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第1話 噂を流した侍女
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第1話 噂を流した侍女
シグネット・フレッジリン侯爵が社交界に姿を現すと、必ずと言っていいほど空気がわずかに揺れた。
視線が集まり、囁きが生まれ、やがて形を持った「噂」へと変わっていく。
深い藍色のドレス。上質な布地に、控えめながら確かな技が込められた刺繍。
決して悪目立ちはしない。しかし、その価値が分からない者ほど、落ち着かなくなる装いだった。
「相変わらず……見事なドレスですわね」
「ええ。でも、あの方……いつも新しいものばかりでは?」
そうした声は、サロンの隅から隅へ、楽しげに渡っていく。
――シグネット・フレッジリン侯爵は、お金に困っているらしい。
それが、今や社交界で半ば常識のように扱われている噂だった。
もっとも、誰も「証拠」を見た者はいない。
借金証文も、差し押さえも、家の没落も存在しない。
ただ、豪奢な生活と、若い女侯爵という立場が、勝手な想像を呼び寄せているだけだ。
そして、その噂の“最初の一滴”を落とした人物は――
「本日はお疲れ様でございました、お嬢様」
馬車の中で静かに頭を下げた侍女、ホリデイーであった。
彼女は男爵家令嬢として育ち、今はフレッジリン侯爵家に仕える身である。
言葉遣いは柔らかく、所作は控えめ。だが、その瞳は常に冷静だった。
「ええ。今日も、よく見られていましたわね」
シグネットは外の景色を眺めたまま、淡々と答える。
噂に傷ついた様子は、微塵もない。
「……噂の方も、ずいぶん育ってきております」
「そう」
短い返事に、ホリデイーはわずかに口角を上げた。
「“フレッジリン侯爵家は見かけほど余裕がない”
“ドレスを新調し続けるのは、無理をしている証拠”
……概ね、そのような形で」
「ええ、聞いていますわ」
シグネットは、静かに頷いた。
沈黙が落ちる。
それは、気まずさではなく、確認のための間だった。
「――ホリデイー」
「はい」
「最初に流したのは、あなたでしたわね」
問いではなく、断定。
ホリデイーは一瞬も否定せず、すっと頭を下げた。
「はい。
『シグネット様は、お金に困っていらっしゃる』
そう申し上げました」
その言葉に、何の迷いもなかった。
「事実ではありませんが」
「ええ。ですが」
ホリデイーは顔を上げ、落ち着いた声で続ける。
「嘘でもございません。
お嬢様は現在、資産が多すぎて、その扱いに困っていらっしゃいます。
“お金に困っている”という言葉は、意味が足りないだけです」
言葉を削り、真実を歪める。
それは貴族社会で生きる者なら、誰もが知る技だった。
「随分と、思い切りましたわね」
シグネットは微笑んだ。
叱責でも、咎めるでもない。
「プロフィット様の反応を、見たかったのです」
「……ええ」
亡き父が決めた婚約者、プロフィット・ベルフラワー公爵令息。
家格は上。表向きは非の打ち所のない人物。
だが、シグネットは知っている。
彼は金に執着する。
感情よりも損得を優先し、人を見る基準は常に「価値」だ。
「お金の噂を前にして、あの方がどう動くか」
「それが、婚約を続ける価値の判断材料になる、と」
ホリデイーの言葉に、シグネットは小さく息を吐いた。
「こちらから破棄を申し出ることはできませんもの。
爵位の差は、現実ですわ」
だからこそ――
相手に選ばせる。
金に困っている“かもしれない”女を、切り捨てるか。
それとも、信じるか。
「噂は、もう止まりません」
「ええ。それでいいのです」
シグネットは、窓の外に広がる屋敷の灯りを見つめた。
「噂は、人の本性を引き出します。
特に――お金が絡めば、なおさら」
フレッジリン侯爵家は、揺るがない。
財も、地位も、すでに盤石だ。
失うものは、何もない。
馬車が屋敷の門をくぐる。
夜の静けさの中で、計画はすでに動き出していた。
――この噂が、婚約を終わらせる引き金になることを。
主従の二人は、互いに理解していた。
シグネット・フレッジリン侯爵が社交界に姿を現すと、必ずと言っていいほど空気がわずかに揺れた。
視線が集まり、囁きが生まれ、やがて形を持った「噂」へと変わっていく。
深い藍色のドレス。上質な布地に、控えめながら確かな技が込められた刺繍。
決して悪目立ちはしない。しかし、その価値が分からない者ほど、落ち着かなくなる装いだった。
「相変わらず……見事なドレスですわね」
「ええ。でも、あの方……いつも新しいものばかりでは?」
そうした声は、サロンの隅から隅へ、楽しげに渡っていく。
――シグネット・フレッジリン侯爵は、お金に困っているらしい。
それが、今や社交界で半ば常識のように扱われている噂だった。
もっとも、誰も「証拠」を見た者はいない。
借金証文も、差し押さえも、家の没落も存在しない。
ただ、豪奢な生活と、若い女侯爵という立場が、勝手な想像を呼び寄せているだけだ。
そして、その噂の“最初の一滴”を落とした人物は――
「本日はお疲れ様でございました、お嬢様」
馬車の中で静かに頭を下げた侍女、ホリデイーであった。
彼女は男爵家令嬢として育ち、今はフレッジリン侯爵家に仕える身である。
言葉遣いは柔らかく、所作は控えめ。だが、その瞳は常に冷静だった。
「ええ。今日も、よく見られていましたわね」
シグネットは外の景色を眺めたまま、淡々と答える。
噂に傷ついた様子は、微塵もない。
「……噂の方も、ずいぶん育ってきております」
「そう」
短い返事に、ホリデイーはわずかに口角を上げた。
「“フレッジリン侯爵家は見かけほど余裕がない”
“ドレスを新調し続けるのは、無理をしている証拠”
……概ね、そのような形で」
「ええ、聞いていますわ」
シグネットは、静かに頷いた。
沈黙が落ちる。
それは、気まずさではなく、確認のための間だった。
「――ホリデイー」
「はい」
「最初に流したのは、あなたでしたわね」
問いではなく、断定。
ホリデイーは一瞬も否定せず、すっと頭を下げた。
「はい。
『シグネット様は、お金に困っていらっしゃる』
そう申し上げました」
その言葉に、何の迷いもなかった。
「事実ではありませんが」
「ええ。ですが」
ホリデイーは顔を上げ、落ち着いた声で続ける。
「嘘でもございません。
お嬢様は現在、資産が多すぎて、その扱いに困っていらっしゃいます。
“お金に困っている”という言葉は、意味が足りないだけです」
言葉を削り、真実を歪める。
それは貴族社会で生きる者なら、誰もが知る技だった。
「随分と、思い切りましたわね」
シグネットは微笑んだ。
叱責でも、咎めるでもない。
「プロフィット様の反応を、見たかったのです」
「……ええ」
亡き父が決めた婚約者、プロフィット・ベルフラワー公爵令息。
家格は上。表向きは非の打ち所のない人物。
だが、シグネットは知っている。
彼は金に執着する。
感情よりも損得を優先し、人を見る基準は常に「価値」だ。
「お金の噂を前にして、あの方がどう動くか」
「それが、婚約を続ける価値の判断材料になる、と」
ホリデイーの言葉に、シグネットは小さく息を吐いた。
「こちらから破棄を申し出ることはできませんもの。
爵位の差は、現実ですわ」
だからこそ――
相手に選ばせる。
金に困っている“かもしれない”女を、切り捨てるか。
それとも、信じるか。
「噂は、もう止まりません」
「ええ。それでいいのです」
シグネットは、窓の外に広がる屋敷の灯りを見つめた。
「噂は、人の本性を引き出します。
特に――お金が絡めば、なおさら」
フレッジリン侯爵家は、揺るがない。
財も、地位も、すでに盤石だ。
失うものは、何もない。
馬車が屋敷の門をくぐる。
夜の静けさの中で、計画はすでに動き出していた。
――この噂が、婚約を終わらせる引き金になることを。
主従の二人は、互いに理解していた。
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