10 / 40
第10話 崩れ始める数字
しおりを挟む
第10話 崩れ始める数字
ベルフラワー公爵邸の執務室は、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。
厚い絨毯、磨かれた机、壁一面の本棚。そこに座るプロフィット・ベルフラワー公爵令息の姿も、これまでと何一つ変わらない――はずだった。
ただ一つ、違っていたのは、彼の視線が帳簿から離れなくなったことだ。
「……微妙だな」
独り言のように呟き、彼は頁を繰る。
数字は、確かに並んでいる。
だが、そこにあったはずの“勢い”が、どこか鈍っている。
「市場価格が……下がった?」
ほんのわずかだ。
昨日より、ほんの数刻前より、少しだけ。
側近が慎重な口調で答える。
「はい。
ただ、一時的な調整かと。
最近、外国産の小麦が少量、流通し始めた影響ではないかと……」
「少量、だろう?」
プロフィットは、即座に言い切った。
「我が家が押さえている量に比べれば、取るに足らん」
側近は、言葉を選ぶ。
「確かに、量としては……ですが、商人たちの動きが少し変わってきております」
「どういう意味だ」
「……買い控えです」
その言葉に、プロフィットの指が止まった。
「買い控え?」
「はい。
“もう少し待てば、価格が下がるかもしれない”
そう考えている者が増えているようです」
プロフィットは、鼻で笑った。
「愚かな」
彼は、帳簿を閉じる。
「相場というものは、勢いだ。
皆が買うと思えば、買わざるを得ない」
だが、その言葉には、以前の確信がなかった。
(なぜ、皆が待つ?)
小麦は必要不可欠な物資だ。
待てば、手に入らなくなるはず。
その理屈が、揺らぎ始めている。
同じ頃、王都の市場では、別の空気が漂っていた。
「……今日は、値が落ちましたね」
「ええ。
倉庫にまだ余裕がある、と聞きましたわ」
商人たちは、慎重だった。
急いで買わない。
焦らない。
なぜなら、彼らは知り始めていたからだ。
外国産の小麦が、継続的に入ってくることを。
そして、それが“一時的なものではない”ということを。
一方、フレッジリン侯爵邸。
「……動き始めましたわね」
シグネットは、届いた報告書を静かに読み終えた。
その表情に、驚きはない。
「はい。
価格が、少しずつ下がっています」
ホリデイーは、淡々と告げる。
「まだ、大きな混乱ではありませんが……」
「ええ。
“まだ”です」
シグネットは、報告書を机に置いた。
「最初の下落は、必ず否定されます」
「殿下は、“一時的な調整”と判断なさるでしょう」
「ええ。
なぜなら、ご自身の判断が正しいと信じていらっしゃるから」
彼女は、窓の外を見つめた。
空は、相変わらず穏やかだ。
嵐の前の静けさは、まだ続いている。
「……殿下は、どう動くでしょうか」
ホリデイーの問いに、シグネットは微かに微笑んだ。
「決まっていますわ。
“追加”です」
値が下がり始めた時、
撤退するか、踏み込むか。
自信を持つ者ほど、後者を選ぶ。
「下がった分、安く仕入れられる。
そう考えるでしょう」
ホリデイーは、静かに息を吐いた。
「……最悪の選択ですね」
「ええ。
ですが、ご本人にとっては“合理的”なのです」
その夜、ベルフラワー公爵邸では、再び指示が出されていた。
「価格が下がった今が好機だ」
プロフィットは、はっきりと言った。
「今のうちに、さらに買い増せ。
これで、市場は完全に押さえられる」
側近は、一瞬ためらったが、逆らわなかった。
彼は、英断を下す男。
そう評価されている人物なのだ。
倉庫には、さらに小麦が運び込まれる。
帳簿の数字は、確かに増えた。
だが――。
数字は、嘘をつかない。
同時に、慰めも与えない。
夜更け、プロフィットは一人、帳簿を見つめていた。
「……おかしい」
利益の欄が、思ったほど伸びていない。
いや、正確には――
伸びるはずの未来が、遠ざかっている。
「……まだだ」
自分に言い聞かせる。
「これは、通過点だ」
だが、その声は、どこか空虚だった。
同じ夜。
フレッジリン侯爵邸では、静かな紅茶の時間が流れていた。
「殿下は、踏み込みました」
ホリデイーの報告に、シグネットは頷く。
「では……」
彼女は、カップを置いた。
「もう、後戻りはできませんわね」
崩れ始めたのは、相場だけではない。
“自分は正しい”という、プロフィットの確信そのものだった。
だが彼は、まだそれを認めない。
数字が本当の意味で牙を剥くのは、
――これからなのだから。
ベルフラワー公爵邸の執務室は、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。
厚い絨毯、磨かれた机、壁一面の本棚。そこに座るプロフィット・ベルフラワー公爵令息の姿も、これまでと何一つ変わらない――はずだった。
ただ一つ、違っていたのは、彼の視線が帳簿から離れなくなったことだ。
「……微妙だな」
独り言のように呟き、彼は頁を繰る。
数字は、確かに並んでいる。
だが、そこにあったはずの“勢い”が、どこか鈍っている。
「市場価格が……下がった?」
ほんのわずかだ。
昨日より、ほんの数刻前より、少しだけ。
側近が慎重な口調で答える。
「はい。
ただ、一時的な調整かと。
最近、外国産の小麦が少量、流通し始めた影響ではないかと……」
「少量、だろう?」
プロフィットは、即座に言い切った。
「我が家が押さえている量に比べれば、取るに足らん」
側近は、言葉を選ぶ。
「確かに、量としては……ですが、商人たちの動きが少し変わってきております」
「どういう意味だ」
「……買い控えです」
その言葉に、プロフィットの指が止まった。
「買い控え?」
「はい。
“もう少し待てば、価格が下がるかもしれない”
そう考えている者が増えているようです」
プロフィットは、鼻で笑った。
「愚かな」
彼は、帳簿を閉じる。
「相場というものは、勢いだ。
皆が買うと思えば、買わざるを得ない」
だが、その言葉には、以前の確信がなかった。
(なぜ、皆が待つ?)
小麦は必要不可欠な物資だ。
待てば、手に入らなくなるはず。
その理屈が、揺らぎ始めている。
同じ頃、王都の市場では、別の空気が漂っていた。
「……今日は、値が落ちましたね」
「ええ。
倉庫にまだ余裕がある、と聞きましたわ」
商人たちは、慎重だった。
急いで買わない。
焦らない。
なぜなら、彼らは知り始めていたからだ。
外国産の小麦が、継続的に入ってくることを。
そして、それが“一時的なものではない”ということを。
一方、フレッジリン侯爵邸。
「……動き始めましたわね」
シグネットは、届いた報告書を静かに読み終えた。
その表情に、驚きはない。
「はい。
価格が、少しずつ下がっています」
ホリデイーは、淡々と告げる。
「まだ、大きな混乱ではありませんが……」
「ええ。
“まだ”です」
シグネットは、報告書を机に置いた。
「最初の下落は、必ず否定されます」
「殿下は、“一時的な調整”と判断なさるでしょう」
「ええ。
なぜなら、ご自身の判断が正しいと信じていらっしゃるから」
彼女は、窓の外を見つめた。
空は、相変わらず穏やかだ。
嵐の前の静けさは、まだ続いている。
「……殿下は、どう動くでしょうか」
ホリデイーの問いに、シグネットは微かに微笑んだ。
「決まっていますわ。
“追加”です」
値が下がり始めた時、
撤退するか、踏み込むか。
自信を持つ者ほど、後者を選ぶ。
「下がった分、安く仕入れられる。
そう考えるでしょう」
ホリデイーは、静かに息を吐いた。
「……最悪の選択ですね」
「ええ。
ですが、ご本人にとっては“合理的”なのです」
その夜、ベルフラワー公爵邸では、再び指示が出されていた。
「価格が下がった今が好機だ」
プロフィットは、はっきりと言った。
「今のうちに、さらに買い増せ。
これで、市場は完全に押さえられる」
側近は、一瞬ためらったが、逆らわなかった。
彼は、英断を下す男。
そう評価されている人物なのだ。
倉庫には、さらに小麦が運び込まれる。
帳簿の数字は、確かに増えた。
だが――。
数字は、嘘をつかない。
同時に、慰めも与えない。
夜更け、プロフィットは一人、帳簿を見つめていた。
「……おかしい」
利益の欄が、思ったほど伸びていない。
いや、正確には――
伸びるはずの未来が、遠ざかっている。
「……まだだ」
自分に言い聞かせる。
「これは、通過点だ」
だが、その声は、どこか空虚だった。
同じ夜。
フレッジリン侯爵邸では、静かな紅茶の時間が流れていた。
「殿下は、踏み込みました」
ホリデイーの報告に、シグネットは頷く。
「では……」
彼女は、カップを置いた。
「もう、後戻りはできませんわね」
崩れ始めたのは、相場だけではない。
“自分は正しい”という、プロフィットの確信そのものだった。
だが彼は、まだそれを認めない。
数字が本当の意味で牙を剥くのは、
――これからなのだから。
0
あなたにおすすめの小説
夫に捨てられた私は冷酷公爵と再婚しました
香木陽灯
恋愛
伯爵夫人のマリアーヌは「夜を共に過ごす気にならない」と突然夫に告げられ、わずか五ヶ月で離縁することとなる。
これまで女癖の悪い夫に何度も不倫されても、役立たずと貶されても、文句ひとつ言わず彼を支えてきた。だがその苦労は報われることはなかった。
実家に帰っても父から不当な扱いを受けるマリアーヌ。気分転換に繰り出した街で倒れていた貴族の男性と出会い、彼を助ける。
「離縁したばかり? それは相手の見る目がなかっただけだ。良かったじゃないか。君はもう自由だ」
「自由……」
もう自由なのだとマリアーヌが気づいた矢先、両親と元夫の策略によって再婚を強いられる。相手は婚約者が逃げ出すことで有名な冷酷公爵だった。
ところが冷酷公爵と会ってみると、以前助けた男性だったのだ。
再婚を受け入れたマリアーヌは、公爵と少しずつ仲良くなっていく。
ところが公爵は王命を受け内密に仕事をしているようで……。
一方の元夫は、財政難に陥っていた。
「頼む、助けてくれ! お前は俺に恩があるだろう?」
元夫の悲痛な叫びに、マリアーヌはにっこりと微笑んだ。
「なぜかしら? 貴方を助ける気になりませんの」
※ふんわり設定です
【完結】悪役令嬢は何故か婚約破棄されない
miniko
恋愛
平凡な女子高生が乙女ゲームの悪役令嬢に転生してしまった。
断罪されて平民に落ちても困らない様に、しっかり手に職つけたり、自立の準備を進める。
家族の為を思うと、出来れば円満に婚約解消をしたいと考え、王子に度々提案するが、王子の反応は思っていたのと違って・・・。
いつの間にやら、王子と悪役令嬢の仲は深まっているみたい。
「僕の心は君だけの物だ」
あれ? どうしてこうなった!?
※物語が本格的に動き出すのは、乙女ゲーム開始後です。
※ご都合主義の展開があるかもです。
※感想欄はネタバレ有り/無しの振り分けをしておりません。本編未読の方はご注意下さい。
とある令嬢の優雅な別れ方 〜婚約破棄されたので、笑顔で地獄へお送りいたします〜
入多麗夜
恋愛
【完結まで執筆済!】
社交界を賑わせた婚約披露の茶会。
令嬢セリーヌ・リュミエールは、婚約者から突きつけられる。
「真実の愛を見つけたんだ」
それは、信じた誠実も、築いてきた未来も踏みにじる裏切りだった。だが、彼女は微笑んだ。
愛よりも冷たく、そして美しく。
笑顔で地獄へお送りいたします――
死にかけ令嬢の逆転
ぽんぽこ狸
恋愛
難しい顔をしたお医者様に今年も余命一年と宣告され、私はその言葉にも慣れてしまい何も思わずに、彼を見送る。
部屋に戻ってきた侍女には、昨年も、一昨年も余命一年と判断されて死にかけているのにどうしてまだ生きているのかと問われて返す言葉も見つからない。
しかしそれでも、私は必死に生きていて将来を誓っている婚約者のアレクシスもいるし、仕事もしている。
だからこそ生きられるだけ生きなければと気持ちを切り替えた。
けれどもそんな矢先、アレクシスから呼び出され、私の体を理由に婚約破棄を言い渡される。すでに新しい相手は決まっているらしく、それは美しく健康な王女リオノーラだった。
彼女に勝てる要素が一つもない私はそのまま追い出され、実家からも見捨てられ、どうしようもない状況に心が折れかけていると、見覚えのある男性が現れ「私を手助けしたい」と言ったのだった。
こちらの作品は第18回恋愛小説大賞にエントリーさせていただいております。よろしければ投票ボタンをぽちっと押していただけますと、大変うれしいです。
【完結】見えてますよ!
ユユ
恋愛
“何故”
私の婚約者が彼だと分かると、第一声はソレだった。
美少女でもなければ醜くもなく。
優秀でもなければ出来損ないでもなく。
高貴でも無ければ下位貴族でもない。
富豪でなければ貧乏でもない。
中の中。
自己主張も存在感もない私は貴族達の中では透明人間のようだった。
唯一認識されるのは婚約者と社交に出る時。
そしてあの言葉が聞こえてくる。
見目麗しく優秀な彼の横に並ぶ私を蔑む令嬢達。
私はずっと願っていた。彼に婚約を解消して欲しいと。
ある日いき過ぎた嫌がらせがきっかけで、見えるようになる。
★注意★
・閑話にはR18要素を含みます。
読まなくても大丈夫です。
・作り話です。
・合わない方はご退出願います。
・完結しています。
物置部屋に追いやられた伯爵令嬢ですが、公爵様に見初められて人生逆転しました〜妹の引き立て役だったのに、今では社交界の花と呼ばれています〜
丸顔ちゃん。
恋愛
伯爵家の令嬢セレナは、実母の死後、継母と義妹に虐げられて育った。
与えられた部屋は使用人以下の物置、食事は残飯、服はボロ。
専属侍女も与えられず、家の運営や帳簿管理まで押し付けられ、
失敗すれば鞭打ち――それが彼女の日常だった。
そんなある日、世間体のためだけに同行させられた夜会で、
セレナは公爵家の跡取りレオンと出会う。
「あなたの瞳は、こんな場所に閉じ込めていいものではない」
彼はセレナの知性と静かな強さに一瞬で心を奪われ、
彼女の境遇を知ると激怒し、家族の前で堂々と求婚する。
嫁ぎ先の公爵家で、セレナは初めて“人として扱われ”、
広い部屋、美味しい食事、優しい侍女たちに囲まれ、
独学で身につけた知識を活かして家の運営でも大活躍。
栄養と愛情を取り戻したセレナは、
誰もが振り返るほどの美しさを開花させ、
社交界で注目される存在となる。
一方、セレナを失った伯爵家は、
彼女の能力なしでは立ち行かず、
ゆっくりと没落していくのだった――。
虐げられた令嬢が、公爵の愛と自分の才能で幸せを掴む逆転物語。
お妃候補に興味はないのですが…なぜか辞退する事が出来ません
Karamimi
恋愛
13歳の侯爵令嬢、ヴィクトリアは体が弱く、空気の綺麗な領地で静かに暮らしていた…というのは表向きの顔。実は彼女、領地の自由な生活がすっかり気に入り、両親を騙してずっと体の弱いふりをしていたのだ。
乗馬や剣の腕は一流、体も鍛えている為今では風邪一つひかない。その上非常に頭の回転が速くずる賢いヴィクトリア。
そんな彼女の元に、両親がお妃候補内定の話を持ってきたのだ。聞けば今年13歳になられたディーノ王太子殿下のお妃候補者として、ヴィクトリアが選ばれたとの事。どのお妃候補者が最も殿下の妃にふさわしいかを見極めるため、半年間王宮で生活をしなければいけないことが告げられた。
最初は抵抗していたヴィクトリアだったが、来年入学予定の面倒な貴族学院に通わなくてもいいという条件で、お妃候補者の話を受け入れたのだった。
“既にお妃には公爵令嬢のマーリン様が決まっているし、王宮では好き勝手しよう”
そう決め、軽い気持ちで王宮へと向かったのだが、なぜかディーノ殿下に気に入られてしまい…
何でもありのご都合主義の、ラブコメディです。
よろしくお願いいたします。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる