのね)

 かつての自分は、変化をもっと劇的なものだと思っていた。雷鳴のような啓示、天から降る光、人々の歓声。そうしたものがなければ、何かが変わったとは言えない気がしていた。

 だが今は違う。

 誰にも気づかれないまま、
 それでも確実に、世界は動いている。

 机に戻り、未開封の書簡に手を伸ばす。封蝋には、教会の印が押されていた。しばらく眺めてから、ゆっくりと開く。

 内容は簡潔だった。
 教会の再編についての通知。
 過去の「奇跡」に関する記録の見直し。
 護符や聖具の価格を、適正なものへ戻す決定。

 言葉は丁寧で、どこまでも事務的だ。
 そこに、謝罪の文言はない。

(……それでいいのですわ)

 許しを請われたいわけではない。
 感謝されたかったわけでもない。

 ただ、嘘が正され、
 それが続くなら。

 それで、十分だった。

 朝食の席で、執事が報告を持ってくる。王都では、教会に対する過剰な熱狂が落ち着き、代わりに自治や互助の話題が増えているという。井戸の管理、共同倉庫、孤児の世話。

「奇跡を待たずとも、
 やれることはある、という声が多く」

「そう……」

 ヘレンは、紅茶を一口含み、静かに頷いた。

 それは、かつて自分が何度も口にできなかった言葉だった。

 午前中、屋敷を訪れたのは、若い貴族の女性だった。かつては教会に多額の寄付をしていたが、今は別の形で人を支えたいという。

「何をすればいいのか、正直わかりませんの」

「最初は、わからなくて当然ですわ」

 ヘレンは、柔らかく微笑む。

「小さなことでいいのです。
 自分の手が届く範囲から」

 その言葉に、女性は少し安心したように息を吐いた。

 奇跡は、見るものだった。
 だが、日常は、触れるものだ。

 午後、庭を歩きながら、ヘレンはふと足を止める。以前、聖女マルガレーテの騒動で人々が集まり、ざわめいていた場所。今はただ、落ち葉が積もる静かな一角になっている。

(あの時、
 私は怒っていましたわね)

 詐欺に加担させられたこと。
 自分の名を、過去を、利用されたこと。

 だが今、その怒りは形を変えていた。

 同じことが、繰り返されないように。
 それだけを願う、穏やかな感情へと。

 夕暮れ、書斎で帳簿を閉じる。今日も特別な事件は起きなかった。誰かが奇跡を起こしたわけでも、劇的に救われたわけでもない。

 それでも、確かな手応えがある。

 これは、後戻りしない流れだ。

 夜、ランプの灯りを落とす前に、ヘレンは小さく呟く。

「……聖女でなくて、よかった」

 それは、否定でも逃避でもない。
 ただの、事実の確認だった。

 奇跡を失ったのではない。
 手放したのだ。

 その代わりに得たものは、
 静かで、地味で、
 それでも、揺るがない。

 ベッドに横たわり、目を閉じる。

 胸の奥にあるのは、
 確信だった。

 ――もう、迷わない。

 この日常は、
 誰かに与えられたものではなく、
 自分で選び取ったもの。

 だからこそ、
 これから先、
 何が起きても。

 ヘレン・バートンは、
 この場所に立ち続ける。
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