冷遇された公爵令嬢ですが、敵国の皇太子に溺愛されています

ふわふわ

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第一章 ― 捨てられた公爵令嬢、敵国へ嫁ぐ ―

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 フローラ・フォン・リヴェールが生まれ育ったリヴェール公爵家は、この王国の中でも特に古くから権勢を誇ってきた名門だった。青みがかった白亜の壮麗な館は、遠くからでもその存在感を示し、公爵の一族が積み重ねてきた威厳を象徴している。
 しかし、その栄華の中心にいるはずのフローラは、幼い頃からまるで透明な存在のように扱われていた。実母である先代公爵夫人は彼女が幼少の折に病で亡くなり、代わりにやってきた継母と、その腹から生まれた異母妹こそが、今や家の実権を握っている。フローラは正式には公爵令嬢であるものの、実質的に屋敷の奥まった部屋で暮らし、小間使いのように細々とした雑用を押し付けられながら日々を過ごす立場だった。

 だが、そんな彼女にも、唯一の「公爵令嬢らしい役目」が与えられていた。それは――国王陛下からの命により、王太子アルベルト・フォン・オブリヴィオンの婚約者として選ばれていたことだ。
 この国では王家の婚姻は伝統的に大貴族の娘から選出される。リヴェール公爵家は由緒正しく、かつ一度も反乱など起こしたことのない忠誠心厚い家柄として知られていたため、「次代の王を支える王太子妃の候補」として白羽の矢が立ったのだ。
 もっとも、その肝心の王太子であるアルベルトは、フローラに見向きもしなかった。むしろ彼は、平民出身ながら侍女として王城に上がったカトリーナを溺愛しており、公然と愛人のように扱っていた。表向きは「王太子妃教育の一環」と称し、フローラにも形だけの礼は示すものの、まるで紙人形とでもいうかのように興味を持たない。
 フローラは王城に呼ばれるたび、冷たい視線のアルベルトに苦い思いを抱きつつも、じっと耐え忍んでいた。周囲は彼女の控えめで温和な性格を「おとなしい」「主張がない」と馬鹿にするが、本来フローラは人を害するような言動を好まないだけで、決して鈍感なわけではない。むしろ、あまりにも不当な扱いに直面しているからこそ、どう対処していいか分からず、結果的に押し黙っているのだ。

 それでも「いずれ正妃となれば立場も変わる」「将来を考えれば、今は耐えてしっかり王太子妃教育を受けねばならない」と心を奮い立たせていたフローラだったが、その努力は、ある日突然に崩れ去ることになる。
 きっかけは、王城で催された夜会の席であった。王太子アルベルトは、堂々とカトリーナの手を取り、音楽に合わせて踊り始めた。通常、こうした夜会では王太子が最初に踊る相手は婚約者であるフローラが相応しい。だが、アルベルトはフローラを招きすらせず、まるで王太子妃はカトリーナだと言わんばかりに彼女に微笑みかけ、円舞を踊っていたのだ。
 広間でその光景を目撃した貴族たちは、一斉にどよめく。
「どういうつもりだ……?」「フローラ嬢はそこにいるのに……」
 耳に入りづらいような小声ではあったが、フローラにも十分聞こえてくる。それでも彼女は、表面上だけでも気丈にふるまおうと、かろうじて微笑をつくって耐えていた。

 だが、追い打ちをかけるようにアルベルトは、踊り終えた後にフローラへと冷たい瞳を向け、誰もが耳を疑うような言葉を放つ。
「フローラ・フォン・リヴェール。そなたとは婚約を解消させてもらう」
 一瞬、広間全体が水を打ったように静まり返った。誰もがアルベルトの言葉を理解できずにいる――いや、理解はできても、これほど公衆の面前で突拍子もない発言が飛び出すとは思っていなかったのだろう。
 しかしアルベルトは満足げに、あるいはカトリーナにいいところを見せようとするかのように、さらに言葉を重ねる。
「よくよく考えたが、フローラのように暗く、何もできぬ女は王妃には不適当だ。あれほど教養を与えようとしたのに、何も身につかなかっただろう? それに比べ、カトリーナは素晴らしい。才能もあるし、俺を心から慕ってくれている。故に俺はこの場をもって、フローラとの婚約を破棄し、カトリーナを正妃とすることを宣言する」
 ざわざわとした動揺が貴族たちの間を駆け巡り、その顔は戸惑いと疑念に満ちていた。カトリーナは確かに愛らしい少女だが、所詮は平民出身。しかも王妃教育など受けていない。これまでの慣例を踏みにじる暴挙に、年配の貴族たちは呆れてものも言えない様子だ。
 だが、そもそも王太子のわがままを止めるには、国王か王妃か、よほどの権力者でなければならない。しかし今の国王夫婦は歳を重ねており、すでにアルベルトの好きなようにさせている節がある。誰にも止められない――ならば、こうして既成事実を積み上げられれば、無理矢理にでも事が進んでしまうのだ。

 フローラはあまりの衝撃に胸が締めつけられ、震える声で問いかける。
「――わたくしが、何もできない……とおっしゃいましたか。確かに、今まで王太子妃教育を十分にこなせた自信はありません。ですが、私なりに努力をしてまいりました。それを……」
 涙がこぼれそうになるのを堪えようとしても、どうしても目元が熱くなる。彼女が踏みとどまる間もなく、アルベルトは薄い笑みを浮かべて言い放った。
「努力した? 笑わせるな。そなたはただ教えられたことを黙々とやっていただけで、得られた成果など何一つなかったではないか。カトリーナが立派に踊り、知識を蓄え、しかも俺を癒やしてくれる姿を見て、ますますそう確信したよ。フローラ、そなたは王妃の器ではない」
 その言葉が、まるで胸を刃で突き立てられたかのようにフローラを痛めつける。
 ここに至るまで、確かにフローラは王太子妃として相応しい振る舞いを学んできたが、実際には周囲から真面目に取り合ってもらえず、形式的なレッスンばかりが与えられていた。講師役も「どうせ王太子殿下のお気に入りは別の方だろう」と半ば投げやりにフローラに教えるだけ。彼女が疑問を呈しても、一流の講義を受ける機会はほとんどなかったのである。
 にもかかわらず、「何もできない」と責め立てられるのはあまりに酷い。けれど、それを訴えても誰も聞く耳を持たないことなど、痛いほど分かっている――。
 ここが、この場が、フローラが「王太子妃」ではなくなる瞬間なのだと、彼女ははっきりと思い知らされた。

 夜会の会場には、フローラの家族……リヴェール公爵夫妻と異母妹も招かれていたが、彼らはどうすることもなく、見て見ぬふりをしている。むしろ心底ほっとしているようにも見える。
 継母が小さく息を吐くのを感じて、フローラは自分の胸がさらに痛むのを覚えた。
「これで厄介払いができた、というところかしら……」
 ひそひそとそんな声が聞こえてきそうなほど、公爵家の人々は安堵の色を隠せず、むしろアルベルトの暴挙を歓迎しているようだ。
(ああ、私は本当にこの家で余計な存在だったのだわ)
 かつては母を失いながらも、父がいるから、いつかは分かってくれるかもしれないと信じてきた。それでも、現実は甘くはなく、家族に必要とされない上に、婚約者にすら見限られた。フローラの心は絶望の淵に沈んだ。

 それから数日後、公式に「フローラとアルベルトの婚約破棄」が取り決められた。王宮から発表された文面には、あたかも「フローラの健康上の理由で婚約を継続できなくなった」などと書かれていたが、その真相を知る者たちは皆、白々しい表現だと感じている。
 国王夫妻は、アルベルトの強引な要求に渋々承諾した形となったが、実際には息子には逆らえなかったのだろう。新たに正妃として迎えられると宣言されたカトリーナは、舞い上がったように笑みを浮かべていた。
「フローラ様、今までお世話になりました。お優しい王太子殿下と一緒になれて、わたくし本当に幸せですわ」
 まるでわざと見せつけるかのように、フローラの前で惚気ばなしをするカトリーナ。平民出身から成り上がった彼女にとっては、フローラの存在など邪魔なだけだったのだろう。
 フローラはその浅ましい態度に呆れながら、反論する気力すら湧いてこない。結局、何を言っても無駄だ。自分を王太子妃に据えようという意志のある者はもう、この国にはいないのだから。

 そうして生まれ故郷であるリヴェール公爵家に戻されたフローラだったが、その帰還を誰一人として歓迎はしなかった。むしろ、使用人たちまでもが「破棄された令嬢」「王宮から捨てられた厄介者」と冷ややかな視線を向ける。
 広大な庭園も、かつて幼い頃に憧れを抱いた調度品も、今のフローラには色あせて映るばかりだった。この家はもはや彼女の安息の地ではない。ひどい扱いを受けながらも、それでも心のどこかで「ここが私の家だ」と思おうとしていたが、もうそうではなくなってしまった。
 食事も簡素なものが与えられ、異母妹は「お姉様って、なにか得意なことでもあるの? 王太子殿下にも見放されたんでしょう?」と嘲笑う。継母などは、「この子は見ているだけで気が滅入るわ。さっさと片付けたいものね」と、まるで不用な荷物扱いだ。
 フローラはせめて父、公爵本人が話を聞いてくれればと思ったが、彼はフローラを呼び出し、「お前には失望した。王太子妃としての役目も果たせないなど、リヴェール家の恥だ。だがまあ、機会はまだある」と言ってきた。その言葉を聞き、フローラは思わず顔を上げる。
「……機会、ですか? わたくしにですか?」
「そうだ。お前をこのまま家に置いておくのは得策でない。王族に見放された娘となれば、我が家の名誉にも傷がつく。そこで、隣国ラグナ帝国へ嫁いでもらうことにした」
「隣国、ラグナ帝国……?」
 聞き覚えはもちろんあった。その国は近年めざましい発展を遂げ、軍事力や経済力でもこの王国を脅かすほどの台頭を見せている大国だ。
 だが、王国とは長年対立関係にあり、国境の地域ではたびたび衝突が起こっている。「敵国」とさえ呼ばれるような場所に、自分が嫁ぐ――その言葉がピンとこず、フローラは父の言葉を復唱することしかできなかった。

 公爵はあっさりと言い放つ。
「ラグナ帝国の皇太子が花嫁を探しているという話を聞いた。それこそ政略結婚の常套手段だ。あちらに嫁ぐとなれば、我が国としては無駄に敵国の機嫌を損ねずに済むし、もしお前が向こうでいい顔をされなくとも、こちらには関係ない。お前としても行き先があるだけマシだろう?」
 まるで物の取引のような言い草だった。父親がこんなふうに娘を扱うなど、フローラが幼い頃には想像すらしていなかった。
「ですが、ラグナ帝国とは友好関係とは言いがたい状態です。もし何かあって、わたくしが向こうで虐げられるようなことになれば――」
 懇願するような口調になったフローラに対し、公爵は一瞥すらくれない。
「それならそれで結構だ。もとは王太子の婚約者だったお前を奴らにくれてやれば、あちらもそれなりに満足するだろう。お前がどう扱われようが、お前の責任だ。何とかやってみせろ」
 その瞬間、フローラはまざまざと悟った。父は、彼女に対して何の情も持ち合わせてはいないのだと。
「――わかりました」
 それ以上反論しても無駄だ。むしろ公爵家の敷居から離れられるなら、いっそその方がいいのかもしれないと、フローラは諦観に似た気持ちを抱きながら応じる。

 その後、継母と異母妹は「まあ、敵国の皇太子妃なんてお似合いじゃない? きっとみんなに見下されて、何も言えず終わるわよ」などと嘲笑い、フローラの荷造りを使用人に命じた。フローラ自身には、まともな荷物を揃える権利すら与えられなかった。
 数日以内にラグナ帝国から迎えの馬車が来る手筈だという。そしてフローラは、そのまま彼の地へ渡り、ラグナ帝国の皇太子――クラウスと結婚するらしい。
 公爵家の全員が「二度と帰ってくるな」と言わんばかりの態度で、フローラに手切れ金すら渡す気配はない。もとより継母や異母妹はフローラを嫌っていたし、王太子との縁談が破談になった今となっては、利用価値がないとみなされたのだろう。
 その実情を思い知りながらも、フローラは奇妙な安堵を抱いていた。もはや失うものなど何もない。ここで苦しんで生きるくらいなら、いっそ未知の地で運命に身を任せるのも悪くないのではないか――そんな破れかぶれの感情すら浮かんでくる。

 そして、王宮に正式に書類を提出するや否や、あっという間に話が進んだ。まるで最初から仕組まれていたかのように、とんとん拍子でフローラは敵国に嫁ぐことになってしまったのだ。
 王宮の一室で最後の「手続きを済ませる」ために呼び出されたフローラは、そこでも変わらず冷遇される。応対した役人は「お前など、王太子殿下の婚約者失格だと聞いている。せいぜい敵国で役に立つよう願いたいものだ」と嫌味を言ってくる。
 フローラはそんな嫌味にも、ただ黙って微笑を返すしかない。怒りや悔しさは確かにあったが、それを表に出して何になる? 結局、この国に自分の居場所はないのだ。
 やがて、馬車の音が聞こえ、フローラはその窓の外に目を向ける。見れば、漆黒の御者台と、金の装飾が施された豪奢な車体。その両側に馬を従えた兵士たちがいる。ラグナ帝国からの使者であろう。
 こうして、フローラはまったく縁も所縁もない「敵国」へ嫁ぐことが決まった――普通であれば恐怖に震えてもおかしくない局面だが、彼女の胸には空虚な静寂だけが広がっていた。

 出立の日、王宮の門の前にはフローラ一人だけが立っていた。
 リヴェール公爵家からは、誰も見送りには来なかった。少なくとも形式だけは家族の誰かが顔を出してもいいだろうに、そんな心遣いすらない。
 頭上には鈍い灰色の雲がかかり、今にも雨が降り出しそうな気配だった。まるでフローラの心を映すかのような暗い空。
「フローラ・フォン・リヴェール殿、ですな?」
 声をかけてきたのは、ラグナ帝国の黒い軍服に身を包んだ騎士らしき男だった。青い瞳を持ち、引き締まった顔つきだが、その物腰は丁寧で礼節をわきまえているように見える。
「はい……」
 フローラが小さく答えると、男は一礼してみせた。
「初めまして。私の名はエドガー・レヴィンと申します。皇太子クラウス殿下の命により、あなた様のお迎えに参りました。長旅になるかとは思いますが、お力になれるよう最善を尽くしますので、どうぞよろしくお願いいたします」
 穏やかな言葉に、少しだけフローラの心は救われる思いがした。見知らぬ土地への不安ばかりが募る中で、少なくともこの騎士は自分を“客人”として扱ってくれるのだろうか。王太子アルベルトの周囲にいた取り巻きのような、尊大な態度は微塵も感じられない。
「こちらこそ……。よろしくお願いいたします」
 かすかに頭を下げるフローラを、エドガーは丁寧に馬車へと誘導する。
 用意された馬車は、見た目にも頑丈そうで、王国の馬車とは異なる造りだ。車輪が大きく、何より鋲の打ち方や金属で補強された扉など、戦乱や荒地の多いラグナ帝国の事情をうかがわせるようだった。
 フローラが乗り込むと、そのまま馬車は揺れ始める。兵士たちが道を先導し、ゆっくりと王都の大通りを進んでいく。小雨が降り始め、しとしととした音が馬車の屋根を打ち始めた。

 王都の通りを進む中、人々の視線が馬車へと集中しているのを感じる。ラグナ帝国の使者が堂々と王都を出入りするのは珍しいだろうし、ましてや公爵令嬢が嫁ぐなどという噂を聞きつければ、皆が興味津々になるのも無理はない。
 ――だが、フローラの心はひどく静かだった。まるで深い湖底に沈んでいるかのように、波立たない感情。
 自分は本当に、このまま敵国の皇太子妃になるのだろうか。
 そう思うと、これまでの自分の人生は何だったのか、とすら思えてくる。アルベルトとの婚約は形だけのもので、結局は捨てられた。家族にも疎まれ、最後は政略結婚の駒として、こうして敵国へ送られる。
 それでも……。
(……今より、不幸になることってあるのかしら)
 そんな自嘲めいた考えが頭をよぎり、フローラはじわりと熱くなる瞳をそっと伏せた。

 馬車は城下町を抜け、やがて街道へと差し掛かる。道は整備されてはいるが、王国領から徐々に離れていくにつれ、景色の様子が変わっていくのを窓から見て取れた。
 フローラが外を見ていることに気付いたのか、エドガーが静かに口を開く。
「これより先はラグナ帝国の管理下にある街道を通ります。途中、関所がいくつかありますが、特に問題はないでしょう。私どもは殿下から預かった通行許可証を持っておりますから」
「……そう、ですか」
「道中、ご気分が悪くなったりされたら、遠慮なくお申し付けください。私どもはあなた様を丁重にお連れするよう厳命されておりますので」
 フローラは一瞬、自分の耳を疑った。「丁重に」という言葉が、今の自分に向けられるとは思わなかったからだ。
 アルベルトにも、そして父にも、「役立たず」「無能」と罵られ、邪魔者扱いされてきた。だからこそ、こうして厄介払いされてラグナ帝国へ送り出されたのに――にもかかわらず、ラグナ帝国の使者は、どうしてこんなにも礼儀正しいのだろう。
 フローラは首をかしげつつ、小さく礼を述べる。
「……ご丁寧にありがとうございます。わたくしなど、このような形で嫁ぐというのに、手厚く扱っていただけるとは……」
 自嘲を含んだ笑みでそう言うと、エドガーは微笑を返した。
「あなた様は、我らの皇太子殿下が望まれた花嫁です。どのような事情であれ、それは変わりありません。私どもにとって、あなた様は非常に大切なお方です」
「……大切、なお方……」
 その響きに、フローラの胸は少しだけ熱くなる。公爵家で聞くことのなかった優しい言葉。それが不思議と胸の奥でリフレインして、少しだけ心が解けていくのを感じた。

 それからしばらく道のりを進み、夕暮れが迫ってきたころ、馬車は予定していた宿場町に到着した。そこにはラグナ帝国が運営する小さな駐屯地があり、旅の安全を確保する意味も込めて一晩を過ごすのだという。
 兵舎のような質実剛健な建物が並ぶ一角に、客用の離れのような建物があった。エドガーの案内でそこに通されると、フローラは少なからず驚いた。内装は簡素ながら清潔感があり、食事の支度も整っている。寝具も新調されたものが備え付けられており、まるで客人を迎えるためにきちんと準備された空間だった。
(ここでの扱いは、公爵家にいた時よりずっとまとも……)
 思わずそんな感想が漏れてしまう。
 王太子殿下との婚約者だった時でさえ、フローラの扱いはひどいものだった。冷遇され、まともな部屋すら与えられなかったことさえある。
 しかし今、自分は「敵国の皇太子に嫁ぐ」という立場にもかかわらず、これほどまでに「当たり前の待遇」を受けている。
 少し早めに夕食が用意されると、フローラは戸惑いながらも、勧められた席についた。そこには温かなスープや焼きたてのパン、それに程よく焼かれた鶏肉料理など、旅の宿にしては随分と充実した食事が並んでいる。
「どうぞ、召し上がってください。移動中はどうしても食事が偏りがちですが、あなた様のお身体を気遣うよう、との殿下からの命令を受けております」
 エドガーの言葉に、フローラはカトリーナの顔を思い出す。彼女は王太子殿下に甘やかされ、豪勢な食事ばかり求めていた。だが、自分はまったくといっていいほど配慮されることなく、その差に屈辱を感じたことが何度もある。
 皮肉なものだ。捨てられたはずの自分が、敵国でこれほどまでに気遣われるとは……。
 とはいえ、まだ警戒心がないわけではない。これが表向きの丁重な扱いで、実際にはどんな仕打ちが待っているのかわからない。そう思うと、素直に喜べない自分がいるのも事実だった。

 夕食を終えたフローラは、部屋に戻った後も寝付けずにいた。
 夜の闇が降りて、窓の外は静寂に包まれている。しかしその静けさは、彼女の心を落ち着かせるどころか、むしろ様々な思いを呼び覚ます。
 ――アルベルトに放逐され、家族にも見限られた。
 ――自分には何の価値もないと証明されてしまった。
 ――そして今は、敵国の皇太子のもとへと送られている。
(これから……私はどうなるのだろう。ラグナ帝国の皇太子は、どんな人なのだろう)
 考えても答えは出ない。だが、自分の命運を握っているのは、その見知らぬ皇太子――クラウスという名の人物だ。
 そう思うと、フローラの胸の中にかすかな期待と不安が入り混じる。もしかしたら、このまま苦しみのない生活を送れるかもしれない。あるいは、さらに悲惨な運命が待っているかもしれない――。
 どちらに転ぶかは分からない。だが、ただ一つ言えるのは、王太子の婚約者でいた頃のような、あの心を抉られるような悲しみと冷遇は、もう味わいたくないということ。
 フローラは布団の上で膝を抱え、ゆっくりと深呼吸をする。
(――神様。もしこの先、少しでも私が笑える時間があるなら、どうか与えてください)
 そんな小さな願いを胸に抱きながら、疲れ切った心と体をようやく休めると、いつしか眠りの底へ落ちていった。

 翌朝、澄んだ空気と共に旅は再開した。街道をさらに進むうち、兵士たちの会話からは「そろそろ国境に差しかかる」との声が聞こえる。
 フローラは窓から外をうかがう。国境近くになると、山々や高原の地形が増え、王国の平原とは違う風景が広がっていた。遠くに見える峰々の連なりが厳かな気配を醸し出している。
 やがて、両国の国境の砦が見えてきた。立派な石造りの城塞がそびえ、そこにはラグナ帝国の紋章が掲げられている。まるでこれから先が、フローラにとっての新世界だと告げているようだ。
 何人かの兵士が砦の門を開け、馬車が通り抜ける。すると、今度は見渡す限り岩肌が露出した荒涼とした道が続き、その先に――ラグナ帝国の領内が広がっていた。
 エドガーが馬車越しに声をかけてくる。
「ここから先が、ラグナ帝国です。しばらく険しい道が続きますが、皇太子殿下のお出迎えがあるところまでは、そう遠くありませんので」
「……皇太子殿下が、私を迎えてくださるのですか?」
 思わず聞き返すフローラに、エドガーはうなずく。
「はい。すでに殿下は私たちと別ルートで移動中と聞いております。陛下(皇帝陛下)からの公務の一環で国境周辺を視察されており、そのままお姿を見せてくださるとか。もちろん、正式なご対面は帝都に着いてからとなりますが、途中で一度お顔をお見せになる予定かと」
 まさか本人がわざわざ出向いてくれるなど、フローラには想定外だった。敵国の皇太子だというのに、どこか誠意を感じさせる対応だ。
 それはアルベルトがフローラに見せたことのない「花嫁への配慮」でもあった。かつて、アルベルトはフローラに「一度も自分で迎えに行く」と言ってくれたことなどない。それどころか、粗雑に扱うばかりだったのだ。
 そうした思い出が脳裏をよぎりながらも、フローラはただ静かに息を吐く。まだ会ったこともない皇太子クラウスに対して、どんな人物像を想像しても無意味だ。実際に会わなければわからない。
 だが、少なくとも「迎えに出る」という言葉から察するに、ある程度は婚姻の意思を本気で示しているのかもしれない――その程度の曖昧な期待が、ほんの少しだけフローラの心を軽くした。

 午後になり、馬車が山間の道を抜けた頃、先導していた騎士の一団が道を脇によけるように指示を送ってきた。どうやら、ここで何か合流の予定があるようだ。
「殿下がこの先でお待ちとの報告です。馬車を一旦降りていただけますでしょうか」
 エドガーに促され、フローラは外に出る。そこは山に囲まれた大きな盆地のような場所で、ひんやりとした風が通り抜け、空の青さが際立って見えた。
 見渡すと、奥の方からずらりと並んだ騎士団の姿が見える。その中心に、一際目立つ漆黒の軍馬を操っている騎士がいた。流れるようなラインの甲冑とマントを身につけ、遠目に見ても堂々とした雰囲気を醸し出している。
 やがて、その騎士が馬を駆ってこちらへやって来る。周囲の兵士たちがその姿に敬礼の姿勢をとっていることから、よほど高位の人物なのは明らかだった。
 近づいてくる馬の上の人物を見て、フローラはなぜか言葉を失う。
 一見してわかる――美丈夫、という言葉だけでは収まらない存在感を持つ男。鋭い視線と、端正な顔立ち。それでいて、どこか孤高さを感じさせるオーラを放っていた。
 男は馬を止めると、フローラをじっと見つめる。そして、すらりと馬から降り立ち、フローラの目の前で口を開く。
「……お前が、フローラ・フォン・リヴェールか」
 低く、けれどはっきりとした声がフローラの耳に届く。
 フローラは思わずうなずきそうになるが、頬をかすめる風の冷たさを感じて、はっと我に返る。まずは礼を尽くさなければ――。
「は、はい。初めまして、わたくしは……」
 戸惑いながらも礼をしようとすると、男はほんのわずかに口元をゆるめた。
「挨拶はその程度でいい。俺はラグナ帝国の皇太子、クラウス・イーグレッド・ラグナだ。お前をこうして直接迎えに来るのは初めてだが……はは、なかなか大人しそうな娘だな」
 そう言うと、クラウスはフローラに近づき、まるで検分するような視線を向ける。あまりにも突然のことで、フローラは思わず一歩後退しかけたが、それをクラウスは軽く手で制した。
「安心しろ。俺が怖いか?」
「い、いえ……あの、驚いただけです。申し訳ありません」
「謝る必要はない。俺だって、お前がこの国へ嫁ぐことになった経緯は聞いている。政略結婚だと分かっていても、初対面で尻込みするのは当たり前だ」
 その言葉には、どこか優しさが含まれていた。フローラの緊張が、少しだけ解ける。
 クラウスはさらに言葉を続ける。
「王国で散々冷遇されてきたそうだな。――だが、これからは違う。お前は俺の妃となる。ラグナ帝国の皇太子妃だ。誰にも馬鹿にはさせん。俺がそれを許さないからな」
 その言葉に宿る力強さは、フローラの胸に鋭く染み込んでくる。まるで、自分が蔑まれることなどあり得ない――そう断言しているかのようだった。
 フローラは、そんな言葉を人生で初めて聞いた。
「……わたくしは、本当に、何も取り柄がないのです。前の婚約者だった王太子殿下にそう言われてしまいました。ですから、殿下のご期待に沿えるかどうか……」
 自信のなさがにじむフローラの言葉を受け、クラウスは眉をひそめる。
「何もない? そんなわけあるか。お前のことは多少調べさせてもらったが、書類を見る限り、王太子妃教育で学んだことも無駄ではないはずだ。……まあいい。お前がどう思おうと、俺が気に入ったのならそれで充分だ。『何もない』と言われるくらいなら、これから一緒に見つけてやろうじゃないか」
 まるで揺るぎない自信とともに、フローラを「俺が守る」と言わんばかりの口調だった。
 驚きと戸惑いの中で、フローラの胸には弱いながらも光が差し始める。こんなに堂々と「自分が選ばれた意味」を肯定してくれる人がいるなんて、想像したことがなかった。
 同時に、アルベルトや家族たちから否定され続けた自分を、ここまであっさりと受け入れるクラウスという人物に、得体の知れない感情が芽生え始める。畏怖とも安心ともつかない複雑な思い――けれど、どこか温かさを感じるのも事実だった。

 こうして、フローラは初めて自らの「夫」となる相手と対面した。
 それは、王国で過ごした日々の常識をひっくり返すほどに衝撃的で、しかしほんのわずかに「自分も大切にされていいのかもしれない」と思わせてくれる再会――いや、出会いだった。
 フローラが次に口を開いたとき、その声は最初よりもいくぶん安堵が混じっていた。
「……よろしくお願いいたします。殿下のもとで、わたくしは……」
 すると、クラウスはそれを制するように、フローラの手を取る。馬上で威風堂々としていた姿とは打って変わって、その手つきは優しい。
「俺の名はクラウスだ。ここではそう形式張らなくてもいい。『殿下』なんて呼び方は、正式な場以外では不要だ。……フローラ、これからは俺がそばにいる。お前はもう、蔑まれたりすることはない」
「クラウス様……」
 その言葉を噛みしめながら、フローラは初めて胸が満たされていくような感覚を覚えた。
 ――公爵家でも、王太子の婚約者だった頃でも、こんなふうに言葉をかけられたことはない。
 クラウスの瞳には、まるで獲物を狙う猛禽のような鋭さとともに、どこか温かな光が宿っている。フローラは彼の大きな存在感に圧倒されつつも、自分の中に小さな希望の芽が生まれるのを感じた。
 まだ道は始まったばかり。これから帝都へ行き、正式に婚姻を結ぶという大きな儀式が待っている。けれど、フローラの運命がこれまでとはまったく別の方向へ動き出す予感――それが、この山間での出会いの瞬間から確かに満ちていた。

 そう、フローラという一人の娘が「捨てられた公爵令嬢」としての人生を終え、次は「ラグナ帝国の皇太子妃」になる。その幕開けの朝は、晴れやかな空の下、ひそやかに始まったのだった。


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