37 / 40
第三十七話 選ばないという選択
しおりを挟む
第三十七話 選ばないという選択
北東部の病害対応が一段落し、王城には再び「動いている日常」が戻ってきていた。
だが、それは安堵ではない。
むしろ、次に何が起きてもおかしくないという前提の上に成り立つ、静かな緊張だった。
制度は耐えた。
人も耐えた。
では次は何か。
――選択だ。
その兆しは、意外なほど穏やかな議題として提出された。
「……教育制度の再編について、
正式な諮問が上がっています」
宰相が、会議資料を机に置く。
「内容は?」
アドリアンが問う。
「地方ごとに異なっている教育内容を、
一定水準で統一する案です」
それは、一見すれば合理的だった。
識字率の向上。
行政人材の底上げ。
将来的な国家運営の安定。
「反対は?」
「主に二点」
宰相は、淡々と続ける。
「地方文化の画一化への懸念。
そして、
“誰が基準を決めるのか”という問題です」
沈黙。
この問いは、
この国が最も慎重になるべき種類のものだった。
午後の三者会議では、
珍しく冒頭から意見が割れた。
「統一基準は、必要です」
若い官僚が、はっきりと言う。
「人材の移動が進む今、
教育の質に差があるのは、
不公平です」
「だが」
地方貴族の代表が、即座に返す。
「この国は、
地域ごとの歴史と役割で成り立ってきた。
画一化は、
切り捨てにつながる」
「……信仰教育との整合性も、
慎重に考える必要があります」
教会代表が、補足する。
誰も間違っていない。
だからこそ、
簡単に決められない。
以前なら、
王命で押し切ることもできただろう。
だが今は、
その選択肢は最初から存在しない。
「……選ばなければならない、
のでしょうか」
誰かが、ぽつりと漏らした。
会議室の空気が、微かに揺れる。
アドリアンは、しばらく黙ってから口を開いた。
「いいや」
静かな声だった。
「今回は、
“選ばない”という選択もある」
視線が集まる。
「統一か、
現状維持か、
その二択に、
無理に絞る必要はない」
「……具体的には?」
宰相が問う。
「基準を、
“決めない”」
一瞬、
困惑が走る。
「正確には」
アドリアンは、続けた。
「“最低限だけを定める”。
読み書き計算、
行政基礎、
命に関わる知識。
それ以上は、
地方に委ねる」
完全な統一でもない。
完全な自由でもない。
だが、
どちらかを選ばないことで、
両方を残す形だった。
「……責任は?」
当然の問いが出る。
「中央が、
“介入しない責任”を負う」
アドリアンは、即答した。
「差が出ることを、
失敗として扱わない」
沈黙。
その言葉は、
強い覚悟を含んでいた。
一度任せた以上、
結果が出るまで、
手を出さない。
「……それは」
貴族代表が、ゆっくりと言う。
「信頼、ですね」
「ええ」
アドリアンは、頷いた。
「そして、
覚悟です」
一方、私は隣国の政庁で、
この議事録を読み、
思わず息を止めた。
「……選ばなかった」
マリアが、驚いたように言う。
「ええ」
私は、苦笑する。
「一番、難しい選択を」
決断とは、
何かを切ることだと思われがちだ。
だが、
切らないと決めることほど、
重い判断はない。
修道院では。
リーネが、教育に関する相談を受けていた。
「……中央は、
何も決めないそうです」
戸惑い混じりの声。
リーネは、少し考えてから答えた。
「それは、
放棄ではありません」
相手が顔を上げる。
「考える場所を、
こちらに残した、
ということです」
かつて、
自分は“考えなくていい存在”に
されていた。
今は違う。
「……怖いですね」
「ええ」
リーネは、正直に頷いた。
「でも、
怖いまま考えることが、
許されている」
それは、
とても贅沢な状態だ。
夜。
王城の執務室で、
アドリアンは一人、
書類を閉じた。
「……選ばなかった」
小さく呟く。
だが、
逃げた感覚はなかった。
「……信じた」
地方を。
人を。
そして、
制度を。
一方、私は書斎で、
窓の外を眺めていた。
「……選ばないという選択は、
弱さじゃない」
むしろ、
強さだ。
第三十七話は、
何かが決まる話ではない。
だが、
この国が“決めない勇気”を持った
という、静かな転換点の話だ。
――すべてを決めないからこそ、
人は、
自分の足で考え始めるのだから。
北東部の病害対応が一段落し、王城には再び「動いている日常」が戻ってきていた。
だが、それは安堵ではない。
むしろ、次に何が起きてもおかしくないという前提の上に成り立つ、静かな緊張だった。
制度は耐えた。
人も耐えた。
では次は何か。
――選択だ。
その兆しは、意外なほど穏やかな議題として提出された。
「……教育制度の再編について、
正式な諮問が上がっています」
宰相が、会議資料を机に置く。
「内容は?」
アドリアンが問う。
「地方ごとに異なっている教育内容を、
一定水準で統一する案です」
それは、一見すれば合理的だった。
識字率の向上。
行政人材の底上げ。
将来的な国家運営の安定。
「反対は?」
「主に二点」
宰相は、淡々と続ける。
「地方文化の画一化への懸念。
そして、
“誰が基準を決めるのか”という問題です」
沈黙。
この問いは、
この国が最も慎重になるべき種類のものだった。
午後の三者会議では、
珍しく冒頭から意見が割れた。
「統一基準は、必要です」
若い官僚が、はっきりと言う。
「人材の移動が進む今、
教育の質に差があるのは、
不公平です」
「だが」
地方貴族の代表が、即座に返す。
「この国は、
地域ごとの歴史と役割で成り立ってきた。
画一化は、
切り捨てにつながる」
「……信仰教育との整合性も、
慎重に考える必要があります」
教会代表が、補足する。
誰も間違っていない。
だからこそ、
簡単に決められない。
以前なら、
王命で押し切ることもできただろう。
だが今は、
その選択肢は最初から存在しない。
「……選ばなければならない、
のでしょうか」
誰かが、ぽつりと漏らした。
会議室の空気が、微かに揺れる。
アドリアンは、しばらく黙ってから口を開いた。
「いいや」
静かな声だった。
「今回は、
“選ばない”という選択もある」
視線が集まる。
「統一か、
現状維持か、
その二択に、
無理に絞る必要はない」
「……具体的には?」
宰相が問う。
「基準を、
“決めない”」
一瞬、
困惑が走る。
「正確には」
アドリアンは、続けた。
「“最低限だけを定める”。
読み書き計算、
行政基礎、
命に関わる知識。
それ以上は、
地方に委ねる」
完全な統一でもない。
完全な自由でもない。
だが、
どちらかを選ばないことで、
両方を残す形だった。
「……責任は?」
当然の問いが出る。
「中央が、
“介入しない責任”を負う」
アドリアンは、即答した。
「差が出ることを、
失敗として扱わない」
沈黙。
その言葉は、
強い覚悟を含んでいた。
一度任せた以上、
結果が出るまで、
手を出さない。
「……それは」
貴族代表が、ゆっくりと言う。
「信頼、ですね」
「ええ」
アドリアンは、頷いた。
「そして、
覚悟です」
一方、私は隣国の政庁で、
この議事録を読み、
思わず息を止めた。
「……選ばなかった」
マリアが、驚いたように言う。
「ええ」
私は、苦笑する。
「一番、難しい選択を」
決断とは、
何かを切ることだと思われがちだ。
だが、
切らないと決めることほど、
重い判断はない。
修道院では。
リーネが、教育に関する相談を受けていた。
「……中央は、
何も決めないそうです」
戸惑い混じりの声。
リーネは、少し考えてから答えた。
「それは、
放棄ではありません」
相手が顔を上げる。
「考える場所を、
こちらに残した、
ということです」
かつて、
自分は“考えなくていい存在”に
されていた。
今は違う。
「……怖いですね」
「ええ」
リーネは、正直に頷いた。
「でも、
怖いまま考えることが、
許されている」
それは、
とても贅沢な状態だ。
夜。
王城の執務室で、
アドリアンは一人、
書類を閉じた。
「……選ばなかった」
小さく呟く。
だが、
逃げた感覚はなかった。
「……信じた」
地方を。
人を。
そして、
制度を。
一方、私は書斎で、
窓の外を眺めていた。
「……選ばないという選択は、
弱さじゃない」
むしろ、
強さだ。
第三十七話は、
何かが決まる話ではない。
だが、
この国が“決めない勇気”を持った
という、静かな転換点の話だ。
――すべてを決めないからこそ、
人は、
自分の足で考え始めるのだから。
0
あなたにおすすめの小説
夫に捨てられた私は冷酷公爵と再婚しました
香木陽灯
恋愛
伯爵夫人のマリアーヌは「夜を共に過ごす気にならない」と突然夫に告げられ、わずか五ヶ月で離縁することとなる。
これまで女癖の悪い夫に何度も不倫されても、役立たずと貶されても、文句ひとつ言わず彼を支えてきた。だがその苦労は報われることはなかった。
実家に帰っても父から不当な扱いを受けるマリアーヌ。気分転換に繰り出した街で倒れていた貴族の男性と出会い、彼を助ける。
「離縁したばかり? それは相手の見る目がなかっただけだ。良かったじゃないか。君はもう自由だ」
「自由……」
もう自由なのだとマリアーヌが気づいた矢先、両親と元夫の策略によって再婚を強いられる。相手は婚約者が逃げ出すことで有名な冷酷公爵だった。
ところが冷酷公爵と会ってみると、以前助けた男性だったのだ。
再婚を受け入れたマリアーヌは、公爵と少しずつ仲良くなっていく。
ところが公爵は王命を受け内密に仕事をしているようで……。
一方の元夫は、財政難に陥っていた。
「頼む、助けてくれ! お前は俺に恩があるだろう?」
元夫の悲痛な叫びに、マリアーヌはにっこりと微笑んだ。
「なぜかしら? 貴方を助ける気になりませんの」
※ふんわり設定です
はじめまして、私の知らない婚約者様
有木珠乃@『ヒロ弟』コミカライズ配信中
ファンタジー
ミルドレッド・カーマイン公爵令嬢は突然、学園の食堂で話しかけられる。
見覚えのない男性。傍らには豊満な体型の女性がいる。
けれどその女性から発せられた男性の名前には、聞き覚えがあった。
ミルドレッドの婚約者であるブルーノ王子であることを。
けれどミルドレッドの反応は薄い。なぜなら彼女は……。
この世界を乙女ゲームだと知った人々による、悪役令嬢とヒロイン、魔女の入れ替え話です。
悪役令嬢を救いたかったはずなのに、どうしてこんなことに?
※他サイトにも掲載しています。
【完結】婚約破棄されたユニコーンの乙女は、神殿に向かいます。
秋月一花
恋愛
「イザベラ。君との婚約破棄を、ここに宣言する!」
「かしこまりました。わたくしは神殿へ向かいます」
「……え?」
あっさりと婚約破棄を認めたわたくしに、ディラン殿下は目を瞬かせた。
「ほ、本当に良いのか? 王妃になりたくないのか?」
「……何か誤解なさっているようですが……。ディラン殿下が王太子なのは、わたくしがユニコーンの乙女だからですわ」
そう言い残して、その場から去った。呆然とした表情を浮かべていたディラン殿下を見て、本当に気付いてなかったのかと呆れたけれど――……。おめでとうございます、ディラン殿下。あなたは明日から王太子ではありません。
『魔力ゼロの欠陥品』と蔑まれた伯爵令嬢、卒業パーティーで婚約破棄された瞬間に古代魔法が覚醒する ~虐げられ続けた三年間、倍返しでは足りない~
スカッと文庫
恋愛
「貴様のような無能、我が国の王妃には相応しくない。婚約を破棄し、学園から追放する!」
王立魔道学園の卒業パーティー。きらびやかなシャンデリアの下、王太子エドワードの声が冷酷に響いた。彼の隣には、愛くるしい表情で私を嵌めた男爵令嬢、ミナが勝ち誇ったように寄り添っている。
伯爵令嬢のリリアーヌは、入学以来三年間、「魔力ゼロの欠陥品」として学園中の嘲笑を浴び続けてきた。
婚約者であるエドワードからは一度も顧みられず、同級生からはゴミのように扱われ、ミナの自作自演による「いじめ」の濡れ衣まで着せられ……。
それでも、父との「力を隠せ」という約束を守るため、泥を啜るような屈辱に耐え抜いてきた。
――だが、国からも学園からも捨てられた今、もうその約束を守る必要はない。
「さようなら、皆様。……私が消えた後、この国がどうなろうと知ったことではありませんわ」
リリアーヌが身につけていた「魔力封印の首飾り」を自ら引き千切った瞬間、会場は漆黒の魔力に包まれた。
彼女は無能などではない。失われた「古代魔法」をその身に宿す、真の魔道の主だったのだ。
絶望する王太子たちを余目に、隣国の伝説の魔術師アルベルトに拾われたリリアーヌ。
彼女の、残酷で、甘美な復讐劇が今、幕を開ける――。
とある令嬢の優雅な別れ方 〜婚約破棄されたので、笑顔で地獄へお送りいたします〜
入多麗夜
恋愛
【完結まで執筆済!】
社交界を賑わせた婚約披露の茶会。
令嬢セリーヌ・リュミエールは、婚約者から突きつけられる。
「真実の愛を見つけたんだ」
それは、信じた誠実も、築いてきた未来も踏みにじる裏切りだった。だが、彼女は微笑んだ。
愛よりも冷たく、そして美しく。
笑顔で地獄へお送りいたします――
愚か者たちの婚約破棄
あんど もあ
ファンタジー
ライラは、父と後妻と妹だけが家族のような侯爵家で居候のように生きてきた。そして、卒業パーティーでライラの婚約者までライラでは無く妹と婚約すると宣言する。侯爵家の本当の姿に気づいているのがライラだけだと知らずに……。
無魔力の令嬢、婚約者に裏切られた瞬間、契約竜が激怒して王宮を吹き飛ばしたんですが……
タマ マコト
ファンタジー
王宮の祝賀会で、無魔力と蔑まれてきた伯爵令嬢エリーナは、王太子アレクシオンから突然「婚約破棄」を宣告される。侍女上がりの聖女セレスが“新たな妃”として選ばれ、貴族たちの嘲笑がエリーナを包む。絶望に胸が沈んだ瞬間、彼女の奥底で眠っていた“竜との契約”が目を覚まし、空から白銀竜アークヴァンが降臨。彼はエリーナの涙に激怒し、王宮を半壊させるほどの力で彼女を守る。王国は震え、エリーナは自分が竜の真の主であるという運命に巻き込まれていく。
辺境は独自路線で進みます! ~見下され搾取され続けるのは御免なので~
紫月 由良
恋愛
辺境に領地を持つマリエ・オリオール伯爵令嬢は、貴族学院の食堂で婚約者であるジョルジュ・ミラボーから婚約破棄をつきつけられた。二人の仲は険悪で修復不可能だったこともあり、マリエは快諾すると学院を早退して婚約者の家に向かい、その日のうちに婚約が破棄された。辺境=田舎者という風潮によって居心地が悪くなっていたため、これを機に学院を退学して領地に引き籠ることにした。
魔法契約によりオリオール伯爵家やフォートレル辺境伯家は国から離反できないが、関わり合いを最低限にして独自路線を歩むことに――。
※小説家になろう、カクヨムにも投稿しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる