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第36話 評価されない価値
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第36話 評価されない価値
王都では、奇妙な静けさが続いていた。
事件が起きたわけでもなく、
誰かが断罪されたわけでもない。
それでも人々は、
どこか落ち着かない。
理由は単純だった。
評価されていたはずの価値が、評価されなくなったからだ。
かつては、
家名があれば信用された。
爵位があれば正しいとされた。
声が大きければ、
意見が通った。
だが今は違う。
「……最近、
“名前”だけでは話が進まないな」
王都の商業ギルドで、
年配の商人が呟いた。
「実績と、
引き受ける責任を示さないと、
誰も動かない」
「面倒な世の中になったものだ」
そう言いながらも、
彼の声には、
ほんのわずかな戸惑いと――
安堵が混じっていた。
フレッジリン侯爵邸では、
いつも通りの朝が始まっている。
豪奢ではない。
だが、必要なものはすべて整っている。
その事実こそが、
多くの人間にとっては、
すでに“異質”だった。
「侯爵」
ホリデイが、
帳簿を一冊抱えて現れた。
「地方の穀物供給について、
新しい問い合わせが来ています」
「内容は?」
「“支援”ではなく、
契約を求めています」
シグネット・フレッジリン侯爵は、
その言葉に、
小さく微笑んだ。
「……いい傾向ですね」
助けてほしい、
ではない。
一緒にやりたい、
でもない。
条件を示し、
責任を分け合う。
それは、
対等な関係の申し出だった。
「対応は?」
「通常の手続きで」
即答だった。
「特別扱いは不要です」
ホリデイは頷く。
「かしこまりました」
そのやり取りを、
もし外部の者が聞けば、
驚くだろう。
これほどの資金力と影響力を持ちながら、
一切それを誇示しない。
それどころか、
利用すらしない。
だが、
それこそがシグネットのやり方だった。
その日の午後、
一つの報告がもたらされた。
「……リス・クライム伯爵令嬢の行方が、
依然として不明とのことです」
ホリデイが、
淡々と伝える。
「王都を離れた形跡はありますが、
行き先は特定できていません」
「そう」
シグネットは、
それ以上の関心を示さなかった。
「探す必要はありません」
「よろしいのですか?」
「ええ」
彼女は、
書類から視線を上げない。
「彼女は、
自分で立つ場所を選びました」
逃げた、
とも言える。
だが、
それを追い詰めることに、
意味はない。
「噂を流し、
責任を引き受けず、
状況が変わった途端に姿を消す」
「それが、
彼女の選択です」
ホリデイは、
一瞬だけ唇を噛み、
そして静かに頷いた。
「……承知しました」
夕刻。
侯爵邸に、
一人の若い貴族が訪れた。
地方の男爵家当主。
爵位は低いが、
態度は実直だった。
「フレッジリン侯爵」
深々と頭を下げる。
「本日は、
お願いではありません」
シグネットは、
応接室に通すよう合図した。
「では?」
「確認です」
男爵は、
真っ直ぐに言った。
「あなたは、
どこまでを“引き受けるつもり”なのですか」
空気が、
一瞬張り詰める。
ホリデイが、
思わず息を呑んだ。
だが、
シグネットは動じない。
「私は、
私が選んだことだけを引き受けます」
「他人の失敗も、
他家の誤算も、
引き受けません」
「ただし――」
言葉を切る。
「自分の判断で動こうとする者が、
不当に切り捨てられる状況は、
見過ごしません」
男爵は、
しばらく沈黙した後、
深く息を吐いた。
「……それを聞けて、
安心しました」
「侯爵がすべてを救うのでは、
ないのですね」
「ええ」
シグネットは、
はっきりと答える。
「それは、
私の役割ではありません」
男爵は、
もう一度頭を下げ、
去っていった。
夜。
書斎で、
ホリデイがぽつりと言った。
「侯爵は……
もっと評価されても、
いいと思います」
「膨大な資金も、
人脈も、
今なら誰もが知っています」
「それでも、
なぜ表に出されないのですか」
シグネットは、
灯りの下で、
静かに答えた。
「評価されるために、
持っているわけではないからです」
「評価される価値は、
使い切った瞬間に、
歪みます」
「……」
「本当に価値があるものは、
評価されなくても、
機能し続ける」
ホリデイは、
その言葉を、
ゆっくりと噛みしめた。
シグネット・フレッジリン侯爵は、
評価を求めない。
賞賛も、
恐れも、
必要としない。
それでも、
彼女の周囲には、
人が集まり、
仕組みが残り、
秩序が続いていく。
評価されない価値――
それこそが、
最も揺るがない価値だと、
彼女は知っている。
だから今日も、
静かに、
目立たぬ場所で、
世界を支えている。
誰に知られなくても、
それでいいと、
確信しながら。
王都では、奇妙な静けさが続いていた。
事件が起きたわけでもなく、
誰かが断罪されたわけでもない。
それでも人々は、
どこか落ち着かない。
理由は単純だった。
評価されていたはずの価値が、評価されなくなったからだ。
かつては、
家名があれば信用された。
爵位があれば正しいとされた。
声が大きければ、
意見が通った。
だが今は違う。
「……最近、
“名前”だけでは話が進まないな」
王都の商業ギルドで、
年配の商人が呟いた。
「実績と、
引き受ける責任を示さないと、
誰も動かない」
「面倒な世の中になったものだ」
そう言いながらも、
彼の声には、
ほんのわずかな戸惑いと――
安堵が混じっていた。
フレッジリン侯爵邸では、
いつも通りの朝が始まっている。
豪奢ではない。
だが、必要なものはすべて整っている。
その事実こそが、
多くの人間にとっては、
すでに“異質”だった。
「侯爵」
ホリデイが、
帳簿を一冊抱えて現れた。
「地方の穀物供給について、
新しい問い合わせが来ています」
「内容は?」
「“支援”ではなく、
契約を求めています」
シグネット・フレッジリン侯爵は、
その言葉に、
小さく微笑んだ。
「……いい傾向ですね」
助けてほしい、
ではない。
一緒にやりたい、
でもない。
条件を示し、
責任を分け合う。
それは、
対等な関係の申し出だった。
「対応は?」
「通常の手続きで」
即答だった。
「特別扱いは不要です」
ホリデイは頷く。
「かしこまりました」
そのやり取りを、
もし外部の者が聞けば、
驚くだろう。
これほどの資金力と影響力を持ちながら、
一切それを誇示しない。
それどころか、
利用すらしない。
だが、
それこそがシグネットのやり方だった。
その日の午後、
一つの報告がもたらされた。
「……リス・クライム伯爵令嬢の行方が、
依然として不明とのことです」
ホリデイが、
淡々と伝える。
「王都を離れた形跡はありますが、
行き先は特定できていません」
「そう」
シグネットは、
それ以上の関心を示さなかった。
「探す必要はありません」
「よろしいのですか?」
「ええ」
彼女は、
書類から視線を上げない。
「彼女は、
自分で立つ場所を選びました」
逃げた、
とも言える。
だが、
それを追い詰めることに、
意味はない。
「噂を流し、
責任を引き受けず、
状況が変わった途端に姿を消す」
「それが、
彼女の選択です」
ホリデイは、
一瞬だけ唇を噛み、
そして静かに頷いた。
「……承知しました」
夕刻。
侯爵邸に、
一人の若い貴族が訪れた。
地方の男爵家当主。
爵位は低いが、
態度は実直だった。
「フレッジリン侯爵」
深々と頭を下げる。
「本日は、
お願いではありません」
シグネットは、
応接室に通すよう合図した。
「では?」
「確認です」
男爵は、
真っ直ぐに言った。
「あなたは、
どこまでを“引き受けるつもり”なのですか」
空気が、
一瞬張り詰める。
ホリデイが、
思わず息を呑んだ。
だが、
シグネットは動じない。
「私は、
私が選んだことだけを引き受けます」
「他人の失敗も、
他家の誤算も、
引き受けません」
「ただし――」
言葉を切る。
「自分の判断で動こうとする者が、
不当に切り捨てられる状況は、
見過ごしません」
男爵は、
しばらく沈黙した後、
深く息を吐いた。
「……それを聞けて、
安心しました」
「侯爵がすべてを救うのでは、
ないのですね」
「ええ」
シグネットは、
はっきりと答える。
「それは、
私の役割ではありません」
男爵は、
もう一度頭を下げ、
去っていった。
夜。
書斎で、
ホリデイがぽつりと言った。
「侯爵は……
もっと評価されても、
いいと思います」
「膨大な資金も、
人脈も、
今なら誰もが知っています」
「それでも、
なぜ表に出されないのですか」
シグネットは、
灯りの下で、
静かに答えた。
「評価されるために、
持っているわけではないからです」
「評価される価値は、
使い切った瞬間に、
歪みます」
「……」
「本当に価値があるものは、
評価されなくても、
機能し続ける」
ホリデイは、
その言葉を、
ゆっくりと噛みしめた。
シグネット・フレッジリン侯爵は、
評価を求めない。
賞賛も、
恐れも、
必要としない。
それでも、
彼女の周囲には、
人が集まり、
仕組みが残り、
秩序が続いていく。
評価されない価値――
それこそが、
最も揺るがない価値だと、
彼女は知っている。
だから今日も、
静かに、
目立たぬ場所で、
世界を支えている。
誰に知られなくても、
それでいいと、
確信しながら。
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