婚約破棄された公爵令嬢ですが、王太子を破滅させたあと静かに幸せになります

ふわふわ

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第2話 地に堕ちた令嬢への視線

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第2話 地に堕ちた令嬢への視線

 ざわめきは、嵐のように広間を駆け巡った。
 先ほどまで祝福と羨望に満ちていた視線は、瞬く間に好奇と侮蔑へと色を変え、倒れ込むエレナ・フォン・ローレンツへ容赦なく突き刺さる。

「婚約破棄……? 本当に?」 「まさか、あの公爵令嬢が……」 「王太子妃の座から転げ落ちるなんて」

 ひそひそとした囁きは、耳を塞ぎたくなるほど鮮明に届いた。
 エレナは床に膝をつき、必死に身体を支えようとするが、力が入らない。胸の奥が締めつけられ、呼吸が浅く、苦しい。

 ――立たなければ。

 そう思うのに、足は言うことを聞かなかった。

「エレナ様!」

 誰かが駆け寄る気配がした。侍女だろうか、それとも同情心を装った誰かか。
 だが、その声よりも先に、冷ややかな声が彼女の上から降ってくる。

「見苦しいな。いつまで床に這いつくばっているつもりだ」

 ルイスだった。
 見下ろす瞳には、かつてエレナが知っていた優しさの欠片もない。

「……殿下……」

 掠れた声で名を呼ぶと、彼は眉をひそめた。

「もう私を殿下などと呼ぶ必要はない。婚約は破棄されたのだから」

 その言葉は刃のように鋭く、エレナの胸を深く抉った。
 彼女は震える指先で床を掴み、ゆっくりと顔を上げる。

「……理由を、お聞かせいただけますか」

 精一杯の問いだった。
 せめて、納得できる理由が欲しかった。幼い頃から積み重ねてきた時間を、努力を、想いを――無意味だったと切り捨てられるには、あまりにも一方的すぎる。

 しかし、返ってきたのは嘲笑だった。

「理由? さっき言っただろう。お前は退屈なんだ。癒しの魔法しか能のない女など、王妃には不要だ」

 ルイスは肩をすくめる。

「その点、アリアは違う。未来を見通す力を持ち、私を導いてくれる」

「まあ、殿下……」

 アリアが一歩前に出て、わざとらしくルイスの腕にすがりついた。
 その瞳は潤んでいるようでいて、奥には隠しきれない優越感が滲んでいる。

「エレナ様、お気を悪くなさらないでくださいね。これは運命なのですわ」

 その言葉を聞いた瞬間、エレナの胃の奥がきりりと痛んだ。
 運命。
 努力も、誠実さも、すべてを踏みにじる便利な言葉。

「……運命、ですか」

 絞り出すように呟くと、アリアは小首を傾げた。

「ええ。わたくしの予知では、殿下はわたくしと共にあるべき方。エレナ様は……この先、苦難の道を歩まれると」

 まるで忠告するかのような口ぶりだった。
 だが、その視線は明らかに、エレナを見下している。

 そのとき、広間の奥から重々しい足音が響いた。

「……本当なのか、ルイス殿下」

 低く、威厳のある声。
 エレナの父、公爵ローレンツが前に出てきたのだ。

 彼は娘を一瞥すると、すぐに視線を王太子へと移す。そこに迷いはなかった。

「婚約破棄は、陛下の御裁可を得ているのか」

「もちろんです、公爵」

 ルイスは即答した。

「すでに了承は得ている。形式的な発表が遅れただけだ」

 その言葉を聞いた瞬間、エレナは理解した。
 ――父は、知っていたのだ。

 期待、助け、庇護。
 そんなものは、最初から存在しなかった。

「……父様」

 思わず呼ぶと、公爵はため息をついた。

「エレナ。残念だが、これは決定事項だ」

 その声は淡々としていて、感情の揺らぎは感じられない。

「家名を守るためにも、これ以上の混乱は避けたい。君は……しばらく王都を離れなさい」

 ――王都を、離れろ。

 それは事実上の追放だった。

「父様……私は……」

「これ以上、恥を重ねるな」

 ぴしゃりと言い放たれ、エレナの言葉は遮られる。

 周囲から向けられる視線が、さらに冷たくなる。
 同情、好奇、嘲り。
 そのすべてが混ざり合い、エレナの心を押し潰そうとしていた。

 そのときだった。

 胸の奥で、何かが脈打った。

 ――助けたい。
 ――癒したい。

 それとは異なる、もう一つの感情。

 ――許せない。

 黒い、冷たい何かが、静かに広がっていく感覚。
 エレナは思わず胸元を押さえた。

(……なに、これ……)

 自分の中に、こんな感情があったことを、今まで知らなかった。
 けれど、それは確かに存在していて、抑えきれないほど強く、確かな力を伴っていた。

「気分が悪そうだな。医師を呼ぶ必要もあるまい」

 ルイスが無関心に言う。

「早々に退場してもらおう。これ以上、祝いの場を白けさせるな」

 エレナは唇を噛みしめた。
 涙が込み上げるが、ここで泣けば、本当にすべてを失ってしまう気がした。

 ――いいえ。

 今は、耐える。

 ゆっくりと立ち上がり、ふらつく足で一歩踏み出す。

「……本日は、お騒がせいたしました」

 かろうじて形を保った声でそう告げ、エレナは一礼した。

 その姿に、誰も拍手はしない。
 ただ、冷たい沈黙だけが残った。

 広間を去る直前、エレナは一瞬だけ振り返る。
 勝ち誇るアリア。背を向けるルイス。無言の父。

 その光景を、深く、深く、胸に刻みつけた。

 ――忘れない。

 癒しの魔法使いとして生きてきた令嬢は、その夜、初めて知る。
 奪われた者が抱く、復讐という名の感情を。

 そしてそれは、彼女自身さえ知らなかった力を、確かに目覚めさせていた。
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