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第23話 手を伸ばさなかった理由
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第23話 手を伸ばさなかった理由
フレッジリン侯爵邸の朝は、相変わらず静かだった。
大広間に差し込む光は柔らかく、忙しなく動く使用人の足音も、どこか落ち着いている。
市場が揺れ、社交界がざわついている最中であっても、この屋敷の時間だけは、乱れない。
シグネット・フレッジリン侯爵は、書斎の机に向かい、数通の報告書に目を通していた。
小麦の分配状況。
学校給食の反応。
孤児院からの感謝状――というより、次に必要な支援物資の具体的な要望。
「……順調ですね」
傍らで控えるホリデイが、小さく頷く。
「はい。混乱は見られません」
「むしろ、以前より安定しております」
シグネットは、報告書を閉じた。
「それなら、問題ありません」
必要なところに、必要なだけ。
それ以上でも、それ以下でもない。
彼女が行ったのは、あくまで“調整”だった。
誰かを救うために英雄になる必要も、
誰かを切り捨てて勝者になる必要もない。
その時、書斎の扉が叩かれた。
「お嬢様」
使用人が、一礼する。
「ベルフラワー公爵家より、書簡が届いております」
ホリデイの眉が、わずかに動いた。
「……また、ですか」
使用人が差し出した封筒を、シグネットは受け取った。
封蝋に刻まれた紋章を見ただけで、差出人は分かる。
プロフィット・ベルフラワー公爵令息。
静かに、封を切る。
中の文面は、丁寧に整えられていた。
以前のような尊大さはない。
だが、卑屈さもない。
――今回の件について、改めて感謝を申し上げたい。
――そして、今後について、一度お話の機会を頂ければと存じます。
最後まで読み終え、シグネットは何も言わずに書簡を畳んだ。
ホリデイが、慎重に尋ねる。
「……お返事は?」
シグネットは、少し考えてから答えた。
「出しません」
即答ではないが、迷いもなかった。
ホリデイは、理由を聞かなかった。
それでも、確認だけはする。
「完全に、関わらないと?」
「ええ」
シグネットは、静かに頷く。
「今さら、言葉を交わす必要はありません」
その言葉に、冷たさはない。
むしろ、淡々とした事実の確認に近い。
「私は、あの方を見捨てたわけではありません」
「ただ……」
一瞬、視線を落とす。
「最初から、手を伸ばす相手ではなかっただけです」
それが、真実だった。
小麦を引き取ったのは、
ベルフラワー公爵家を救うためではない。
市場を守り、
使用人や領民を守るため。
プロフィット本人は、
その“対象”に含まれていなかった。
同じ頃。
ベルフラワー公爵邸の執務室で、
プロフィットは返事の来ない書簡を前に、黙り込んでいた。
(……やはり、来ないか)
期待していたわけではない。
だが、完全な沈黙は、思っていた以上に堪えた。
拒絶される方が、まだ理解できる。
だが、無視は――
存在そのものを、考慮されていない証だ。
「プロフィット様」
執事が、静かに声をかける。
「クライム伯爵家の件ですが……」
その名に、わずかに顔が歪む。
「……何か、分かったのか」
「リス・クライム令嬢は、
隣国へ渡った可能性が高いとのことです」
逃げた。
完全に。
形勢が悪くなった瞬間、
何の責任も取らず、姿を消した。
(……私は、残った)
それだけが、奇妙に重くのしかかる。
逃げなかったことが、
評価されるわけでもない。
ただ、
結果と向き合わされるだけだ。
「……私は」
プロフィットは、かすれた声で呟く。
「何を、間違えた」
執事は答えない。
答えは、彼自身が知っているからだ。
噂を信じた。
都合のいい話だけを選んだ。
責任を、他人に押し付けた。
そして――
自分が“選ばれる側”だと、疑わなかった。
一方、
フレッジリン侯爵邸では、
新たな訪問者が到着していた。
隣国の商会代表。
そして、若い貴族の使者。
いずれも、
“これから”を見据えた話を持ってきている。
「お時間をいただけますでしょうか」
シグネットは、穏やかに応じた。
「内容によります」
その返答に、
使者たちは背筋を正す。
誰とでも会うわけではない。
だが、
話を聞く価値があるかどうかは、
最初の一言で判断する。
それが、今の彼女だ。
応接室で話が始まる頃、
ホリデイは一歩下がった位置で、
その背中を見つめていた。
(……もう、過去に戻ることはない)
婚約を破棄された令嬢でも、
噂に翻弄された若い女でもない。
今のシグネットは、
自分で選び、
自分で責任を取る当主だ。
夜。
書斎に戻ったシグネットは、
一日の報告を整理しながら、
ふと、手を止めた。
ベルフラワー家からの書簡は、
まだ机の端に置かれている。
それを見つめ、
小さく息を吐いた。
「……伸ばさなかった手は、
後悔にはなりません」
それは、
自分に言い聞かせる言葉でもあり、
確信でもあった。
過去に縋らない。
噂に振り回されない。
必要なのは、
これから先、
誰と並んで歩くか――それだけ。
シグネット・フレッジリン侯爵は、
静かに灯りを落とした。
彼女が選ばなかった理由は、
復讐でも、怒りでもない。
ただ、その手を伸ばす価値が、
もうそこには存在しなかった。
それだけのことだった。
フレッジリン侯爵邸の朝は、相変わらず静かだった。
大広間に差し込む光は柔らかく、忙しなく動く使用人の足音も、どこか落ち着いている。
市場が揺れ、社交界がざわついている最中であっても、この屋敷の時間だけは、乱れない。
シグネット・フレッジリン侯爵は、書斎の机に向かい、数通の報告書に目を通していた。
小麦の分配状況。
学校給食の反応。
孤児院からの感謝状――というより、次に必要な支援物資の具体的な要望。
「……順調ですね」
傍らで控えるホリデイが、小さく頷く。
「はい。混乱は見られません」
「むしろ、以前より安定しております」
シグネットは、報告書を閉じた。
「それなら、問題ありません」
必要なところに、必要なだけ。
それ以上でも、それ以下でもない。
彼女が行ったのは、あくまで“調整”だった。
誰かを救うために英雄になる必要も、
誰かを切り捨てて勝者になる必要もない。
その時、書斎の扉が叩かれた。
「お嬢様」
使用人が、一礼する。
「ベルフラワー公爵家より、書簡が届いております」
ホリデイの眉が、わずかに動いた。
「……また、ですか」
使用人が差し出した封筒を、シグネットは受け取った。
封蝋に刻まれた紋章を見ただけで、差出人は分かる。
プロフィット・ベルフラワー公爵令息。
静かに、封を切る。
中の文面は、丁寧に整えられていた。
以前のような尊大さはない。
だが、卑屈さもない。
――今回の件について、改めて感謝を申し上げたい。
――そして、今後について、一度お話の機会を頂ければと存じます。
最後まで読み終え、シグネットは何も言わずに書簡を畳んだ。
ホリデイが、慎重に尋ねる。
「……お返事は?」
シグネットは、少し考えてから答えた。
「出しません」
即答ではないが、迷いもなかった。
ホリデイは、理由を聞かなかった。
それでも、確認だけはする。
「完全に、関わらないと?」
「ええ」
シグネットは、静かに頷く。
「今さら、言葉を交わす必要はありません」
その言葉に、冷たさはない。
むしろ、淡々とした事実の確認に近い。
「私は、あの方を見捨てたわけではありません」
「ただ……」
一瞬、視線を落とす。
「最初から、手を伸ばす相手ではなかっただけです」
それが、真実だった。
小麦を引き取ったのは、
ベルフラワー公爵家を救うためではない。
市場を守り、
使用人や領民を守るため。
プロフィット本人は、
その“対象”に含まれていなかった。
同じ頃。
ベルフラワー公爵邸の執務室で、
プロフィットは返事の来ない書簡を前に、黙り込んでいた。
(……やはり、来ないか)
期待していたわけではない。
だが、完全な沈黙は、思っていた以上に堪えた。
拒絶される方が、まだ理解できる。
だが、無視は――
存在そのものを、考慮されていない証だ。
「プロフィット様」
執事が、静かに声をかける。
「クライム伯爵家の件ですが……」
その名に、わずかに顔が歪む。
「……何か、分かったのか」
「リス・クライム令嬢は、
隣国へ渡った可能性が高いとのことです」
逃げた。
完全に。
形勢が悪くなった瞬間、
何の責任も取らず、姿を消した。
(……私は、残った)
それだけが、奇妙に重くのしかかる。
逃げなかったことが、
評価されるわけでもない。
ただ、
結果と向き合わされるだけだ。
「……私は」
プロフィットは、かすれた声で呟く。
「何を、間違えた」
執事は答えない。
答えは、彼自身が知っているからだ。
噂を信じた。
都合のいい話だけを選んだ。
責任を、他人に押し付けた。
そして――
自分が“選ばれる側”だと、疑わなかった。
一方、
フレッジリン侯爵邸では、
新たな訪問者が到着していた。
隣国の商会代表。
そして、若い貴族の使者。
いずれも、
“これから”を見据えた話を持ってきている。
「お時間をいただけますでしょうか」
シグネットは、穏やかに応じた。
「内容によります」
その返答に、
使者たちは背筋を正す。
誰とでも会うわけではない。
だが、
話を聞く価値があるかどうかは、
最初の一言で判断する。
それが、今の彼女だ。
応接室で話が始まる頃、
ホリデイは一歩下がった位置で、
その背中を見つめていた。
(……もう、過去に戻ることはない)
婚約を破棄された令嬢でも、
噂に翻弄された若い女でもない。
今のシグネットは、
自分で選び、
自分で責任を取る当主だ。
夜。
書斎に戻ったシグネットは、
一日の報告を整理しながら、
ふと、手を止めた。
ベルフラワー家からの書簡は、
まだ机の端に置かれている。
それを見つめ、
小さく息を吐いた。
「……伸ばさなかった手は、
後悔にはなりません」
それは、
自分に言い聞かせる言葉でもあり、
確信でもあった。
過去に縋らない。
噂に振り回されない。
必要なのは、
これから先、
誰と並んで歩くか――それだけ。
シグネット・フレッジリン侯爵は、
静かに灯りを落とした。
彼女が選ばなかった理由は、
復讐でも、怒りでもない。
ただ、その手を伸ばす価値が、
もうそこには存在しなかった。
それだけのことだった。
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