婚約破棄された令嬢ですが、国が自走し始めたので私はもう口出ししません

ふわふわ

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第三十八話 静かな帰路

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第三十八話 静かな帰路

 教育制度の件で「選ばない」という判断が下されてから、王城の空気は一段、変わった。
 議論が減ったわけではない。
 むしろ増えた。
 だが、その性質が違う。

 ――結論を求める議論から、前提を確かめ合う対話へ。

 誰かに決めてもらうことを、無意識に期待していた癖が、少しずつ剥がれ落ちていく。
 その変化は派手ではないが、確実だった。

 そんな折、王城に一通の報告が届く。

「……隣国からの連絡です」

 宰相が、封を切った書簡を差し出した。

「“視察団の帰路に、
 一名、個人的な滞在を希望する者がいる”……?」

 アドリアンは、眉をひそめる。

「公式の視察ではない?」

「はい。
 あくまで、
 “私的な滞在”とのことです」

 短い沈黙。

「……名は?」

「エルミナ・ローゼンベルク」

 その名が出た瞬間、執務室の空気が、わずかに揺れた。

 驚き。
 緊張。
 そして、奇妙な静けさ。

「……帰ってくるのか」

 アドリアンは、呟くように言った。

「正確には」

 宰相が、慎重に補足する。

「“戻る”のではなく、
 “通る”という表現が近いかと」

 彼女は、要職にも、顧問にも就かない。
 制度上の立場は、今もない。

「……受け入れは?」

「拒む理由はありません」

「では」

 アドリアンは、短く答えた。

「通常通りに」

 特別扱いはしない。
 だが、排除もしない。

 それが、今のこの国のやり方だった。

 数日後。

 エルミナは、王城の裏門から静かに入った。
 儀礼も、歓迎式もない。

 通されたのは、かつて使っていた執務室ではなく、
 客人用の控えの間。

「……懐かしい、というほどでもないわね」

 彼女は、窓辺に立ち、呟く。

 城は変わった。
 だが、彼女が去った後に積み上げられた変化は、
 彼女の記憶と、どこか重なっていた。

 ほどなくして、アドリアンが訪れる。

「……久しぶりだな」

「ええ」

 エルミナは、軽く頭を下げる。

「お変わりなく?」

「それなりに」

 短い会話。
 かつてのような、緊張はない。

「……何か、用件が?」

 アドリアンが問う。

「いいえ」

 彼女は、はっきりと言った。

「本当に、通り道です」

 視線を合わせる。

「確認したかっただけ」

「……何を?」

「この国が、
 私なしで、
 どう歩いているかを」

 沈黙。

 アドリアンは、しばらく考えてから答えた。

「正直に言うなら」

「ええ」

「まだ、不格好だ」

 だが、と彼は続ける。

「……倒れてはいない」

 エルミナは、微かに微笑んだ。

「それで、十分です」

 彼女は、何も助言しない。
 制度に口を出さない。
 評価も、採点もしない。

 ただ、
 “見た”。

 それだけだった。

 その日の午後、彼女は修道院を訪れた。

 リーネは、門前で彼女を迎える。

「……お久しぶりです」

「ええ。
 元気そうね」

 かつて、
 立場の差が二人の間に横たわっていた頃とは、
 まるで違う空気だった。

「……何か、言われるかと思っていました」

 リーネが、正直に言う。

「制度のこととか、
 判断のこととか……」

「言わないわ」

 エルミナは、即答した。

「それは、
 もうあなたたちのものだもの」

 修道院の中庭を、二人で歩く。

「……正解だったのでしょうか」

 リーネが、ぽつりと問う。

「何が?」

「……祈りだけに、
 戻らなかったこと」

 エルミナは、立ち止まり、
 しばらく考えた後、答えた。

「正解かどうかは、
 分からない」

 リーネが、少し身構える。

「でも」

 彼女は、続ける。

「あなたは、
 選んだ」

 それでいい、と。

「……選んだ後も、
 迷っていいのよ」

 その言葉に、
 リーネの肩から、力が抜けた。

 夜。

 エルミナは、王城の客間で、荷をまとめていた。

 滞在は、わずか一日。

 書き残すものも、
 引き継ぐ言葉もない。

 窓の外には、
 灯りの点いた街。

「……ちゃんと、歩いてる」

 それだけ確認できれば、十分だった。

 翌朝。

 彼女は、再び裏門から城を出た。
 見送りは、ない。

 だが、
 不在が不安を呼ばないことを、
 この国は、もう知っている。

 一方、アドリアンは執務室で、
 いつもの業務に戻っていた。

「……来て、
 何も言わずに、
 帰っていったな」

 宰相が、ぽつりと呟く。

「それでいい」

 アドリアンは、書類から目を離さずに言った。

「もう、
 答えを聞く段階じゃない」

 第三十八話は、
 大きな再会の話ではない。

 だが、
 “戻らなくても、確かめられる関係”が成立した
 という、静かな区切りの話だ。

 ――帰路とは、
 必ずしも戻ることではない。

 自分が去った場所が、
 自分なしでも続いていると知るための、
 短い通過点なのだから。
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