35 / 40
第35話 次に立つ場所
しおりを挟む
第35話 次に立つ場所
王都の朝は、久しぶりに澄んでいた。
重たい噂も、無意味な憶測も、
どこかへ沈んでしまったかのようだ。
人々の視線は、過去ではなく――
次にどこへ向かうかへと、向き始めている。
フレッジリン侯爵邸では、朝から静かな動きが続いていた。
来客の予定はない。
だが、書類は多い。
シグネット・フレッジリン侯爵は書斎に座り、
数通の報告書に目を通していた。
地方の備蓄制度が安定軌道に乗ったこと。
自立を選んだ商会が、予想以上に健闘していること。
そして――
王都周辺で、新たな共同事業の芽が生まれつつあること。
「……ようやく、ですね」
傍らで控えるホリデイが、静かに言った。
「皆さま、
“戻る場所”ではなく、
“次に立つ場所”を探し始めています」
「ええ」
シグネットは、書類を閉じる。
「それが、本来あるべき姿です」
誰かに選ばれることを待つのではなく、
誰かの許可を求めるのでもなく。
自分で立ち、
自分で責任を引き受ける場所を選ぶ。
それができなければ、
同じ過ちを、何度でも繰り返す。
その日の午後。
意外な来客があった。
ベルフラワー公爵邸の使者。
しかも、
プロフィット本人ではない。
「……お取次ぎをお願いできますでしょうか」
控えめな態度の使者に、
ホリデイが一瞬だけ視線を向ける。
シグネットは、
しばらく考えた後、頷いた。
「要件だけ、伺いましょう」
応接室に通された使者は、
深く頭を下げた。
「プロフィット様より、
直接ではなく、
まず文面にて――とのことです」
差し出された封筒には、
ベルフラワー公爵家の紋章が刻まれている。
だが、
その扱いは以前とはまるで違った。
シグネットは封を切り、
静かに読み進めた。
内容は短い。
助けを求める言葉も、
言い訳もない。
ただ、
一つの報告だけが書かれていた。
――私は、
これまでの立場を捨てる決断をしました。
――公爵家の令息としてではなく、
一個人として、
責任を引き受ける場所を探します。
それだけだった。
読み終えたシグネットは、
何も言わずに封筒を畳む。
「……お返事は?」
ホリデイが、
静かに尋ねた。
「不要です」
即答だった。
「彼は、
もう選ばれる側ではありません」
「選ぶ側にも、
まだ立っていない」
「今は、
“立とうとしている途中”です」
それ以上でも、
それ以下でもない。
その状態に、
余計な言葉は必要なかった。
使者が去った後、
ホリデイがぽつりと呟く。
「……少しだけ、
前に進みましたね」
「ええ」
シグネットは、
穏やかに頷いた。
「ですが、
それを評価するのは、
私ではありません」
「彼自身と、
これから関わる人々です」
その夜。
王都の外れで、
小さな集まりが開かれていた。
新たな事業を立ち上げようとする者たち。
かつては、
大きな家名に頼っていた者もいる。
だが今、
そこに並ぶ名前は、
肩書きではなく、
引き受けられる責任で選ばれていた。
「……フレッジリン侯爵に、
関わってもらわなくていいのか?」
誰かが、
不安げに言う。
「いい」
別の者が、
はっきり答えた。
「判断は、
俺たちで引き受ける」
その言葉に、
誰も反論しなかった。
一方、
フレッジリン侯爵邸では、
静かな夜が流れている。
書斎の灯りの下で、
シグネットは、
一日の記録を整理していた。
「……次に立つ場所は、
教えられるものではありません」
小さく、
独白する。
「選び、
踏み出し、
立ち続けて、
初めて“そこ”になります」
かつて、
婚約を破棄され、
噂に晒され、
立場を失った彼女は、
そのことを痛いほど知っている。
だからこそ、
誰かを元の場所に戻そうとはしない。
示すのは、
前に進むという選択肢だけだ。
灯りを落とす前、
シグネットは窓の外を見た。
王都の夜は、
静かだが、
確かに動いている。
戻れない場所があるからこそ、
人は次に立つ場所を探す。
そして、
自分で立つ場所を見つけた者だけが、
本当の意味で、
未来を選べる。
シグネット・フレッジリン侯爵は、
そのことを、
誰よりも知っていた。
だから今日も、
彼女はただ、
次に立つ場所を選ぶ人々を、
静かに見送る。
それが、
彼女が引き受けている役割だった。
王都の朝は、久しぶりに澄んでいた。
重たい噂も、無意味な憶測も、
どこかへ沈んでしまったかのようだ。
人々の視線は、過去ではなく――
次にどこへ向かうかへと、向き始めている。
フレッジリン侯爵邸では、朝から静かな動きが続いていた。
来客の予定はない。
だが、書類は多い。
シグネット・フレッジリン侯爵は書斎に座り、
数通の報告書に目を通していた。
地方の備蓄制度が安定軌道に乗ったこと。
自立を選んだ商会が、予想以上に健闘していること。
そして――
王都周辺で、新たな共同事業の芽が生まれつつあること。
「……ようやく、ですね」
傍らで控えるホリデイが、静かに言った。
「皆さま、
“戻る場所”ではなく、
“次に立つ場所”を探し始めています」
「ええ」
シグネットは、書類を閉じる。
「それが、本来あるべき姿です」
誰かに選ばれることを待つのではなく、
誰かの許可を求めるのでもなく。
自分で立ち、
自分で責任を引き受ける場所を選ぶ。
それができなければ、
同じ過ちを、何度でも繰り返す。
その日の午後。
意外な来客があった。
ベルフラワー公爵邸の使者。
しかも、
プロフィット本人ではない。
「……お取次ぎをお願いできますでしょうか」
控えめな態度の使者に、
ホリデイが一瞬だけ視線を向ける。
シグネットは、
しばらく考えた後、頷いた。
「要件だけ、伺いましょう」
応接室に通された使者は、
深く頭を下げた。
「プロフィット様より、
直接ではなく、
まず文面にて――とのことです」
差し出された封筒には、
ベルフラワー公爵家の紋章が刻まれている。
だが、
その扱いは以前とはまるで違った。
シグネットは封を切り、
静かに読み進めた。
内容は短い。
助けを求める言葉も、
言い訳もない。
ただ、
一つの報告だけが書かれていた。
――私は、
これまでの立場を捨てる決断をしました。
――公爵家の令息としてではなく、
一個人として、
責任を引き受ける場所を探します。
それだけだった。
読み終えたシグネットは、
何も言わずに封筒を畳む。
「……お返事は?」
ホリデイが、
静かに尋ねた。
「不要です」
即答だった。
「彼は、
もう選ばれる側ではありません」
「選ぶ側にも、
まだ立っていない」
「今は、
“立とうとしている途中”です」
それ以上でも、
それ以下でもない。
その状態に、
余計な言葉は必要なかった。
使者が去った後、
ホリデイがぽつりと呟く。
「……少しだけ、
前に進みましたね」
「ええ」
シグネットは、
穏やかに頷いた。
「ですが、
それを評価するのは、
私ではありません」
「彼自身と、
これから関わる人々です」
その夜。
王都の外れで、
小さな集まりが開かれていた。
新たな事業を立ち上げようとする者たち。
かつては、
大きな家名に頼っていた者もいる。
だが今、
そこに並ぶ名前は、
肩書きではなく、
引き受けられる責任で選ばれていた。
「……フレッジリン侯爵に、
関わってもらわなくていいのか?」
誰かが、
不安げに言う。
「いい」
別の者が、
はっきり答えた。
「判断は、
俺たちで引き受ける」
その言葉に、
誰も反論しなかった。
一方、
フレッジリン侯爵邸では、
静かな夜が流れている。
書斎の灯りの下で、
シグネットは、
一日の記録を整理していた。
「……次に立つ場所は、
教えられるものではありません」
小さく、
独白する。
「選び、
踏み出し、
立ち続けて、
初めて“そこ”になります」
かつて、
婚約を破棄され、
噂に晒され、
立場を失った彼女は、
そのことを痛いほど知っている。
だからこそ、
誰かを元の場所に戻そうとはしない。
示すのは、
前に進むという選択肢だけだ。
灯りを落とす前、
シグネットは窓の外を見た。
王都の夜は、
静かだが、
確かに動いている。
戻れない場所があるからこそ、
人は次に立つ場所を探す。
そして、
自分で立つ場所を見つけた者だけが、
本当の意味で、
未来を選べる。
シグネット・フレッジリン侯爵は、
そのことを、
誰よりも知っていた。
だから今日も、
彼女はただ、
次に立つ場所を選ぶ人々を、
静かに見送る。
それが、
彼女が引き受けている役割だった。
0
あなたにおすすめの小説
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢
さら
恋愛
名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。
しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。
王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。
戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。
一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。
あなたに嘘を一つ、つきました
小蝶
恋愛
ユカリナは夫ディランと政略結婚して5年がたつ。まだまだ戦乱の世にあるこの国の騎士である夫は、今日も戦地で命をかけて戦っているはずだった。彼が戦地に赴いて3年。まだ戦争は終わっていないが、勝利と言う戦況が見えてきたと噂される頃、夫は帰って来た。隣に可愛らしい女性をつれて。そして私には何も告げぬまま、3日後には結婚式を挙げた。第2夫人となったシェリーを寵愛する夫。だから、私は愛するあなたに嘘を一つ、つきました…
最後の方にしか主人公目線がない迷作となりました。読みづらかったらご指摘ください。今さらどうにもなりませんが、努力します(`・ω・́)ゞ
王女殿下のモラトリアム
あとさん♪
恋愛
「君は彼の気持ちを弄んで、どういうつもりなんだ?!この悪女が!」
突然、怒鳴られたの。
見知らぬ男子生徒から。
それが余りにも突然で反応できなかったの。
この方、まさかと思うけど、わたくしに言ってるの?
わたくし、アンネローゼ・フォン・ローリンゲン。花も恥じらう16歳。この国の王女よ。
先日、学園内で突然無礼者に絡まれたの。
お義姉様が仰るに、学園には色んな人が来るから、何が起こるか分からないんですって!
婚約者も居ない、この先どうなるのか未定の王女などつまらないと思っていたけれど、それ以来、俄然楽しみが増したわ♪
お義姉様が仰るにはピンクブロンドのライバルが現れるそうなのだけど。
え? 違うの?
ライバルって縦ロールなの?
世間というものは、なかなか複雑で一筋縄ではいかない物なのですね。
わたくしの婚約者も学園で捕まえる事が出来るかしら?
この話は、自分は平凡な人間だと思っている王女が、自分のしたい事や好きな人を見つける迄のお話。
※設定はゆるんゆるん
※ざまぁは無いけど、水戸○門的なモノはある。
※明るいラブコメが書きたくて。
※シャティエル王国シリーズ3作目!
※過去拙作『相互理解は難しい(略)』の12年後、
『王宮勤めにも色々ありまして』の10年後の話になります。
上記未読でも話は分かるとは思いますが、お読みいただくともっと面白いかも。
※ちょいちょい修正が入ると思います。誤字撲滅!
※小説家になろうにも投稿しました。
【完結】え?今になって婚約破棄ですか?私は構いませんが大丈夫ですか?
ゆうぎり
恋愛
カリンは幼少期からの婚約者オリバーに学園で婚約破棄されました。
卒業3か月前の事です。
卒業後すぐの結婚予定で、既に招待状も出し終わり済みです。
もちろんその場で受け入れましたよ。一向に構いません。
カリンはずっと婚約解消を願っていましたから。
でも大丈夫ですか?
婚約破棄したのなら既に他人。迷惑だけはかけないで下さいね。
※ゆるゆる設定です
※軽い感じで読み流して下さい
婚約破棄を申し入れたのは、父です ― 王子様、あなたの企みはお見通しです!
みかぼう。
恋愛
公爵令嬢クラリッサ・エインズワースは、王太子ルーファスの婚約者。
幼い日に「共に国を守ろう」と誓い合ったはずの彼は、
いま、別の令嬢マリアンヌに微笑んでいた。
そして――年末の舞踏会の夜。
「――この婚約、我らエインズワース家の名において、破棄させていただきます!」
エインズワース公爵が力強く宣言した瞬間、
王国の均衡は揺らぎ始める。
誇りを捨てず、誠実を貫く娘。
政の闇に挑む父。
陰謀を暴かんと手を伸ばす宰相の子。
そして――再び立ち上がる若き王女。
――沈黙は逃げではなく、力の証。
公爵令嬢の誇りが、王国の未来を変える。
――荘厳で静謐な政略ロマンス。
(本作品は小説家になろうにも掲載中です)
宮廷外交官の天才令嬢、王子に愛想をつかれて婚約破棄されたあげく、実家まで追放されてケダモノ男爵に読み書きを教えることになりました
悠木真帆
恋愛
子爵令嬢のシャルティナ・ルーリックは宮廷外交官として日々忙しくはたらく毎日。
クールな見た目と頭の回転の速さからついたあだ名は氷の令嬢。
婚約者である王子カイル・ドルトラードを長らくほったらかしてしまうほど仕事に没頭していた。
そんなある日の夜会でシャルティナは王子から婚約破棄を宣言されてしまう。
そしてそのとなりには見知らぬ令嬢が⋯⋯
王子の婚約者ではなくなった途端、シャルティナは宮廷外交官の立場まで失い、見かねた父の強引な勧めで冒険者あがりの男爵のところへ行くことになる。
シャルティナは宮廷外交官の実績を活かして辣腕を振るおうと張り切るが、男爵から命じられた任務は男爵に文字の読み書きを教えることだった⋯⋯
【完結】ひとつだけ、ご褒美いただけますか?――没落令嬢、氷の王子にお願いしたら溺愛されました。
猫屋敷むぎ
恋愛
没落伯爵家の娘の私、ノエル・カスティーユにとっては少し眩しすぎる学院の舞踏会で――
私の願いは一瞬にして踏みにじられました。
母が苦労して買ってくれた唯一の白いドレスは赤ワインに染められ、
婚約者ジルベールは私を見下ろしてこう言ったのです。
「君は、僕に恥をかかせたいのかい?」
まさか――あの優しい彼が?
そんなはずはない。そう信じていた私に、現実は冷たく突きつけられました。
子爵令嬢カトリーヌの冷笑と取り巻きの嘲笑。
でも、私には、味方など誰もいませんでした。
ただ一人、“氷の王子”カスパル殿下だけが。
白いハンカチを差し出し――その瞬間、止まっていた時間が静かに動き出したのです。
「……ひとつだけ、ご褒美いただけますか?」
やがて、勇気を振り絞って願った、小さな言葉。
それは、水底に沈んでいた私の人生をすくい上げ、
冷たい王子の心をそっと溶かしていく――最初の奇跡でした。
没落令嬢ノエルと、孤独な氷の王子カスパル。
これは、そんなじれじれなふたりが“本当の幸せを掴むまで”のお話です。
※全10話+番外編・約2.5万字の短編。一気読みもどうぞ
※わんこが繋ぐ恋物語です
※因果応報ざまぁ。最後は甘く、後味スッキリ
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる