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第8話 公開婚約破棄
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第8話 公開婚約破棄
最初の異変は、音楽が一曲終わったあとの、ほんのわずかな間に起きた。
大広間にはまだ華やかな空気が残っていた。
笑い声、グラスの触れ合う音、ドレスの裾が床を払う気配。
けれど王太子ギヨームの周囲だけ、空気が妙に尖り始めていた。
セラフィーナはそれを、壇上近くの人の流れで察した。
王太子の婚約者が控えめに一歩引き、フロランス・デュヴィエが逆に半歩だけ近づく。ほんの少しの位置の変化。だが、公の場ではそれだけで意味が生まれる。
「……来ますわね」
クレマンスが扇の陰で囁く。
セラフィーナは答えず、ただ視線を据えた。
ギヨームは、周囲のざわめきを気にした様子もなく一歩前へ出る。
笑みは浮かべていたが、あれは余裕の笑みではない。自分がこの場を制していると思い込んでいる者の顔だ。
「皆に聞いてもらいたいことがある」
やや大きめの声が、広間の中央に落ちた。
会場の空気が止まる。
王太子がそう言う以上、誰も無視できない。
楽団も、話していた令嬢たちも、夫人方も、視線をそこへ向ける。
「私は、長く苦しんできた」
その一言に、セラフィーナは心の中でため息をついた。
始まりが、あまりにも安っぽい。
「立場ゆえに、家の都合ゆえに、自分の心を押し殺して生きてきた。だが、もう偽りは続けられぬ」
ざわり、と波のように空気が揺れる。
婚約者の令嬢は、顔色を変えなかった。
ただ、その背筋がほんの少しだけ強く伸びる。
ギヨームは続けた。
「私は真実の心に従う。ゆえに――」
彼の視線が、婚約者ではなくフロランスへ向く。
「この婚約を破棄する!」
誰かが息を呑む音が、近くで確かに聞こえた。
それは驚きというより、信じられないものを見たときの音だった。
王立学園の卒業舞踏会。
王太子臨席。
高位貴族と令息令嬢、王都の社交界を支える顔ぶれが揃う公の場。
そこで婚約破棄を宣言するなど、正気の沙汰ではない。
「……やりましたわね」
オデットが息をひそめたまま呟く。
セラフィーナはすでに周囲を見ていた。
夫人方は扇を止め、若い令嬢たちは顔を強張らせ、付き添いの侍女たちは視線を落としながらも耳をそばだてている。楽団は完全に演奏の再開を見失っていた。
これはもう、噂では終わらない。
ギヨームは陶酔したように言葉を重ねる。
「私はようやく、本当に心から大切にしたい相手と出会えた! フロランス嬢こそ、私にとって真実の――」
そこでフロランスが、今にも泣き出しそうな顔を作る。
その演技の臭さに、クレマンスが微かに眉をひそめた。
「……あれで可憐なつもりですのね」
「静かに」
セラフィーナは短く言う。
婚約者の令嬢は、そこでようやく口を開いた。
「殿下」
声は静かで、震えていない。
「ここは卒業舞踏会にございます。お話がございますなら、場所を改めるべきかと存じます」
本来なら、それで場は収まる余地があった。
少なくとも、まだ王家の体面を守る道は残っていた。
だがギヨームは、その差し出された最後の階段を自分で蹴り落とした。
「黙れ!」
その怒声が広間に響いた瞬間、空気は決定的に壊れた。
「今さら取り繕うな! お前のような、冷たく打算的な女と結婚などできるか!」
あまりに短絡的で、あまりに幼い台詞だった。
それを王太子が、大勢の前で、婚約者に向けて叩きつける。
ルイーザが少し離れた位置で、目を伏せながらも確実にその一言一言を記憶しているのが見えた。
オデットはすでに、周囲の反応を拾うことへ意識を切り替えている。
イリスは柱の陰から、壇上の立ち位置を目でなぞっていた。
「……見事に終わりましたわね」
ミレイユが小さく呟く。
「ええ。しかも最悪の形で」
セラフィーナの返事は静かだった。
婚約者の令嬢は、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
そして再び目を開けたとき、その顔には怒りも涙もなかった。
「承知いたしました」
その一言のほうが、むしろ会場には重く響いた。
「殿下のお心がそのようであられるなら、これ以上申し上げることはございません」
毅然とした声音。
少なくともこの場にいる誰もが、どちらが品位を保っているかを見誤りようがなかった。
フロランスはというと、今こそ自分が殿下に選ばれたと示したいのか、遠慮がちに、それでいてしっかり目立つ位置へ歩み出る。
その無邪気ぶった動きが、かえって下品だった。
「殿下……そんな、わたくし……」
震える声。
だが、喜びを押し殺しきれていない。
クレマンスが扇の陰で吐き捨てるように言った。
「だめですわね。場を読む気がまるでありませんわ」
「読む気があれば、そもそもここへ立ちませんもの」
セラフィーナは答える。
ギヨームはフロランスの手を取ろうとし、その動きがまた会場にざわめきを生んだ。
婚約破棄を宣言したその場で、新たな相手を公然と示す。
もはや軽率という言葉すら足りない。
そしてその瞬間、セラフィーナは確信した。
次号ではない。
これは号外だ。
「オデット」
ごく小さな声で呼ぶ。
「ええ」
「馬車寄せ、控室、侍女筋。今夜のうちに証言を押さえて」
「お任せくださいませ」
「ルイーザは婚約破棄の正式な位置づけを整理。ミレイユは違約と支援の流れを」
二人とも、わずかに頷くだけで応じた。
「イリス」
「ええ」
「構図、取れまして?」
石版画家は、ほとんど表情を動かさずに答えた。
「充分ですわ」
その一言で足りた。
壇上。怒鳴る王太子。
凍った会場。
静かな婚約者。
そして半歩だけ前へ出たフロランス。
あまりにも分かりやすく、あまりにも救いのない一枚になるだろう。
セラフィーナはゆっくりと息を吐いた。
卒業舞踏会は終わった。
まだ曲は再開していない。
けれど王都サロン新報にとっては、今、まさに始まったのだ。
王太子はまだ知らない。
自分が放った言葉が、ただ会場を凍らせただけでは終わらないことを。
それが今夜のうちに整理され、見出しとなり、石版画となり、王都じゅうへ運ばれることを。
そしてセラフィーナは、静かに微笑んだ。
――これは売れる。
最初の異変は、音楽が一曲終わったあとの、ほんのわずかな間に起きた。
大広間にはまだ華やかな空気が残っていた。
笑い声、グラスの触れ合う音、ドレスの裾が床を払う気配。
けれど王太子ギヨームの周囲だけ、空気が妙に尖り始めていた。
セラフィーナはそれを、壇上近くの人の流れで察した。
王太子の婚約者が控えめに一歩引き、フロランス・デュヴィエが逆に半歩だけ近づく。ほんの少しの位置の変化。だが、公の場ではそれだけで意味が生まれる。
「……来ますわね」
クレマンスが扇の陰で囁く。
セラフィーナは答えず、ただ視線を据えた。
ギヨームは、周囲のざわめきを気にした様子もなく一歩前へ出る。
笑みは浮かべていたが、あれは余裕の笑みではない。自分がこの場を制していると思い込んでいる者の顔だ。
「皆に聞いてもらいたいことがある」
やや大きめの声が、広間の中央に落ちた。
会場の空気が止まる。
王太子がそう言う以上、誰も無視できない。
楽団も、話していた令嬢たちも、夫人方も、視線をそこへ向ける。
「私は、長く苦しんできた」
その一言に、セラフィーナは心の中でため息をついた。
始まりが、あまりにも安っぽい。
「立場ゆえに、家の都合ゆえに、自分の心を押し殺して生きてきた。だが、もう偽りは続けられぬ」
ざわり、と波のように空気が揺れる。
婚約者の令嬢は、顔色を変えなかった。
ただ、その背筋がほんの少しだけ強く伸びる。
ギヨームは続けた。
「私は真実の心に従う。ゆえに――」
彼の視線が、婚約者ではなくフロランスへ向く。
「この婚約を破棄する!」
誰かが息を呑む音が、近くで確かに聞こえた。
それは驚きというより、信じられないものを見たときの音だった。
王立学園の卒業舞踏会。
王太子臨席。
高位貴族と令息令嬢、王都の社交界を支える顔ぶれが揃う公の場。
そこで婚約破棄を宣言するなど、正気の沙汰ではない。
「……やりましたわね」
オデットが息をひそめたまま呟く。
セラフィーナはすでに周囲を見ていた。
夫人方は扇を止め、若い令嬢たちは顔を強張らせ、付き添いの侍女たちは視線を落としながらも耳をそばだてている。楽団は完全に演奏の再開を見失っていた。
これはもう、噂では終わらない。
ギヨームは陶酔したように言葉を重ねる。
「私はようやく、本当に心から大切にしたい相手と出会えた! フロランス嬢こそ、私にとって真実の――」
そこでフロランスが、今にも泣き出しそうな顔を作る。
その演技の臭さに、クレマンスが微かに眉をひそめた。
「……あれで可憐なつもりですのね」
「静かに」
セラフィーナは短く言う。
婚約者の令嬢は、そこでようやく口を開いた。
「殿下」
声は静かで、震えていない。
「ここは卒業舞踏会にございます。お話がございますなら、場所を改めるべきかと存じます」
本来なら、それで場は収まる余地があった。
少なくとも、まだ王家の体面を守る道は残っていた。
だがギヨームは、その差し出された最後の階段を自分で蹴り落とした。
「黙れ!」
その怒声が広間に響いた瞬間、空気は決定的に壊れた。
「今さら取り繕うな! お前のような、冷たく打算的な女と結婚などできるか!」
あまりに短絡的で、あまりに幼い台詞だった。
それを王太子が、大勢の前で、婚約者に向けて叩きつける。
ルイーザが少し離れた位置で、目を伏せながらも確実にその一言一言を記憶しているのが見えた。
オデットはすでに、周囲の反応を拾うことへ意識を切り替えている。
イリスは柱の陰から、壇上の立ち位置を目でなぞっていた。
「……見事に終わりましたわね」
ミレイユが小さく呟く。
「ええ。しかも最悪の形で」
セラフィーナの返事は静かだった。
婚約者の令嬢は、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
そして再び目を開けたとき、その顔には怒りも涙もなかった。
「承知いたしました」
その一言のほうが、むしろ会場には重く響いた。
「殿下のお心がそのようであられるなら、これ以上申し上げることはございません」
毅然とした声音。
少なくともこの場にいる誰もが、どちらが品位を保っているかを見誤りようがなかった。
フロランスはというと、今こそ自分が殿下に選ばれたと示したいのか、遠慮がちに、それでいてしっかり目立つ位置へ歩み出る。
その無邪気ぶった動きが、かえって下品だった。
「殿下……そんな、わたくし……」
震える声。
だが、喜びを押し殺しきれていない。
クレマンスが扇の陰で吐き捨てるように言った。
「だめですわね。場を読む気がまるでありませんわ」
「読む気があれば、そもそもここへ立ちませんもの」
セラフィーナは答える。
ギヨームはフロランスの手を取ろうとし、その動きがまた会場にざわめきを生んだ。
婚約破棄を宣言したその場で、新たな相手を公然と示す。
もはや軽率という言葉すら足りない。
そしてその瞬間、セラフィーナは確信した。
次号ではない。
これは号外だ。
「オデット」
ごく小さな声で呼ぶ。
「ええ」
「馬車寄せ、控室、侍女筋。今夜のうちに証言を押さえて」
「お任せくださいませ」
「ルイーザは婚約破棄の正式な位置づけを整理。ミレイユは違約と支援の流れを」
二人とも、わずかに頷くだけで応じた。
「イリス」
「ええ」
「構図、取れまして?」
石版画家は、ほとんど表情を動かさずに答えた。
「充分ですわ」
その一言で足りた。
壇上。怒鳴る王太子。
凍った会場。
静かな婚約者。
そして半歩だけ前へ出たフロランス。
あまりにも分かりやすく、あまりにも救いのない一枚になるだろう。
セラフィーナはゆっくりと息を吐いた。
卒業舞踏会は終わった。
まだ曲は再開していない。
けれど王都サロン新報にとっては、今、まさに始まったのだ。
王太子はまだ知らない。
自分が放った言葉が、ただ会場を凍らせただけでは終わらないことを。
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