お金がありすぎて困っています。 ――その言い方、嫌な女にしか聞こえませんわ』

ふわふわ

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第9話 静かな待機

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第9話 静かな待機

 王都の空は、妙に穏やかだった。
 雲一つない青空が続き、人々はこの平穏が当たり前であるかのように振る舞っている。

 ベルフラワー公爵邸では、倉庫に積み上げられた小麦袋の数が、日を追うごとに増えていた。
 帳簿上の資産は膨らみ、紙の上では確かに“成功”している。

「殿下、最新の報告です」

 側近が差し出した書類に、プロフィット・ベルフラワー公爵令息は満足げに目を落とした。

「市場価格は、依然として上昇傾向です。
 商人たちも、手に入らないと焦り始めております」

「当然だ」

 プロフィットは、鼻で笑う。

「供給を押さえれば、相場は上がる。
 これは、単純な理屈だ」

 その言葉に、誰も異論を挟まない。
 彼は“正しい判断を下した男”であり、
 その評価が、今や周囲の常識になっている。

「追加の買い付けについては……」

「問題ない。
 資金はある」

 彼は、即座に言い切った。

 金は、使うためにある。
 使わずに眠らせておく方が、よほど愚かだ。

(婚約を切って、本当に良かった)

 心の中で、そう繰り返す。
 もし、あの女侯爵との縁が続いていたなら、
 「慎重に」「今は様子を見てはどうか」
 そんな言葉が、どこかで耳に入っていたかもしれない。

 だが、今は違う。

 自分の判断だけで、すべてを決められる。

 それが、何よりも心地よかった。

 一方――。

 フレッジリン侯爵邸では、まったく逆の空気が流れていた。

 シグネットは、書斎の大きな机に広げられた複数の資料を、静かに見比べている。
 そこに並ぶのは、各地の収穫予測、交易路の情報、港の動向。

「……数字は、正直ですわね」

 彼女の声は、淡々としていた。

「はい。
 今年は、国外での収穫量が予想以上に多いようです」

 ホリデイーが、控えめに補足する。

「輸送も滞りなく進んでおります。
 市場に出回るのは……時間の問題かと」

「ええ」

 シグネットは、資料を閉じた。

 価格は、必ず下がる。
 それも、一時的ではなく、致命的な形で。

 だが――

「今は、まだ早いですわ」

 ホリデイーは、その言葉の意味を理解している。

「殿下は、今が最高潮です」

「ええ。
 期待と安心が、最も膨らんでいる時」

 人は、その状態にある時、
 悪い知らせを受け取ろうとしない。

 数字が少し揺れたところで、
 「一時的なものだ」と判断する。

 自分が正しいと信じている限り、
 撤退という選択肢は、最初から存在しない。

「……何もしない、のですね」

 ホリデイーの問いに、シグネットは微笑んだ。

「ええ。
 待つことも、立派な判断ですわ」

 彼女は、窓の外に目を向けた。

 庭では、季節外れの花が、静かに揺れている。
 風は穏やかで、嵐の気配など微塵もない。

「嵐は、予告なしに来るものではありません」

 静かに、言葉を続ける。

「必ず、その前に“静けさ”があります」

 ホリデイーは、深く頷いた。

 この静けさが、最後の猶予だ。

 同じ頃、社交界では、別の静けさが広がっていた。

「最近、噂が落ち着きましたわね」
「ええ。結局、ベルフラワー公爵令息は正しかったのでしょう」

 人々は、すでに結論を出している。
 “金に困っていた侯爵令嬢は切られ、賢い公爵令息が勝った”。

 その物語が、完成してしまった。

 リス・クライム伯爵令嬢もまた、その空気に酔っていた。

「これで、殿下も落ち着かれましたわね」

 そう言って、微笑む。
 自分が噂を“少しだけ”後押ししたことなど、
 もはや些細なことだと思っている。

(すべて、うまくいった)

 彼女もまた、勝者の側にいると信じて疑わなかった。

 だが――。

 その夜、シグネットは一通の報告を受け取った。

「……ついに、入りましたわね」

 ホリデイーが、小さく頷く。

「はい。
 外国産小麦が、正式に市場へ流入を始めました」

 まだ、価格は大きく動いていない。
 だが、それは“始まり”にすぎない。

「では……」

 シグネットは、静かに紅茶を置いた。

「ここからは、相場が判断します」

 人ではない。
 噂でもない。
 誰かの思惑でもない。

 ただ、現実が。

 静かな待機は、終わりを告げようとしていた。
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