お金がありすぎて困っています。 ――その言い方、嫌な女にしか聞こえませんわ』

ふわふわ

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第11話 引き返せない選択

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第11話 引き返せない選択

 ベルフラワー公爵邸の朝は、どこか重かった。
 窓から差し込む光は変わらず明るいはずなのに、執務室に漂う空気だけが、わずかに澱んでいる。

 プロフィット・ベルフラワー公爵令息は、朝一番に運び込まれた報告書を前に、無言で頁をめくっていた。
 紙の擦れる音が、やけに大きく響く。

「……下がった、か」

 小麦の価格は、前日よりもさらに下落していた。
 急落ではない。
 だが、確実で、連続した下げ。

 それが、何よりも不気味だった。

「殿下」

 側近が、慎重に口を開く。

「市場では、様子見が広がっております。
 商人たちは、買いを急いでおりません」

「……なぜだ」

 プロフィットは、苛立ちを押し殺した声で問い返す。

「在庫は、まだ足りないはずだ。
 小麦は必需品だぞ」

「はい。しかし……」

 側近は、言葉を選ぶ。

「外国産の流入が、想定より継続的でして。
 今後も増える見込みだという噂が……」

「噂、だろう?」

 プロフィットは、ぴしゃりと言い切った。

「噂で動くほど、商人は愚かではない」

 そう言いながらも、胸の奥に小さな違和感が芽生える。

(……噂で動いたのは、私ではないのか?)

 一瞬、そんな考えがよぎる。
 だが、すぐに振り払った。

 自分は違う。
 噂ではなく、数字を見て判断している。

「……買い控えが広がれば、価格はさらに下がります」

 側近の声は、低く、しかし確かだった。

「ならば」

 プロフィットは、机に手をついた。

「ならば、こちらが動かねばならん」

 側近が、息を呑む。

「殿下……まさか」

「売る? 違う」

 彼は、ゆっくりと顔を上げた。

「ここで退けば、これまでの判断がすべて誤りになる」
「……」

「私は、正しい選択をしてきた。
 婚約を破棄し、噂に流されず……いや、噂を“見極めて”きた」

 言葉が、徐々に熱を帯びる。

「今さら、引き返すわけにはいかない」

 それは、論理ではなく、感情だった。
 だが、プロフィット自身は気づいていない。

「……追加で、押さえる」

 側近は、目を伏せた。

「資金は、まだ余裕があります。
 ですが、これ以上となると……」

「問題ない」

 即断。

「価格が下がった今こそ、好機だ。
 これで、完全に市場を握る」

 それが、彼にとって唯一の正解だった。

 選択肢は、すでに一つしか残っていない。
 前へ進むか、すべてを否定するか。

 そして彼は、迷いなく前を選んだ。

 一方――。

 フレッジリン侯爵邸では、同じ数字が、まったく違う意味を持っていた。

「……下落が、定着し始めました」

 ホリデイーの報告に、シグネットは静かに頷く。

「ええ。
 最初の波は、越えましたわね」

 彼女の前には、広げられた複数の帳簿と地図。
 港の位置、交易路、収穫地帯。

 どれも、最初から変わっていない。

「殿下は、どう動きました?」

「……追加の買い付けを」

 その言葉に、シグネットは一瞬だけ目を伏せた。

「そう……」

 それは、残念でもあり、予想通りでもあった。

「人は、一度“正しい”と評価された判断を、手放せません」

 彼女は、静かに言う。

「たとえ、状況が変わっても」

 ホリデイーは、頷いた。

「殿下は、婚約破棄を“成功体験”にしてしまいました」
「ええ。
 それが、今回の判断を縛っています」

 シグネットは、資料を整える。

「……では、こちらは?」

「何もいたしません」

 即答だった。

「もう、十分ですわ」

 相手は、自分で道を選んでいる。
 背中を押す必要も、罠を仕掛ける必要もない。

 ただ、事実が追いつくのを待つだけ。

「……殿下は、引き返せません」

 ホリデイーが、静かに言う。

「ええ」

 シグネットは、穏やかに微笑んだ。

「でも、それは“できない”のではなく、“選ばない”だけです」

 責任は、すべて彼自身にある。

 その日の夕方、ベルフラワー公爵邸では、倉庫にさらに小麦が積み上げられていた。
 袋の山は高くなり、帳簿の数字も増えていく。

 だが、その重みは、すでに“資産”ではなかった。

 夜更け、プロフィットは一人、書斎に残っていた。
 灯りの下で帳簿を見つめながら、額に手を当てる。

「……なぜだ」

 数字は、確かに増えている。
 だが、心は軽くならない。

 引き返せないと分かっているからこそ、
 前に進むしかないと自分に言い聞かせる。

 それが、唯一の救いであり、
 同時に――
 破滅への一本道だということに、
 彼はまだ、気づこうとしなかった。

 選択は、もう終わっている。
 あとは、その結果を受け取るだけだった。
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