2 / 32
第2話 地に堕ちた令嬢への視線
しおりを挟む
第2話 地に堕ちた令嬢への視線
ざわめきは、嵐のように広間を駆け巡った。
先ほどまで祝福と羨望に満ちていた視線は、瞬く間に好奇と侮蔑へと色を変え、倒れ込むエレナ・フォン・ローレンツへ容赦なく突き刺さる。
「婚約破棄……? 本当に?」 「まさか、あの公爵令嬢が……」 「王太子妃の座から転げ落ちるなんて」
ひそひそとした囁きは、耳を塞ぎたくなるほど鮮明に届いた。
エレナは床に膝をつき、必死に身体を支えようとするが、力が入らない。胸の奥が締めつけられ、呼吸が浅く、苦しい。
――立たなければ。
そう思うのに、足は言うことを聞かなかった。
「エレナ様!」
誰かが駆け寄る気配がした。侍女だろうか、それとも同情心を装った誰かか。
だが、その声よりも先に、冷ややかな声が彼女の上から降ってくる。
「見苦しいな。いつまで床に這いつくばっているつもりだ」
ルイスだった。
見下ろす瞳には、かつてエレナが知っていた優しさの欠片もない。
「……殿下……」
掠れた声で名を呼ぶと、彼は眉をひそめた。
「もう私を殿下などと呼ぶ必要はない。婚約は破棄されたのだから」
その言葉は刃のように鋭く、エレナの胸を深く抉った。
彼女は震える指先で床を掴み、ゆっくりと顔を上げる。
「……理由を、お聞かせいただけますか」
精一杯の問いだった。
せめて、納得できる理由が欲しかった。幼い頃から積み重ねてきた時間を、努力を、想いを――無意味だったと切り捨てられるには、あまりにも一方的すぎる。
しかし、返ってきたのは嘲笑だった。
「理由? さっき言っただろう。お前は退屈なんだ。癒しの魔法しか能のない女など、王妃には不要だ」
ルイスは肩をすくめる。
「その点、アリアは違う。未来を見通す力を持ち、私を導いてくれる」
「まあ、殿下……」
アリアが一歩前に出て、わざとらしくルイスの腕にすがりついた。
その瞳は潤んでいるようでいて、奥には隠しきれない優越感が滲んでいる。
「エレナ様、お気を悪くなさらないでくださいね。これは運命なのですわ」
その言葉を聞いた瞬間、エレナの胃の奥がきりりと痛んだ。
運命。
努力も、誠実さも、すべてを踏みにじる便利な言葉。
「……運命、ですか」
絞り出すように呟くと、アリアは小首を傾げた。
「ええ。わたくしの予知では、殿下はわたくしと共にあるべき方。エレナ様は……この先、苦難の道を歩まれると」
まるで忠告するかのような口ぶりだった。
だが、その視線は明らかに、エレナを見下している。
そのとき、広間の奥から重々しい足音が響いた。
「……本当なのか、ルイス殿下」
低く、威厳のある声。
エレナの父、公爵ローレンツが前に出てきたのだ。
彼は娘を一瞥すると、すぐに視線を王太子へと移す。そこに迷いはなかった。
「婚約破棄は、陛下の御裁可を得ているのか」
「もちろんです、公爵」
ルイスは即答した。
「すでに了承は得ている。形式的な発表が遅れただけだ」
その言葉を聞いた瞬間、エレナは理解した。
――父は、知っていたのだ。
期待、助け、庇護。
そんなものは、最初から存在しなかった。
「……父様」
思わず呼ぶと、公爵はため息をついた。
「エレナ。残念だが、これは決定事項だ」
その声は淡々としていて、感情の揺らぎは感じられない。
「家名を守るためにも、これ以上の混乱は避けたい。君は……しばらく王都を離れなさい」
――王都を、離れろ。
それは事実上の追放だった。
「父様……私は……」
「これ以上、恥を重ねるな」
ぴしゃりと言い放たれ、エレナの言葉は遮られる。
周囲から向けられる視線が、さらに冷たくなる。
同情、好奇、嘲り。
そのすべてが混ざり合い、エレナの心を押し潰そうとしていた。
そのときだった。
胸の奥で、何かが脈打った。
――助けたい。
――癒したい。
それとは異なる、もう一つの感情。
――許せない。
黒い、冷たい何かが、静かに広がっていく感覚。
エレナは思わず胸元を押さえた。
(……なに、これ……)
自分の中に、こんな感情があったことを、今まで知らなかった。
けれど、それは確かに存在していて、抑えきれないほど強く、確かな力を伴っていた。
「気分が悪そうだな。医師を呼ぶ必要もあるまい」
ルイスが無関心に言う。
「早々に退場してもらおう。これ以上、祝いの場を白けさせるな」
エレナは唇を噛みしめた。
涙が込み上げるが、ここで泣けば、本当にすべてを失ってしまう気がした。
――いいえ。
今は、耐える。
ゆっくりと立ち上がり、ふらつく足で一歩踏み出す。
「……本日は、お騒がせいたしました」
かろうじて形を保った声でそう告げ、エレナは一礼した。
その姿に、誰も拍手はしない。
ただ、冷たい沈黙だけが残った。
広間を去る直前、エレナは一瞬だけ振り返る。
勝ち誇るアリア。背を向けるルイス。無言の父。
その光景を、深く、深く、胸に刻みつけた。
――忘れない。
癒しの魔法使いとして生きてきた令嬢は、その夜、初めて知る。
奪われた者が抱く、復讐という名の感情を。
そしてそれは、彼女自身さえ知らなかった力を、確かに目覚めさせていた。
ざわめきは、嵐のように広間を駆け巡った。
先ほどまで祝福と羨望に満ちていた視線は、瞬く間に好奇と侮蔑へと色を変え、倒れ込むエレナ・フォン・ローレンツへ容赦なく突き刺さる。
「婚約破棄……? 本当に?」 「まさか、あの公爵令嬢が……」 「王太子妃の座から転げ落ちるなんて」
ひそひそとした囁きは、耳を塞ぎたくなるほど鮮明に届いた。
エレナは床に膝をつき、必死に身体を支えようとするが、力が入らない。胸の奥が締めつけられ、呼吸が浅く、苦しい。
――立たなければ。
そう思うのに、足は言うことを聞かなかった。
「エレナ様!」
誰かが駆け寄る気配がした。侍女だろうか、それとも同情心を装った誰かか。
だが、その声よりも先に、冷ややかな声が彼女の上から降ってくる。
「見苦しいな。いつまで床に這いつくばっているつもりだ」
ルイスだった。
見下ろす瞳には、かつてエレナが知っていた優しさの欠片もない。
「……殿下……」
掠れた声で名を呼ぶと、彼は眉をひそめた。
「もう私を殿下などと呼ぶ必要はない。婚約は破棄されたのだから」
その言葉は刃のように鋭く、エレナの胸を深く抉った。
彼女は震える指先で床を掴み、ゆっくりと顔を上げる。
「……理由を、お聞かせいただけますか」
精一杯の問いだった。
せめて、納得できる理由が欲しかった。幼い頃から積み重ねてきた時間を、努力を、想いを――無意味だったと切り捨てられるには、あまりにも一方的すぎる。
しかし、返ってきたのは嘲笑だった。
「理由? さっき言っただろう。お前は退屈なんだ。癒しの魔法しか能のない女など、王妃には不要だ」
ルイスは肩をすくめる。
「その点、アリアは違う。未来を見通す力を持ち、私を導いてくれる」
「まあ、殿下……」
アリアが一歩前に出て、わざとらしくルイスの腕にすがりついた。
その瞳は潤んでいるようでいて、奥には隠しきれない優越感が滲んでいる。
「エレナ様、お気を悪くなさらないでくださいね。これは運命なのですわ」
その言葉を聞いた瞬間、エレナの胃の奥がきりりと痛んだ。
運命。
努力も、誠実さも、すべてを踏みにじる便利な言葉。
「……運命、ですか」
絞り出すように呟くと、アリアは小首を傾げた。
「ええ。わたくしの予知では、殿下はわたくしと共にあるべき方。エレナ様は……この先、苦難の道を歩まれると」
まるで忠告するかのような口ぶりだった。
だが、その視線は明らかに、エレナを見下している。
そのとき、広間の奥から重々しい足音が響いた。
「……本当なのか、ルイス殿下」
低く、威厳のある声。
エレナの父、公爵ローレンツが前に出てきたのだ。
彼は娘を一瞥すると、すぐに視線を王太子へと移す。そこに迷いはなかった。
「婚約破棄は、陛下の御裁可を得ているのか」
「もちろんです、公爵」
ルイスは即答した。
「すでに了承は得ている。形式的な発表が遅れただけだ」
その言葉を聞いた瞬間、エレナは理解した。
――父は、知っていたのだ。
期待、助け、庇護。
そんなものは、最初から存在しなかった。
「……父様」
思わず呼ぶと、公爵はため息をついた。
「エレナ。残念だが、これは決定事項だ」
その声は淡々としていて、感情の揺らぎは感じられない。
「家名を守るためにも、これ以上の混乱は避けたい。君は……しばらく王都を離れなさい」
――王都を、離れろ。
それは事実上の追放だった。
「父様……私は……」
「これ以上、恥を重ねるな」
ぴしゃりと言い放たれ、エレナの言葉は遮られる。
周囲から向けられる視線が、さらに冷たくなる。
同情、好奇、嘲り。
そのすべてが混ざり合い、エレナの心を押し潰そうとしていた。
そのときだった。
胸の奥で、何かが脈打った。
――助けたい。
――癒したい。
それとは異なる、もう一つの感情。
――許せない。
黒い、冷たい何かが、静かに広がっていく感覚。
エレナは思わず胸元を押さえた。
(……なに、これ……)
自分の中に、こんな感情があったことを、今まで知らなかった。
けれど、それは確かに存在していて、抑えきれないほど強く、確かな力を伴っていた。
「気分が悪そうだな。医師を呼ぶ必要もあるまい」
ルイスが無関心に言う。
「早々に退場してもらおう。これ以上、祝いの場を白けさせるな」
エレナは唇を噛みしめた。
涙が込み上げるが、ここで泣けば、本当にすべてを失ってしまう気がした。
――いいえ。
今は、耐える。
ゆっくりと立ち上がり、ふらつく足で一歩踏み出す。
「……本日は、お騒がせいたしました」
かろうじて形を保った声でそう告げ、エレナは一礼した。
その姿に、誰も拍手はしない。
ただ、冷たい沈黙だけが残った。
広間を去る直前、エレナは一瞬だけ振り返る。
勝ち誇るアリア。背を向けるルイス。無言の父。
その光景を、深く、深く、胸に刻みつけた。
――忘れない。
癒しの魔法使いとして生きてきた令嬢は、その夜、初めて知る。
奪われた者が抱く、復讐という名の感情を。
そしてそれは、彼女自身さえ知らなかった力を、確かに目覚めさせていた。
0
あなたにおすすめの小説
王妃様は死にました~今さら後悔しても遅いです~
由良
恋愛
クリスティーナは四歳の頃、王子だったラファエルと婚約を結んだ。
両親が事故に遭い亡くなったあとも、国王が大病を患い隠居したときも、ラファエルはクリスティーナだけが自分の妻になるのだと言って、彼女を守ってきた。
そんなラファエルをクリスティーナは愛し、生涯を共にすると誓った。
王妃となったあとも、ただラファエルのためだけに生きていた。
――彼が愛する女性を連れてくるまでは。
【完結】✴︎私と結婚しない王太子(あなた)に存在価値はありませんのよ?
綾雅(りょうが)今年は7冊!
恋愛
「エステファニア・サラ・メレンデス――お前との婚約を破棄する」
婚約者であるクラウディオ王太子に、王妃の生誕祝いの夜会で言い渡された私。愛しているわけでもない男に婚約破棄され、断罪されるが……残念ですけど、私と結婚しない王太子殿下に価値はありませんのよ? 何を勘違いしたのか、淫らな恰好の女を伴った元婚約者の暴挙は彼自身へ跳ね返った。
ざまぁ要素あり。溺愛される主人公が無事婚約破棄を乗り越えて幸せを掴むお話。
表紙イラスト:リルドア様(https://coconala.com/users/791723)
【完結】本編63話+外伝11話、2021/01/19
【複数掲載】アルファポリス、小説家になろう、エブリスタ、カクヨム、ノベルアップ+
2021/12 異世界恋愛小説コンテスト 一次審査通過
2021/08/16、「HJ小説大賞2021前期『小説家になろう』部門」一次選考通過
愛されていたのだと知りました。それは、あなたの愛をなくした時の事でした。
桗梛葉 (たなは)
恋愛
リリナシスと王太子ヴィルトスが婚約をしたのは、2人がまだ幼い頃だった。
それから、ずっと2人は一緒に過ごしていた。
一緒に駆け回って、悪戯をして、叱られる事もあったのに。
いつの間にか、そんな2人の関係は、ひどく冷たくなっていた。
変わってしまったのは、いつだろう。
分からないままリリナシスは、想いを反転させる禁忌薬に手を出してしまう。
******************************************
こちらは、全19話(修正したら予定より6話伸びました🙏)
7/22~7/25の4日間は、1日2話の投稿予定です。以降は、1日1話になります。
あなたのことなんて、もうどうでもいいです
もるだ
恋愛
舞踏会でレオニーに突きつけられたのは婚約破棄だった。婚約者の相手にぶつかられて派手に転んだせいで、大騒ぎになったのに……。日々の業務を押しつけられ怒鳴りつけられいいように扱われていたレオニーは限界を迎える。そして、気がつくと魔法が使えるようになっていた。
元婚約者にこき使われていたレオニーは復讐を始める。
【完結】断罪された悪役令嬢は、全てを捨てる事にした
miniko
恋愛
悪役令嬢に生まれ変わったのだと気付いた時、私は既に王太子の婚約者になった後だった。
婚約回避は手遅れだったが、思いの外、彼と円満な関係を築く。
(ゲーム通りになるとは限らないのかも)
・・・とか思ってたら、学園入学後に状況は激変。
周囲に疎まれる様になり、まんまと卒業パーティーで断罪&婚約破棄のテンプレ展開。
馬鹿馬鹿しい。こんな国、こっちから捨ててやろう。
冤罪を晴らして、意気揚々と単身で出国しようとするのだが、ある人物に捕まって・・・。
強制力と言う名の運命に翻弄される私は、幸せになれるのか!?
※感想欄はネタバレあり/なし の振り分けをしていません。本編より先にお読みになる場合はご注意ください。
【完結】ずっと、ずっとあなたを愛していました 〜後悔も、懺悔も今更いりません〜
高瀬船
恋愛
リスティアナ・メイブルムには二歳年上の婚約者が居る。
婚約者は、国の王太子で穏やかで優しく、婚約は王命ではあったが仲睦まじく関係を築けていた。
それなのに、突然ある日婚約者である王太子からは土下座をされ、婚約を解消して欲しいと願われる。
何故、そんな事に。
優しく微笑むその笑顔を向ける先は確かに自分に向けられていたのに。
婚約者として確かに大切にされていたのに何故こうなってしまったのか。
リスティアナの思いとは裏腹に、ある時期からリスティアナに悪い噂が立ち始める。
悪い噂が立つ事など何もしていないのにも関わらず、リスティアナは次第に学園で、夜会で、孤立していく。
「では、ごきげんよう」と去った悪役令嬢は破滅すら置き去りにして
東雲れいな
恋愛
「悪役令嬢」と噂される伯爵令嬢・ローズ。王太子殿下の婚約者候補だというのに、ヒロインから王子を奪おうなんて野心はまるでありません。むしろ彼女は、“わたくしはわたくしらしく”と胸を張り、周囲の冷たい視線にも毅然と立ち向かいます。
破滅を甘受する覚悟すらあった彼女が、誇り高く戦い抜くとき、運命は大きく動きだす。
勝手にしろと言われたので、勝手にさせていただきます
結城芙由奈@コミカライズ3巻7/30発売
恋愛
子爵家の私は自分よりも身分の高い婚約者に、いつもいいように顎でこき使われていた。ある日、突然婚約者に呼び出されて一方的に婚約破棄を告げられてしまう。二人の婚約は家同士が決めたこと。当然受け入れられるはずもないので拒絶すると「婚約破棄は絶対する。後のことなどしるものか。お前の方で勝手にしろ」と言い切られてしまう。
いいでしょう……そこまで言うのなら、勝手にさせていただきます。
ただし、後のことはどうなっても知りませんよ?
* 他サイトでも投稿
* ショートショートです。あっさり終わります
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる