婚約破棄された公爵令嬢ですが、王太子を破滅させたあと静かに幸せになります

ふわふわ

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第10話 戻る場所を自ら選ぶということ

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第10話 戻る場所を自ら選ぶということ

 夜明け前の森は、ひどく静かだった。
 星が消え、空が淡く白み始めるその時間帯、エレナは小屋の前で一人、深く息を吸っていた。冷たい空気が肺を満たし、眠りきらない頭をはっきりと目覚めさせる。

(……今日は、村へ行かない)

 昨夜、そう決めた。

 治療師として村人に必要とされたことは、確かに心を支えてくれた。
 だが同時に、無意識のうちに魔力を使いすぎていたことも、はっきり自覚している。

 ――役に立たなければ、存在価値がない。

 その考え方に、また足を取られかけていた。

(……同じ過ちを、繰り返すところだった)

 王都での自分は、まさにそうだった。
 癒しの魔法を使い続け、求められるままに応え、疲弊しても立ち止まらなかった。

 その結果が、あの舞踏会だったのだ。

「……起きていたのか」

 背後から、低い声がした。
 振り返ると、カイルが小屋の扉に寄りかかって立っている。夜番でもしていたのか、まだ外套を羽織ったままだった。

「ええ。少し、考え事を」

 エレナは正直に答えた。

「村へ行くなら、止めはしない」

 カイルはそう言いながら、彼女の表情を観察する。

「だが……行かない顔だな」

 その言葉に、エレナは苦笑した。

「分かりますか」

「ああ。昨日とは違う」

 カイルは一歩近づき、森の方へ視線を向けた。

「村で感謝された。それ自体は悪いことじゃない。だが――」

「……それに、依存しかけていました」

 エレナが先に言葉を継ぐ。

「役に立てた、必要とされた。その事実に……安心してしまって」

 カイルは何も言わず、続きを促すように黙っている。

「それって……王都での私と、同じです」

 声が、少しだけ低くなる。

「王太子に必要とされるために、癒し続けていた。家名のために、耐え続けていた。……その結果、捨てられました」

 エレナは拳を握りしめた。

「私はもう、“居場所を与えられる側”でいたくない」

 静かな決意だった。

 カイルはしばらく黙り込み、それから短く頷いた。

「いい判断だ」

「……え?」

「立ち止まれる奴は、強い」

 その言葉に、エレナは目を見開く。

「多くの人間は、走り続けることでしか自分を保てない。だが、止まって考えられる者は、選べる」

 ――選べる。

 その言葉が、胸に落ちた。

「……私は、どうすればいいでしょうか」

 問いかけは、無意識だった。
 答えを期待していたわけではない。

 カイルは、少し考えてから言った。

「今日一日は、何もしない」

「何も……?」

「ああ。魔力も使うな。誰かを癒そうとするな」

 エレナは戸惑った表情を浮かべる。

「それは……」

「怖いか?」

 カイルは真っ直ぐに問いかけた。

 エレナは、はっとした。

(……怖い)

 何もしなければ、誰の役にも立たない。
 誰にも必要とされない。

 そう思ってしまう自分が、まだいる。

「……はい」

 正直に、頷いた。

「でも、それが答えだ」

 カイルは淡々と言った。

「役に立たなくても、君はここにいていい。それを、まず自分で認めろ」

 胸が、ぎゅっと締めつけられる。

「……そんなの……」

 簡単じゃない、と言いかけて、言葉を飲み込む。

 カイルは、ふっと視線を逸らした。

「……俺も、同じだった」

 ぽつりと、低く。

「役目を失った瞬間、自分には何も残らないと思った。だから、動き続けた。逃げ続けた」

 彼の声には、過去の重みが滲んでいる。

「だが……ここで止まって気づいた。役目がなくても、生きていいと認めなければ、次には進めない」

 エレナは、ゆっくりと息を吐いた。

(……役に立たなくても、ここにいていい)

 その考えは、まだ不安定だ。
 だが、完全に拒絶するほど、遠いものでもない。

「……今日は、何もしません」

 小さく、しかしはっきりと告げる。

 カイルは満足そうに頷いた。

「それでいい」

 ――――――――

 その日、エレナは小屋の周囲を散歩し、薬草を“集めなかった”。
 魔力も使わず、ただ、森の音を聞き、風を感じ、木々の間を歩いた。

 何かを成さなくても、時間は流れる。
 世界は、何も壊れない。

 それが、少しずつ、胸に染みていく。

 夕暮れ時、小屋に戻ると、カイルが焚き火を起こしていた。

「……どうだ」

「……思ったより、苦しくありませんでした」

 そう答えると、彼は小さく笑った。

「だろうな」

 火を挟んで向かい合い、簡素な食事を取る。

 沈黙はあるが、居心地は悪くない。

「……カイル」

 食後、エレナは彼を呼んだ。

「私は、いずれ王都へ戻ります」

 カイルは、驚いた様子を見せない。

「復讐か?」

「……はい。でも、それだけじゃありません」

 エレナは炎を見つめながら続ける。

「奪われた居場所を取り戻すためじゃない。――自分で選んだ場所を、示すためです」

 王太子の婚約者でも、公爵家の令嬢でもない。
 治療師として“使われる存在”でもない。

「私は、もう一度、あの場所に立ちます。今度は……選ぶ側として」

 その宣言に、カイルは静かに目を細めた。

「……ああ。それなら、俺も付き合おう」

 エレナは、はっと顔を上げる。

「それは……」

「勘違いするな」

 彼は淡々と言う。

「俺にも、戻るべき場所がある。目的が重なるなら、共に動くだけだ」

 だが、その声音は、不思議と冷たくなかった。

「……ありがとうございます」

 素直に、そう言えた。

 夜空に、星が浮かぶ。
 追放された夜とは、まるで違う輝きだった。

 エレナは、その光を見上げながら思う。

 ――私はもう、与えられる居場所を待たない。

 自分で選び、自分で立つ。

 その決意が、確かに彼女の中で根を張り始めていた。
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