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第10話 崩れ始める数字
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第10話 崩れ始める数字
ベルフラワー公爵邸の執務室は、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。
厚い絨毯、磨かれた机、壁一面の本棚。そこに座るプロフィット・ベルフラワー公爵令息の姿も、これまでと何一つ変わらない――はずだった。
ただ一つ、違っていたのは、彼の視線が帳簿から離れなくなったことだ。
「……微妙だな」
独り言のように呟き、彼は頁を繰る。
数字は、確かに並んでいる。
だが、そこにあったはずの“勢い”が、どこか鈍っている。
「市場価格が……下がった?」
ほんのわずかだ。
昨日より、ほんの数刻前より、少しだけ。
側近が慎重な口調で答える。
「はい。
ただ、一時的な調整かと。
最近、外国産の小麦が少量、流通し始めた影響ではないかと……」
「少量、だろう?」
プロフィットは、即座に言い切った。
「我が家が押さえている量に比べれば、取るに足らん」
側近は、言葉を選ぶ。
「確かに、量としては……ですが、商人たちの動きが少し変わってきております」
「どういう意味だ」
「……買い控えです」
その言葉に、プロフィットの指が止まった。
「買い控え?」
「はい。
“もう少し待てば、価格が下がるかもしれない”
そう考えている者が増えているようです」
プロフィットは、鼻で笑った。
「愚かな」
彼は、帳簿を閉じる。
「相場というものは、勢いだ。
皆が買うと思えば、買わざるを得ない」
だが、その言葉には、以前の確信がなかった。
(なぜ、皆が待つ?)
小麦は必要不可欠な物資だ。
待てば、手に入らなくなるはず。
その理屈が、揺らぎ始めている。
同じ頃、王都の市場では、別の空気が漂っていた。
「……今日は、値が落ちましたね」
「ええ。
倉庫にまだ余裕がある、と聞きましたわ」
商人たちは、慎重だった。
急いで買わない。
焦らない。
なぜなら、彼らは知り始めていたからだ。
外国産の小麦が、継続的に入ってくることを。
そして、それが“一時的なものではない”ということを。
一方、フレッジリン侯爵邸。
「……動き始めましたわね」
シグネットは、届いた報告書を静かに読み終えた。
その表情に、驚きはない。
「はい。
価格が、少しずつ下がっています」
ホリデイーは、淡々と告げる。
「まだ、大きな混乱ではありませんが……」
「ええ。
“まだ”です」
シグネットは、報告書を机に置いた。
「最初の下落は、必ず否定されます」
「殿下は、“一時的な調整”と判断なさるでしょう」
「ええ。
なぜなら、ご自身の判断が正しいと信じていらっしゃるから」
彼女は、窓の外を見つめた。
空は、相変わらず穏やかだ。
嵐の前の静けさは、まだ続いている。
「……殿下は、どう動くでしょうか」
ホリデイーの問いに、シグネットは微かに微笑んだ。
「決まっていますわ。
“追加”です」
値が下がり始めた時、
撤退するか、踏み込むか。
自信を持つ者ほど、後者を選ぶ。
「下がった分、安く仕入れられる。
そう考えるでしょう」
ホリデイーは、静かに息を吐いた。
「……最悪の選択ですね」
「ええ。
ですが、ご本人にとっては“合理的”なのです」
その夜、ベルフラワー公爵邸では、再び指示が出されていた。
「価格が下がった今が好機だ」
プロフィットは、はっきりと言った。
「今のうちに、さらに買い増せ。
これで、市場は完全に押さえられる」
側近は、一瞬ためらったが、逆らわなかった。
彼は、英断を下す男。
そう評価されている人物なのだ。
倉庫には、さらに小麦が運び込まれる。
帳簿の数字は、確かに増えた。
だが――。
数字は、嘘をつかない。
同時に、慰めも与えない。
夜更け、プロフィットは一人、帳簿を見つめていた。
「……おかしい」
利益の欄が、思ったほど伸びていない。
いや、正確には――
伸びるはずの未来が、遠ざかっている。
「……まだだ」
自分に言い聞かせる。
「これは、通過点だ」
だが、その声は、どこか空虚だった。
同じ夜。
フレッジリン侯爵邸では、静かな紅茶の時間が流れていた。
「殿下は、踏み込みました」
ホリデイーの報告に、シグネットは頷く。
「では……」
彼女は、カップを置いた。
「もう、後戻りはできませんわね」
崩れ始めたのは、相場だけではない。
“自分は正しい”という、プロフィットの確信そのものだった。
だが彼は、まだそれを認めない。
数字が本当の意味で牙を剥くのは、
――これからなのだから。
ベルフラワー公爵邸の執務室は、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。
厚い絨毯、磨かれた机、壁一面の本棚。そこに座るプロフィット・ベルフラワー公爵令息の姿も、これまでと何一つ変わらない――はずだった。
ただ一つ、違っていたのは、彼の視線が帳簿から離れなくなったことだ。
「……微妙だな」
独り言のように呟き、彼は頁を繰る。
数字は、確かに並んでいる。
だが、そこにあったはずの“勢い”が、どこか鈍っている。
「市場価格が……下がった?」
ほんのわずかだ。
昨日より、ほんの数刻前より、少しだけ。
側近が慎重な口調で答える。
「はい。
ただ、一時的な調整かと。
最近、外国産の小麦が少量、流通し始めた影響ではないかと……」
「少量、だろう?」
プロフィットは、即座に言い切った。
「我が家が押さえている量に比べれば、取るに足らん」
側近は、言葉を選ぶ。
「確かに、量としては……ですが、商人たちの動きが少し変わってきております」
「どういう意味だ」
「……買い控えです」
その言葉に、プロフィットの指が止まった。
「買い控え?」
「はい。
“もう少し待てば、価格が下がるかもしれない”
そう考えている者が増えているようです」
プロフィットは、鼻で笑った。
「愚かな」
彼は、帳簿を閉じる。
「相場というものは、勢いだ。
皆が買うと思えば、買わざるを得ない」
だが、その言葉には、以前の確信がなかった。
(なぜ、皆が待つ?)
小麦は必要不可欠な物資だ。
待てば、手に入らなくなるはず。
その理屈が、揺らぎ始めている。
同じ頃、王都の市場では、別の空気が漂っていた。
「……今日は、値が落ちましたね」
「ええ。
倉庫にまだ余裕がある、と聞きましたわ」
商人たちは、慎重だった。
急いで買わない。
焦らない。
なぜなら、彼らは知り始めていたからだ。
外国産の小麦が、継続的に入ってくることを。
そして、それが“一時的なものではない”ということを。
一方、フレッジリン侯爵邸。
「……動き始めましたわね」
シグネットは、届いた報告書を静かに読み終えた。
その表情に、驚きはない。
「はい。
価格が、少しずつ下がっています」
ホリデイーは、淡々と告げる。
「まだ、大きな混乱ではありませんが……」
「ええ。
“まだ”です」
シグネットは、報告書を机に置いた。
「最初の下落は、必ず否定されます」
「殿下は、“一時的な調整”と判断なさるでしょう」
「ええ。
なぜなら、ご自身の判断が正しいと信じていらっしゃるから」
彼女は、窓の外を見つめた。
空は、相変わらず穏やかだ。
嵐の前の静けさは、まだ続いている。
「……殿下は、どう動くでしょうか」
ホリデイーの問いに、シグネットは微かに微笑んだ。
「決まっていますわ。
“追加”です」
値が下がり始めた時、
撤退するか、踏み込むか。
自信を持つ者ほど、後者を選ぶ。
「下がった分、安く仕入れられる。
そう考えるでしょう」
ホリデイーは、静かに息を吐いた。
「……最悪の選択ですね」
「ええ。
ですが、ご本人にとっては“合理的”なのです」
その夜、ベルフラワー公爵邸では、再び指示が出されていた。
「価格が下がった今が好機だ」
プロフィットは、はっきりと言った。
「今のうちに、さらに買い増せ。
これで、市場は完全に押さえられる」
側近は、一瞬ためらったが、逆らわなかった。
彼は、英断を下す男。
そう評価されている人物なのだ。
倉庫には、さらに小麦が運び込まれる。
帳簿の数字は、確かに増えた。
だが――。
数字は、嘘をつかない。
同時に、慰めも与えない。
夜更け、プロフィットは一人、帳簿を見つめていた。
「……おかしい」
利益の欄が、思ったほど伸びていない。
いや、正確には――
伸びるはずの未来が、遠ざかっている。
「……まだだ」
自分に言い聞かせる。
「これは、通過点だ」
だが、その声は、どこか空虚だった。
同じ夜。
フレッジリン侯爵邸では、静かな紅茶の時間が流れていた。
「殿下は、踏み込みました」
ホリデイーの報告に、シグネットは頷く。
「では……」
彼女は、カップを置いた。
「もう、後戻りはできませんわね」
崩れ始めたのは、相場だけではない。
“自分は正しい”という、プロフィットの確信そのものだった。
だが彼は、まだそれを認めない。
数字が本当の意味で牙を剥くのは、
――これからなのだから。
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