12 / 32
第12話 噂は静かに広がり、牙は内側から迫る
しおりを挟む
第12話 噂は静かに広がり、牙は内側から迫る
翌朝、森は霧に包まれていた。
白く濁った空気が木々の間を漂い、視界は数歩先までしか利かない。昨夜の出来事が嘘だったかのような静けさだが、エレナの胸の内は、妙に冴え渡っていた。
(……あれは、偶然じゃない)
焚き火の灰を片づけながら、エレナは昨夜の“探す側の人間”を思い返す。
村の住民ではない。狩人とも違う。足運びは慣れていて、目的を持った動きだった。
――追われているのは、私だけじゃない。
その可能性が、はっきりと形を持ち始めている。
「考え事か」
背後から、カイルの声がした。
彼はすでに外套を整え、森へ出る準備をしている。
「……昨夜の人たちのことです」
エレナは正直に答えた。
「村の方向から来ていました。偶然ではないと思います」
「だろうな」
カイルは短く頷いた。
「村で治療をしただろう。噂は、もう動き始めている」
その言葉に、エレナは胸を押さえた。
「……やはり、魔法を使ったことが……」
「違う」
カイルはきっぱりと言った。
「癒しの魔法そのものじゃない。“癒せる女がいる”という事実だ」
エレナは、はっとする。
王都では、癒しの魔法はありふれた力だと言われた。
だが、それは宮廷という特殊な場所での話だ。
医者も薬も不足する辺境では、一人の治療師が持つ価値は、比べものにならない。
「……狙われる、ということですか」
「利用される、という方が近い」
カイルは静かに続けた。
「傭兵、盗賊、あるいは……どこかの貴族の手の者」
最後の言葉に、エレナの背筋が冷える。
(……王都)
まだ、完全に切り離されたわけではない。
「……村へは、しばらく行かない方がいいですね」
「ああ」
カイルは同意した。
「だが、もう遅いかもしれない」
小屋の外で、木の枝が折れる音がした。
昨夜とは違う。足音は重く、数も多い。
「……来た」
カイルは即座に剣に手をかける。
エレナは、深く息を吸った。
(……逃げる?)
だが、霧の中で逃げれば、かえって危険だ。
そして何より――。
(……私は、もうただ守られるだけじゃない)
エレナは、静かに一歩前へ出た。
「……私が、話します」
カイルは驚いたように彼女を見る。
「相手は善意とは限らない」
「分かっています」
エレナは、はっきりと答えた。
「でも……私が“どういう存在か”を示さなければ、終わりません」
癒しの魔法使いとしてではない。
奪われる存在としてでもない。
――選ぶ側として。
霧の向こうから、人影が現れた。
三人。粗末だが手入れの行き届いた装備。傭兵だ。
「……よう」
先頭の男が、にやりと笑う。
「ここに、治療ができる女がいると聞いてな」
エレナは一歩も引かず、彼らを見据えた。
「……どこで、その話を」
「村だよ。口が軽い連中だ」
男は、遠慮なく言った。
「俺たちは悪さをしに来たわけじゃない。ちょっと、雇いたいだけだ」
「……雇う?」
「ああ」
男は肩をすくめる。
「俺たちの仲間を治してもらう。その代わり、守ってやる。悪い話じゃないだろ」
守る、という言葉が、やけに軽い。
エレナは、静かに首を振った。
「……お断りします」
男たちの笑みが、ぴたりと止まる。
「は?」
「私は、誰かに“所有”されるつもりはありません」
その声は、震えていなかった。
「必要なら、正当な対価と条件を提示してください。それができないなら……帰ってください」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、男の表情が歪む。
「……ずいぶん、偉そうだな」
剣の柄に、手がかかる。
カイルが前に出ようとするのを、エレナはそっと制した。
(……大丈夫)
胸の奥で、冷たい力が静かに広がる。
昨夜の感覚を、思い出す。
怒りは混ぜない。
恐怖も、混ぜない。
ただ――境界を引く。
「……これ以上、近づかないでください」
エレナが告げた瞬間、空気が張り詰めた。
「……また、これか……!」
男の一人が、足を止める。
「動けねぇ……!」
目に見えない壁が、三人を阻んでいた。
「……女、何をした」
「何も」
エレナは、静かに答えた。
「ただ……拒んでいるだけです」
数秒の緊張の後、先頭の男が舌打ちした。
「……面倒な女だ」
剣から手を離し、後退する。
「今は引く。だが……覚えておけ」
霧の中へ、三人の気配が消えていく。
エレナは、ゆっくりと息を吐いた。
「……はぁ……」
足から、力が抜けそうになる。
カイルが、すぐに支えた。
「上出来だ」
低く、しかしはっきりとした声だった。
「選んだな。自分で」
エレナは、かすかに笑った。
「……はい」
霧が、少しずつ晴れていく。
木々の輪郭が、再びはっきりと見え始めた。
噂は、確かに広がっている。
だが、それは危機であると同時に――道標でもあった。
エレナは理解していた。
この先、彼女を求める者は増える。
利用しようとする者も、支配しようとする者も現れるだろう。
だからこそ。
――選ばなければならない。
誰に力を使うのか。
どこに立つのか。
そして、いつか。
この噂は、王都へも届く。
その時、エレナはもう、追放された令嬢ではない。
静かに、しかし確実に――“戻る力”を持つ者になっている。
森の朝は、そう告げるかのように、静かに光を取り戻していた。
翌朝、森は霧に包まれていた。
白く濁った空気が木々の間を漂い、視界は数歩先までしか利かない。昨夜の出来事が嘘だったかのような静けさだが、エレナの胸の内は、妙に冴え渡っていた。
(……あれは、偶然じゃない)
焚き火の灰を片づけながら、エレナは昨夜の“探す側の人間”を思い返す。
村の住民ではない。狩人とも違う。足運びは慣れていて、目的を持った動きだった。
――追われているのは、私だけじゃない。
その可能性が、はっきりと形を持ち始めている。
「考え事か」
背後から、カイルの声がした。
彼はすでに外套を整え、森へ出る準備をしている。
「……昨夜の人たちのことです」
エレナは正直に答えた。
「村の方向から来ていました。偶然ではないと思います」
「だろうな」
カイルは短く頷いた。
「村で治療をしただろう。噂は、もう動き始めている」
その言葉に、エレナは胸を押さえた。
「……やはり、魔法を使ったことが……」
「違う」
カイルはきっぱりと言った。
「癒しの魔法そのものじゃない。“癒せる女がいる”という事実だ」
エレナは、はっとする。
王都では、癒しの魔法はありふれた力だと言われた。
だが、それは宮廷という特殊な場所での話だ。
医者も薬も不足する辺境では、一人の治療師が持つ価値は、比べものにならない。
「……狙われる、ということですか」
「利用される、という方が近い」
カイルは静かに続けた。
「傭兵、盗賊、あるいは……どこかの貴族の手の者」
最後の言葉に、エレナの背筋が冷える。
(……王都)
まだ、完全に切り離されたわけではない。
「……村へは、しばらく行かない方がいいですね」
「ああ」
カイルは同意した。
「だが、もう遅いかもしれない」
小屋の外で、木の枝が折れる音がした。
昨夜とは違う。足音は重く、数も多い。
「……来た」
カイルは即座に剣に手をかける。
エレナは、深く息を吸った。
(……逃げる?)
だが、霧の中で逃げれば、かえって危険だ。
そして何より――。
(……私は、もうただ守られるだけじゃない)
エレナは、静かに一歩前へ出た。
「……私が、話します」
カイルは驚いたように彼女を見る。
「相手は善意とは限らない」
「分かっています」
エレナは、はっきりと答えた。
「でも……私が“どういう存在か”を示さなければ、終わりません」
癒しの魔法使いとしてではない。
奪われる存在としてでもない。
――選ぶ側として。
霧の向こうから、人影が現れた。
三人。粗末だが手入れの行き届いた装備。傭兵だ。
「……よう」
先頭の男が、にやりと笑う。
「ここに、治療ができる女がいると聞いてな」
エレナは一歩も引かず、彼らを見据えた。
「……どこで、その話を」
「村だよ。口が軽い連中だ」
男は、遠慮なく言った。
「俺たちは悪さをしに来たわけじゃない。ちょっと、雇いたいだけだ」
「……雇う?」
「ああ」
男は肩をすくめる。
「俺たちの仲間を治してもらう。その代わり、守ってやる。悪い話じゃないだろ」
守る、という言葉が、やけに軽い。
エレナは、静かに首を振った。
「……お断りします」
男たちの笑みが、ぴたりと止まる。
「は?」
「私は、誰かに“所有”されるつもりはありません」
その声は、震えていなかった。
「必要なら、正当な対価と条件を提示してください。それができないなら……帰ってください」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、男の表情が歪む。
「……ずいぶん、偉そうだな」
剣の柄に、手がかかる。
カイルが前に出ようとするのを、エレナはそっと制した。
(……大丈夫)
胸の奥で、冷たい力が静かに広がる。
昨夜の感覚を、思い出す。
怒りは混ぜない。
恐怖も、混ぜない。
ただ――境界を引く。
「……これ以上、近づかないでください」
エレナが告げた瞬間、空気が張り詰めた。
「……また、これか……!」
男の一人が、足を止める。
「動けねぇ……!」
目に見えない壁が、三人を阻んでいた。
「……女、何をした」
「何も」
エレナは、静かに答えた。
「ただ……拒んでいるだけです」
数秒の緊張の後、先頭の男が舌打ちした。
「……面倒な女だ」
剣から手を離し、後退する。
「今は引く。だが……覚えておけ」
霧の中へ、三人の気配が消えていく。
エレナは、ゆっくりと息を吐いた。
「……はぁ……」
足から、力が抜けそうになる。
カイルが、すぐに支えた。
「上出来だ」
低く、しかしはっきりとした声だった。
「選んだな。自分で」
エレナは、かすかに笑った。
「……はい」
霧が、少しずつ晴れていく。
木々の輪郭が、再びはっきりと見え始めた。
噂は、確かに広がっている。
だが、それは危機であると同時に――道標でもあった。
エレナは理解していた。
この先、彼女を求める者は増える。
利用しようとする者も、支配しようとする者も現れるだろう。
だからこそ。
――選ばなければならない。
誰に力を使うのか。
どこに立つのか。
そして、いつか。
この噂は、王都へも届く。
その時、エレナはもう、追放された令嬢ではない。
静かに、しかし確実に――“戻る力”を持つ者になっている。
森の朝は、そう告げるかのように、静かに光を取り戻していた。
0
あなたにおすすめの小説
王妃様は死にました~今さら後悔しても遅いです~
由良
恋愛
クリスティーナは四歳の頃、王子だったラファエルと婚約を結んだ。
両親が事故に遭い亡くなったあとも、国王が大病を患い隠居したときも、ラファエルはクリスティーナだけが自分の妻になるのだと言って、彼女を守ってきた。
そんなラファエルをクリスティーナは愛し、生涯を共にすると誓った。
王妃となったあとも、ただラファエルのためだけに生きていた。
――彼が愛する女性を連れてくるまでは。
【完結】✴︎私と結婚しない王太子(あなた)に存在価値はありませんのよ?
綾雅(りょうが)今年は7冊!
恋愛
「エステファニア・サラ・メレンデス――お前との婚約を破棄する」
婚約者であるクラウディオ王太子に、王妃の生誕祝いの夜会で言い渡された私。愛しているわけでもない男に婚約破棄され、断罪されるが……残念ですけど、私と結婚しない王太子殿下に価値はありませんのよ? 何を勘違いしたのか、淫らな恰好の女を伴った元婚約者の暴挙は彼自身へ跳ね返った。
ざまぁ要素あり。溺愛される主人公が無事婚約破棄を乗り越えて幸せを掴むお話。
表紙イラスト:リルドア様(https://coconala.com/users/791723)
【完結】本編63話+外伝11話、2021/01/19
【複数掲載】アルファポリス、小説家になろう、エブリスタ、カクヨム、ノベルアップ+
2021/12 異世界恋愛小説コンテスト 一次審査通過
2021/08/16、「HJ小説大賞2021前期『小説家になろう』部門」一次選考通過
愛されていたのだと知りました。それは、あなたの愛をなくした時の事でした。
桗梛葉 (たなは)
恋愛
リリナシスと王太子ヴィルトスが婚約をしたのは、2人がまだ幼い頃だった。
それから、ずっと2人は一緒に過ごしていた。
一緒に駆け回って、悪戯をして、叱られる事もあったのに。
いつの間にか、そんな2人の関係は、ひどく冷たくなっていた。
変わってしまったのは、いつだろう。
分からないままリリナシスは、想いを反転させる禁忌薬に手を出してしまう。
******************************************
こちらは、全19話(修正したら予定より6話伸びました🙏)
7/22~7/25の4日間は、1日2話の投稿予定です。以降は、1日1話になります。
あなたのことなんて、もうどうでもいいです
もるだ
恋愛
舞踏会でレオニーに突きつけられたのは婚約破棄だった。婚約者の相手にぶつかられて派手に転んだせいで、大騒ぎになったのに……。日々の業務を押しつけられ怒鳴りつけられいいように扱われていたレオニーは限界を迎える。そして、気がつくと魔法が使えるようになっていた。
元婚約者にこき使われていたレオニーは復讐を始める。
【完結】断罪された悪役令嬢は、全てを捨てる事にした
miniko
恋愛
悪役令嬢に生まれ変わったのだと気付いた時、私は既に王太子の婚約者になった後だった。
婚約回避は手遅れだったが、思いの外、彼と円満な関係を築く。
(ゲーム通りになるとは限らないのかも)
・・・とか思ってたら、学園入学後に状況は激変。
周囲に疎まれる様になり、まんまと卒業パーティーで断罪&婚約破棄のテンプレ展開。
馬鹿馬鹿しい。こんな国、こっちから捨ててやろう。
冤罪を晴らして、意気揚々と単身で出国しようとするのだが、ある人物に捕まって・・・。
強制力と言う名の運命に翻弄される私は、幸せになれるのか!?
※感想欄はネタバレあり/なし の振り分けをしていません。本編より先にお読みになる場合はご注意ください。
【完結】ずっと、ずっとあなたを愛していました 〜後悔も、懺悔も今更いりません〜
高瀬船
恋愛
リスティアナ・メイブルムには二歳年上の婚約者が居る。
婚約者は、国の王太子で穏やかで優しく、婚約は王命ではあったが仲睦まじく関係を築けていた。
それなのに、突然ある日婚約者である王太子からは土下座をされ、婚約を解消して欲しいと願われる。
何故、そんな事に。
優しく微笑むその笑顔を向ける先は確かに自分に向けられていたのに。
婚約者として確かに大切にされていたのに何故こうなってしまったのか。
リスティアナの思いとは裏腹に、ある時期からリスティアナに悪い噂が立ち始める。
悪い噂が立つ事など何もしていないのにも関わらず、リスティアナは次第に学園で、夜会で、孤立していく。
「では、ごきげんよう」と去った悪役令嬢は破滅すら置き去りにして
東雲れいな
恋愛
「悪役令嬢」と噂される伯爵令嬢・ローズ。王太子殿下の婚約者候補だというのに、ヒロインから王子を奪おうなんて野心はまるでありません。むしろ彼女は、“わたくしはわたくしらしく”と胸を張り、周囲の冷たい視線にも毅然と立ち向かいます。
破滅を甘受する覚悟すらあった彼女が、誇り高く戦い抜くとき、運命は大きく動きだす。
勝手にしろと言われたので、勝手にさせていただきます
結城芙由奈@コミカライズ3巻7/30発売
恋愛
子爵家の私は自分よりも身分の高い婚約者に、いつもいいように顎でこき使われていた。ある日、突然婚約者に呼び出されて一方的に婚約破棄を告げられてしまう。二人の婚約は家同士が決めたこと。当然受け入れられるはずもないので拒絶すると「婚約破棄は絶対する。後のことなどしるものか。お前の方で勝手にしろ」と言い切られてしまう。
いいでしょう……そこまで言うのなら、勝手にさせていただきます。
ただし、後のことはどうなっても知りませんよ?
* 他サイトでも投稿
* ショートショートです。あっさり終わります
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる