婚約破棄された公爵令嬢ですが、王太子を破滅させたあと静かに幸せになります

ふわふわ

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第9話 治療師エレナ、最初の一歩

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第9話 治療師エレナ、最初の一歩

 小屋での生活が始まってから、三日が過ぎていた。
 エレナの身体は、ようやく森を歩ける程度には回復していたが、無理をすれば再び倒れかねない状態でもある。カイルはそれを見抜いており、必要以上に動こうとするたび、静かに制止した。

「……焦るな。回復には時間が要る」

「分かっています。でも……」

 エレナは窓の外を見つめた。
 森の向こう、ほんの半日ほど歩いた場所に、小さな村があることを、カイルから聞いている。

「いつまでも、ここに甘えるわけにはいきません」

 その言葉に、カイルは否定も肯定もせず、しばらく黙っていた。

「……働きたいのか」

「はい」

 エレナは頷いた。

「誰かの役に立たなければ……私は、また自分を見失ってしまいそうで」

 それは正直な気持ちだった。
 王都で、価値を否定され、存在を切り捨てられた記憶は、まだ生々しく残っている。

 ――役に立たなければ、捨てられる。

 そんな歪んだ思考が、今も心のどこかに巣食っていた。

 カイルは小さく息を吐き、腕を組んだ。

「……村には、医者がいない。簡単な怪我や病気でさえ、放置されがちだ」

 その言葉に、エレナの胸が反応する。

「……行っても、いいでしょうか」

 問いかける声は、わずかに震えていた。

「無理はするな。それだけ守れるなら、止めはしない」

 そう言われ、エレナは深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

 ――――――――

 村は、想像していた以上に素朴だった。
 粗末な木造の家々が点在し、畑と森に囲まれた、小さな集落。王都の華やかさとは無縁の、静かな場所だ。

 エレナは、目立たぬように簡素な外套を羽織り、村の広場へ足を踏み入れた。
 すぐに、数人の村人が不安そうな視線を向けてくる。

(……当然、よね)

 見知らぬよそ者を、簡単に信用する村などない。

「……あの」

 エレナは勇気を振り絞り、声をかけた。

「私、治療の心得があります。怪我や病気でお困りの方がいれば……」

 一瞬、沈黙。
 それから、年配の女性が半信半疑で近づいてきた。

「……本当かい? 医者じゃないんだろう?」

「ええ。でも、癒しの魔法を……」

 言いかけて、エレナは言葉を飲み込んだ。
 魔法使いと名乗ることは、警戒心を強める可能性がある。

「……応急処置なら、できます」

 そう言い直すと、女性は腕を組んで考え込んだ。

「実はね、孫が高い熱を出してて……」

 エレナの胸が、きゅっと締まる。

「……診せてください」

 女性に案内され、小さな家に入る。
 藁の寝床に横たわるのは、まだ幼い少年だった。額は熱く、呼吸も荒い。

(……感染症)

 エレナは一目で状況を把握した。

「少し、触れますね」

 そう断り、そっと手をかざす。

 癒しの魔力を、慎重に、必要最低限だけ流す。
 呪いの力が反応しないよう、意識を集中させる。

 淡い光が、少年を包んだ。

 しばらくして、荒かった呼吸が落ち着き、額の熱が引いていく。

「……あ」

 少年が、ゆっくりと目を開けた。

「……水……」

「すぐに」

 エレナは、そばにあった水を差し出す。

 それを見ていた祖母が、目を見開いた。

「……治った……?」

「完全ではありません。でも、峠は越えました」

 エレナは微笑んだ。

「今夜は、安静にしてください」

 祖母は、震える声で言った。

「……ありがとう。本当に……ありがとう……」

 その言葉を聞いた瞬間、エレナの胸に、温かいものが広がった。

(……私は、役に立てた)

 それは、王都で求められた“価値”とは違う。
 見返りも、称賛もない、ただの感謝。

 だが、それこそが、今のエレナに必要なものだった。

 その日のうちに、噂は村中に広がった。
 怪我人、腹痛に苦しむ者、長く咳が止まらない老人。

 エレナは一人一人に向き合い、決して無理をせず、癒しの魔力を使った。

 夕方、村を出る頃には、足に疲労が溜まっていた。

(……少し、使いすぎたかしら)

 だが、不思議と心は軽かった。

 小屋に戻ると、カイルが腕を組んで待っていた。

「……顔色が悪い」

「でも、後悔はしていません」

 エレナはそう答えた。

「村の人たち……必要としてくれました」

 カイルは、ふっと小さく笑った。

「それでいい」

 その言葉に、エレナは胸の奥がじんと熱くなる。

 癒しの魔法は、役に立たない力ではない。
 王太子が嘲笑したその力で、確かに救われた命がある。

 そして――。

(……呪いの魔力も、静かだ)

 感情に流されず、必要なことだけをしたからだろう。

 エレナは、夜空を見上げながら、静かに思った。

 ――私は、もう一度、ここから生き直せる。

 復讐は、まだ先だ。
 だが、この小さな一歩が、確実に彼女を“取り戻す側”へと導いていた。

 治療師エレナとしての第一歩は、確かに、踏み出されたのだった。
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