『婚約破棄された令嬢ですが、名も残さず街を支えています』

ふわふわ

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第23話 戻れない線の向こう

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第23話 戻れない線の向こう

 王都に、久しぶりに晴天が訪れていた。
 雨に洗われた空気は澄み、建物の輪郭がくっきりと浮かび上がる。だが、その清々しさとは裏腹に、王宮の一室には張り詰めた空気が漂っていた。

 「……最終確認を行います」

 会議室の中央で、コルネリア・フォン・ヴァルデンが資料を整える。
 今日の議題は、水路整備計画の中核となる第三段階。これまで積み重ねてきた信頼が、形として問われる局面だった。

 参加者は多くない。
 必要な人間だけが集められている。

 それ自体が、彼女への評価を物語っていた。

 「前段階までの成果は、こちらの通りです」

 数字は控えめだが、安定している。
 不満の声は少なく、現場の協力度は高い。

 「問題は、この区域です」

 コルネリアは地図の一点を指した。
 王都に近い、利権が絡みやすい場所。

 「この区画は、従来方式で進めるべきでは?」

 一人の貴族が、慎重に口を開いた。

 「影響力のある家が関わっています。波風を立てる必要はないでしょう」

 遠回しな言い方だが、意味は明白だった。
 深入りするな。触れるな。これまで通りにしておけ。

 沈黙が落ちる。

 その空気を、コルネリアは正面から受け止めた。

 「その区画こそ、方式を変える必要があります」

 声は低く、だが揺れがない。

 「現行のやり方では、三年以内に必ず問題が表面化します。住民の負担も、すでに限界に近い」

 「しかし――」

 「承知しています」

 反論を遮らず、しかし譲らない。

 「だからこそ、今です。今なら、まだ修正が利きます」

 言葉に、感情はない。
 あるのは、積み重ねた事実だけだ。

 視線が、自然と一人の男へ向けられた。
 バルタザール・フォン・クロイツ。

 補佐として席に着く彼は、静かに頷いた。

 「……現場の報告と一致しています」

 全員が、彼を見る。

 「このまま進めれば、表面上は問題なく見えるでしょう。しかし、住民の協力が途切れます。そうなれば、修復には倍以上の時間と費用がかかる」

 彼の言葉には、もう迷いがなかった。

 それは、彼女の隣に立つ言葉ではない。
 彼女の判断を、裏から支える言葉だった。

 沈黙の後、年配の官僚が静かに口を開く。

 「……では、この区画は、ヴァルデン伯爵令嬢の方式で進めよう」

 反対の声は上がらなかった。

 決定が下された瞬間、
 会議室の空気が、はっきりと変わる。

 ――線が引かれた。

 これは、試験ではない。
 一時的な任命でもない。

 王宮は、正式に彼女の判断を選んだのだ。

 会議後、廊下で数名がコルネリアに声をかけた。
 次の予定。調整の相談。どれも、当然のように。

 バルタザールは、少し離れた場所から、その様子を見ていた。
 胸に浮かぶのは、痛みではない。

 「……戻れないな」

 小さく呟く。

 かつては、並んで立っていた。
 今は、立つ位置が違う。

 だが、その差を、否定する気持ちはもうなかった。

 一方、コルネリアは、屋敷へ戻る馬車の中で、静かに目を閉じていた。
 今日の決定は、重い。

 失敗すれば、責任はすべて自分に返ってくる。
 だが、迷いはなかった。

 ――引き返せない線を、越えた。

 それは、恐怖ではない。
 覚悟だ。

 夜、屋敷の書斎で、彼女は覚書をまとめる。
 修正点。リスク。住民説明の手順。

 一つ一つを書き出しながら、ふと、過去を思い出す。

 婚約中、彼女は決定権を持たなかった。
 整える役に徹し、前に出ることはなかった。

 今は違う。

 整えた上で、
 選び、進む。

 同じ夜、バルタザールは執務室で、会議の議事録を整理していた。
 署名欄に記された主担当の名を見て、静かに息を吐く。

 そこには、もう自分の名前はない。

 だが――

 「……悪くない」

 補佐として、正しい場所に立てている。
 それを、初めてそう思えた。

 戻れない線の向こうで、
 彼女は進み、
 自分は支える。

 交わることはない。
 だが、否定し合う必要もない。

 線を越えたからこそ、
 それぞれの立場が、
 ようやくはっきりと見えてきた。

 そしてその線は、
 後悔ではなく、
 選択の証として、
 二人の間に静かに引かれていた。
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