派手にしない工房は、今日もちゃんと続いている

ふわふわ

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第二十一話 広がる日常と、忍び寄る影

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第二十一話 広がる日常と、忍び寄る影

 工房が動き出してから、一週間。

 王都のいくつかの菓子店に並ぶ「シオン菓子工房」の焼き菓子は、静かに、しかし確実に存在感を増していた。

「……また、追加の注文だ」

 朝、帳簿を確認したシオンが低く呟く。

「予定より、少し早いですわね」

 リリカは落ち着いた様子で頷いた。

「ですが、悪くありません。この程度なら、現場も回ります」

 工房の空気は、忙しいが荒れてはいない。
 無理な増産はしない。品質を落とさない。その方針は、最初から変わらない。

「裏通りのときと、似てるな」

「ええ。ただし――」

 リリカは、帳簿から視線を上げる。

「今は、見られています」

「……王城か」

「それだけではありませんわ」

 彼女の言葉は、的確だった。

 昼過ぎ。
 商業評議会の名を名乗る男が、工房を訪れた。

「順調のようだな」

「おかげさまで」

 リリカは形式的な微笑みを浮かべる。

「だが……少し、早すぎる」

 男は、工房内を一瞥しながら言った。

「広がり方が、だ」

 シオンの手が、わずかに止まる。

「……何が言いたい」

「噂だ」

 男は肩をすくめた。

「“王女が裏で価格を操作している”とか、“特定の店だけ優遇している”とか」

 リリカは、即座に理解した。

(……来ましたわね)

 裏通りの菓子店のときとは、質が違う。
 今度は、王女という立場を正面から突いてくる。

「事実ではありません」

 リリカは、静かに、しかしはっきりと言った。

「価格も流通も、通常の契約に基づいています」

「それを、どう証明する」

 男の視線が鋭くなる。

「数字で」

 リリカは即答した。

「すでに、すべて提出可能です」

 男は一瞬、言葉に詰まり、やがて鼻で笑った。

「……用意がいいな」

「疑われる立場ですから」

 そのやり取りを、シオンは黙って聞いていた。

 男が去った後、工房には重い沈黙が残る。

「……また、始まったな」

「ええ」

 リリカは頷いた。

「広がれば、必ず妬まれます」

「……面倒だ」

「それでも、止めません」

 彼女は、迷いなく言った。

「ここで止まれば、“王女の気まぐれ”で終わります」

 それは、リリカが一番嫌う結末だった。

 その夜。
 工房の片隅で、二人は遅くまで作業を続けていた。

「……なあ」

 不意に、シオンが口を開く。

「俺は、菓子を作るだけでいいのか」

 リリカは、手を止めた。

「どういう意味ですの?」

「この先、政治だの評議会だの……」

 彼は、少し言いにくそうに続ける。

「俺は、何もできない」

 リリカは、静かに彼を見る。

「いいえ」

 はっきりとした否定だった。

「あなたが菓子を作り続けること、それ自体が力です」

「……そんなものか」

「ええ」

 彼女は微笑む。

「人は、理屈より、実感で動きます。あなたの菓子は、それを生みます」

 シオンは、しばらく黙り込み、やがて小さく息を吐いた。

「……信じていいんだな」

「信じてください」

 その言葉には、責任が伴っていた。

 翌日。
 工房から出荷された菓子が、王都の外縁部の小さな店にも並び始める。

「……この味、懐かしい」

「裏通りの、あれだよな」

 中央から少し離れた場所ほど、反応は素直だった。

「高級じゃなくていい」

「こういうのが、欲しかった」

 その声は、確実に積み重なっていく。

 だが同時に、水面下では別の動きもあった。

 夜。
 王城の一室で、低い声が交わされている。

「……放っておけば、影響は広がる」

「ええ。王女の人気も、無視できません」

「だが、前例がない」

「前例は、作らなければ生まれません」

 別の声が、冷たく言った。

「……なら、前例にならなければいい」

 その意味を、誰も口にしない。

 翌朝。
 工房の前に、見慣れない人物が立っていた。

「……視察、ですか?」

 リリカが問うと、男は淡々と答えた。

「監査だ」

 書類には、正式な印が押されている。

 シオンが、歯を食いしばる。

「……来たな」

「ええ」

 リリカは、静かに頷いた。

「ですが」

 彼女は、少しだけ笑った。

「もう、裏通りの頃とは違います」

 工房は、正規の許可を受け、すべての記録を残している。
 隠すことは、何もない。

「……長くなりそうだ」

「ええ。でも」

 リリカは、前を向いた。

「これも、広がった証拠です」

 日常を甘くする味は、すでに王都のあちこちに根を張り始めている。

 だからこそ――
 それを揺さぶろうとする影も、同時に現れた。

 静かな拡大と、静かな妨害。
 二つの流れが、同時に動き出している。

 それでも、リリカの足取りは止まらない。

(ここからが、本当の正念場ですわね)

 工房の中に漂う、焼き菓子の香りは変わらない。
 それだけが、今も、確かな指針だった。
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