お金がありすぎて困っています。 ――その言い方、嫌な女にしか聞こえませんわ』

ふわふわ

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第13話 逃げ道のない数字

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第13話 逃げ道のない数字

 朝から、ベルフラワー公爵家の屋敷には、重苦しい空気が漂っていた。

 いつもであれば、使用人たちの足音や控えめな挨拶が、規則正しく廊下に響く。
 だがこの日は、どこか歯切れが悪い。声は小さく、動きも慎重で、まるで屋敷そのものが息を潜めているかのようだった。

 その中心にいるのが、プロフィット・ベルフラワー公爵令息である。

「……これで、三日連続か」

 執務室の机に広げられた帳簿を見下ろし、彼は低く呟いた。

 小麦の価格は、昨日よりもさらに下がっていた。
 暴落と呼ぶにはまだ早い、と自分に言い聞かせたいところだが、数字は容赦なく現実を突きつけてくる。

「取引量も、減少しています」

 執事が、いつもより硬い声で報告する。

「市場では、外国産小麦が主流になりつつあり……国内産は、動きが鈍い状態です」

「安物に流れているだけだ」

 プロフィットは即座に言い返した。

「質の違いを理解すれば、必ず戻る」

「……はい」

 執事は一礼したものの、その表情からは納得の色が見えなかった。

 帳簿をめくる音が、やけに大きく感じられる。

 仕入れ価格。
 保管費用。
 人件費。

 小麦が倉庫にある限り、金は出ていく。
 売れなければ、入ってくるものはない。

(想定より……出費が早い)

 心の中でそう思った瞬間、プロフィットは苛立ちを覚えた。

(違う。これは想定内だ)

 そうでなければ、自分の判断が誤りだったことを認めることになる。

 彼は椅子から立ち上がり、窓の外を見た。

 穏やかな青空。
 街はいつも通りに動いている。

(市場が騒ぎすぎなのだ)

 小麦は生活必需品だ。
 需要が消えることはない。

「……倉庫の状況は?」

 振り返って問いかけると、執事は一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。

「満杯です」
「これ以上の保管は難しく、追加の倉庫を借りる必要がございます」

「追加の倉庫だと?」

 プロフィットの声が、わずかに尖る。

「どれほどかかる」

「月ごとに……相応の費用が」

 具体的な金額を聞かずとも、重さは伝わってきた。

 沈黙が、執務室を支配する。

(……売ればいいのか?)

 一瞬、そんな考えが頭をよぎる。

 だが、それはすぐに打ち消された。

(今売れば、赤字が確定する)

 それだけは、絶対に避けなければならない。
 赤字を出した瞬間、この取引は「失敗」になる。

「……いや、今は動かない」

 プロフィットは、きっぱりと言った。

「市場が落ち着くまで待つ」

 執事は、何か言いたげだったが、結局は口を閉ざした。

 午後になると、別の報告が届いた。

「一部の商人が、価格をさらに下げて販売しています」

「……なぜだ」

「在庫を抱えきれなくなったようです」

 プロフィットは、思わず舌打ちした。

(愚か者どもめ)

 安値で売れば、市場全体が引きずられる。
 だが、それでも売らなければならないほど、追い詰められているということだ。

(……追い詰められている?)

 その言葉が、胸に引っかかる。

 まるで、自分も同じ立場にいるかのような響きだったからだ。

(違う)

 彼は、強く首を振る。

(私は違う)

 ベルフラワー公爵家は名門だ。
 資金力も、人脈もある。

 目先の数字に惑わされる必要はない。

 夜。
 屋敷が静まり返った頃、プロフィットは一人、再び帳簿と向き合っていた。

 灯りの下で見る数字は、昼間よりも生々しい。

(……このまま、数ヶ月続いたら)

 計算しなくても、結果は見える。

 だが、その結論に辿り着く前に、彼は思考を止めた。

(いや、続かない)

 そう信じなければならない。

 ふと、別の帳面が目に入る。
 社交界の噂をまとめた報告書だ。

 その中に、やはり名前があった。

 ――シグネット・フレッジリン侯爵。

 プロフィットは、鼻で笑う。

「……金に困っている、か」

 噂は、相変わらずだ。

 借金がある。
 見栄のために浪費している。
 いずれ破綻する。

(ならば……)

 胸の奥で、奇妙な安堵が広がる。

(私だけではない)

 自分が苦しいのは、市場のせい。
 だが、あの女は、己の愚かさのせいだ。

(先に崩れるのは、あちらだ)

 そう思うことで、かろうじて平静を保つ。

 その夜、ベルフラワー公爵家の倉庫では、
 動かぬ小麦の山が、静かに積み上がっていた。

 それは、資産ではなく、
 時間と金を食い続ける重荷として。

 プロフィット・ベルフラワー公爵令息は、まだ知らない。

 この時点で、彼に残された逃げ道が、
 すでにほとんど塞がれているという事実を。

 そして、
 自分が見下しているその噂の女こそが、
 まったく別の場所から、この状況を眺めていることを。
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