34 / 40
第34話 戻れない場所
しおりを挟む
第34話 戻れない場所
王都の朝は、静かだった。
だが、その静けさは、平穏とは少し違う。
不要なざわめきが消え、
残るべき音だけが残った――
そんな感覚だ。
「……最近、
“あの話”をする人がいなくなりましたね」
フレッジリン侯爵邸の応接室で、
ホリデイが紅茶を注ぎながら言った。
「あの話、とは?」
シグネット・フレッジリン侯爵は、
視線を上げる。
「ベルフラワー公爵家の件です」
シグネットは、
一瞬だけ考え、
小さく頷いた。
「ええ。
終わった話だからでしょう」
誰かが公式に「終わり」を宣言したわけではない。
だが、
人々は本能的に理解していた。
戻れない場所がある、ということを。
その日の昼前、
王都の一角で小さな集まりが開かれていた。
顔ぶれは、
以前なら必ず中央にいたはずの者たち。
だが、今は違う。
「……フレッジリン侯爵の名が、
もう話題にならないな」
一人が、
苛立ちを隠さず言った。
「話題にしても、
誰も反応しないからな」
別の者が、
肩をすくめる。
「否定されない。
反論もされない。
それどころか……
無関心だ」
その言葉に、
全員が黙り込んだ。
批判される方が、
まだ救いがある。
無関心は、
完全に視界から外された証だ。
そしてそれは、
もう戻れない位置にいることを意味していた。
一方、
フレッジリン侯爵邸では、
新しい来客が応接室に案内されていた。
地方の実務官。
まだ若いが、
その態度には迷いがない。
「……侯爵」
彼は、
一礼してから口を開いた。
「今回の件で、
私は一つ確認したいことがあります」
「どうぞ」
シグネットは、
穏やかに促す。
「もし、
過去に判断を誤った者が、
やり直す機会を得たいと願った場合――」
言葉を選びながら、
続ける。
「その者に、
戻る道はあるのでしょうか」
応接室の空気が、
静まった。
重い問いだった。
シグネットは、
すぐには答えない。
少しだけ考え、
静かに口を開く。
「戻る、
という言い方をする限り、
ありません」
若い実務官は、
目を見開いた。
「……では、
救いはないのですか」
「違います」
シグネットは、
首を横に振る。
「同じ場所には戻れない、
というだけです」
その言葉に、
ホリデイがわずかに頷く。
「判断を誤った場所に戻り、
同じ立場を求める――
それは、
成長ではありません」
「ですが」
シグネットは、
真っ直ぐに相手を見る。
「別の場所に立つことは、
いつでもできます」
若い実務官は、
息を呑んだ。
「……それは、
どういう意味でしょうか」
「立場を失った者が、
再び立つには」
「以前と同じ肩書きも、
同じ席も、
必要ありません」
「必要なのは――」
言葉を区切る。
「引き受けた結果と、
向き合い続けること」
それだけだった。
過去をなかったことにはできない。
だが、
未来を選ぶことはできる。
それを理解できるかどうかが、
分かれ目だ。
来客が去った後、
ホリデイが静かに言う。
「……戻れない場所がある、
というのは、
厳しいですね」
「ええ」
シグネットは、
否定しない。
「ですが、
戻れると思わせる方が、
残酷です」
期待を持たせ、
同じ過ちを繰り返させる。
それこそが、
本当の冷酷だ。
夜。
ベルフラワー公爵邸では、
プロフィット・ベルフラワー公爵令息が、
一人で書斎に座っていた。
かつては、
当たり前のように呼ばれていた席。
当然のように、
用意されていた場所。
今は、
どこにもない。
(……戻れない)
その事実を、
ようやく受け入れ始めていた。
だが――
だからこそ、
別の場所に立つしかない。
その覚悟が、
まだ彼には足りなかった。
夜更け。
フレッジリン侯爵邸の書斎で、
シグネットは、
静かに灯りを落とした。
「戻れない場所は、
失敗の証ではありません」
誰に向けるでもなく、
小さく呟く。
「進んだ証です」
同じ場所に戻れないからこそ、
人は前に進む。
同じ立場を失ったからこそ、
別の在り方を選べる。
シグネット・フレッジリン侯爵は、
それを知っている。
だからこそ、
誰にも、
戻る道を示さない。
示すのは、
次に立つべき場所だけだった。
それが、
彼女なりの責任であり、
覚悟だった。
王都の朝は、静かだった。
だが、その静けさは、平穏とは少し違う。
不要なざわめきが消え、
残るべき音だけが残った――
そんな感覚だ。
「……最近、
“あの話”をする人がいなくなりましたね」
フレッジリン侯爵邸の応接室で、
ホリデイが紅茶を注ぎながら言った。
「あの話、とは?」
シグネット・フレッジリン侯爵は、
視線を上げる。
「ベルフラワー公爵家の件です」
シグネットは、
一瞬だけ考え、
小さく頷いた。
「ええ。
終わった話だからでしょう」
誰かが公式に「終わり」を宣言したわけではない。
だが、
人々は本能的に理解していた。
戻れない場所がある、ということを。
その日の昼前、
王都の一角で小さな集まりが開かれていた。
顔ぶれは、
以前なら必ず中央にいたはずの者たち。
だが、今は違う。
「……フレッジリン侯爵の名が、
もう話題にならないな」
一人が、
苛立ちを隠さず言った。
「話題にしても、
誰も反応しないからな」
別の者が、
肩をすくめる。
「否定されない。
反論もされない。
それどころか……
無関心だ」
その言葉に、
全員が黙り込んだ。
批判される方が、
まだ救いがある。
無関心は、
完全に視界から外された証だ。
そしてそれは、
もう戻れない位置にいることを意味していた。
一方、
フレッジリン侯爵邸では、
新しい来客が応接室に案内されていた。
地方の実務官。
まだ若いが、
その態度には迷いがない。
「……侯爵」
彼は、
一礼してから口を開いた。
「今回の件で、
私は一つ確認したいことがあります」
「どうぞ」
シグネットは、
穏やかに促す。
「もし、
過去に判断を誤った者が、
やり直す機会を得たいと願った場合――」
言葉を選びながら、
続ける。
「その者に、
戻る道はあるのでしょうか」
応接室の空気が、
静まった。
重い問いだった。
シグネットは、
すぐには答えない。
少しだけ考え、
静かに口を開く。
「戻る、
という言い方をする限り、
ありません」
若い実務官は、
目を見開いた。
「……では、
救いはないのですか」
「違います」
シグネットは、
首を横に振る。
「同じ場所には戻れない、
というだけです」
その言葉に、
ホリデイがわずかに頷く。
「判断を誤った場所に戻り、
同じ立場を求める――
それは、
成長ではありません」
「ですが」
シグネットは、
真っ直ぐに相手を見る。
「別の場所に立つことは、
いつでもできます」
若い実務官は、
息を呑んだ。
「……それは、
どういう意味でしょうか」
「立場を失った者が、
再び立つには」
「以前と同じ肩書きも、
同じ席も、
必要ありません」
「必要なのは――」
言葉を区切る。
「引き受けた結果と、
向き合い続けること」
それだけだった。
過去をなかったことにはできない。
だが、
未来を選ぶことはできる。
それを理解できるかどうかが、
分かれ目だ。
来客が去った後、
ホリデイが静かに言う。
「……戻れない場所がある、
というのは、
厳しいですね」
「ええ」
シグネットは、
否定しない。
「ですが、
戻れると思わせる方が、
残酷です」
期待を持たせ、
同じ過ちを繰り返させる。
それこそが、
本当の冷酷だ。
夜。
ベルフラワー公爵邸では、
プロフィット・ベルフラワー公爵令息が、
一人で書斎に座っていた。
かつては、
当たり前のように呼ばれていた席。
当然のように、
用意されていた場所。
今は、
どこにもない。
(……戻れない)
その事実を、
ようやく受け入れ始めていた。
だが――
だからこそ、
別の場所に立つしかない。
その覚悟が、
まだ彼には足りなかった。
夜更け。
フレッジリン侯爵邸の書斎で、
シグネットは、
静かに灯りを落とした。
「戻れない場所は、
失敗の証ではありません」
誰に向けるでもなく、
小さく呟く。
「進んだ証です」
同じ場所に戻れないからこそ、
人は前に進む。
同じ立場を失ったからこそ、
別の在り方を選べる。
シグネット・フレッジリン侯爵は、
それを知っている。
だからこそ、
誰にも、
戻る道を示さない。
示すのは、
次に立つべき場所だけだった。
それが、
彼女なりの責任であり、
覚悟だった。
0
あなたにおすすめの小説
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢
さら
恋愛
名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。
しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。
王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。
戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。
一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。
あなたに嘘を一つ、つきました
小蝶
恋愛
ユカリナは夫ディランと政略結婚して5年がたつ。まだまだ戦乱の世にあるこの国の騎士である夫は、今日も戦地で命をかけて戦っているはずだった。彼が戦地に赴いて3年。まだ戦争は終わっていないが、勝利と言う戦況が見えてきたと噂される頃、夫は帰って来た。隣に可愛らしい女性をつれて。そして私には何も告げぬまま、3日後には結婚式を挙げた。第2夫人となったシェリーを寵愛する夫。だから、私は愛するあなたに嘘を一つ、つきました…
最後の方にしか主人公目線がない迷作となりました。読みづらかったらご指摘ください。今さらどうにもなりませんが、努力します(`・ω・́)ゞ
王女殿下のモラトリアム
あとさん♪
恋愛
「君は彼の気持ちを弄んで、どういうつもりなんだ?!この悪女が!」
突然、怒鳴られたの。
見知らぬ男子生徒から。
それが余りにも突然で反応できなかったの。
この方、まさかと思うけど、わたくしに言ってるの?
わたくし、アンネローゼ・フォン・ローリンゲン。花も恥じらう16歳。この国の王女よ。
先日、学園内で突然無礼者に絡まれたの。
お義姉様が仰るに、学園には色んな人が来るから、何が起こるか分からないんですって!
婚約者も居ない、この先どうなるのか未定の王女などつまらないと思っていたけれど、それ以来、俄然楽しみが増したわ♪
お義姉様が仰るにはピンクブロンドのライバルが現れるそうなのだけど。
え? 違うの?
ライバルって縦ロールなの?
世間というものは、なかなか複雑で一筋縄ではいかない物なのですね。
わたくしの婚約者も学園で捕まえる事が出来るかしら?
この話は、自分は平凡な人間だと思っている王女が、自分のしたい事や好きな人を見つける迄のお話。
※設定はゆるんゆるん
※ざまぁは無いけど、水戸○門的なモノはある。
※明るいラブコメが書きたくて。
※シャティエル王国シリーズ3作目!
※過去拙作『相互理解は難しい(略)』の12年後、
『王宮勤めにも色々ありまして』の10年後の話になります。
上記未読でも話は分かるとは思いますが、お読みいただくともっと面白いかも。
※ちょいちょい修正が入ると思います。誤字撲滅!
※小説家になろうにも投稿しました。
【完結】え?今になって婚約破棄ですか?私は構いませんが大丈夫ですか?
ゆうぎり
恋愛
カリンは幼少期からの婚約者オリバーに学園で婚約破棄されました。
卒業3か月前の事です。
卒業後すぐの結婚予定で、既に招待状も出し終わり済みです。
もちろんその場で受け入れましたよ。一向に構いません。
カリンはずっと婚約解消を願っていましたから。
でも大丈夫ですか?
婚約破棄したのなら既に他人。迷惑だけはかけないで下さいね。
※ゆるゆる設定です
※軽い感じで読み流して下さい
婚約破棄を申し入れたのは、父です ― 王子様、あなたの企みはお見通しです!
みかぼう。
恋愛
公爵令嬢クラリッサ・エインズワースは、王太子ルーファスの婚約者。
幼い日に「共に国を守ろう」と誓い合ったはずの彼は、
いま、別の令嬢マリアンヌに微笑んでいた。
そして――年末の舞踏会の夜。
「――この婚約、我らエインズワース家の名において、破棄させていただきます!」
エインズワース公爵が力強く宣言した瞬間、
王国の均衡は揺らぎ始める。
誇りを捨てず、誠実を貫く娘。
政の闇に挑む父。
陰謀を暴かんと手を伸ばす宰相の子。
そして――再び立ち上がる若き王女。
――沈黙は逃げではなく、力の証。
公爵令嬢の誇りが、王国の未来を変える。
――荘厳で静謐な政略ロマンス。
(本作品は小説家になろうにも掲載中です)
宮廷外交官の天才令嬢、王子に愛想をつかれて婚約破棄されたあげく、実家まで追放されてケダモノ男爵に読み書きを教えることになりました
悠木真帆
恋愛
子爵令嬢のシャルティナ・ルーリックは宮廷外交官として日々忙しくはたらく毎日。
クールな見た目と頭の回転の速さからついたあだ名は氷の令嬢。
婚約者である王子カイル・ドルトラードを長らくほったらかしてしまうほど仕事に没頭していた。
そんなある日の夜会でシャルティナは王子から婚約破棄を宣言されてしまう。
そしてそのとなりには見知らぬ令嬢が⋯⋯
王子の婚約者ではなくなった途端、シャルティナは宮廷外交官の立場まで失い、見かねた父の強引な勧めで冒険者あがりの男爵のところへ行くことになる。
シャルティナは宮廷外交官の実績を活かして辣腕を振るおうと張り切るが、男爵から命じられた任務は男爵に文字の読み書きを教えることだった⋯⋯
【完結】ひとつだけ、ご褒美いただけますか?――没落令嬢、氷の王子にお願いしたら溺愛されました。
猫屋敷むぎ
恋愛
没落伯爵家の娘の私、ノエル・カスティーユにとっては少し眩しすぎる学院の舞踏会で――
私の願いは一瞬にして踏みにじられました。
母が苦労して買ってくれた唯一の白いドレスは赤ワインに染められ、
婚約者ジルベールは私を見下ろしてこう言ったのです。
「君は、僕に恥をかかせたいのかい?」
まさか――あの優しい彼が?
そんなはずはない。そう信じていた私に、現実は冷たく突きつけられました。
子爵令嬢カトリーヌの冷笑と取り巻きの嘲笑。
でも、私には、味方など誰もいませんでした。
ただ一人、“氷の王子”カスパル殿下だけが。
白いハンカチを差し出し――その瞬間、止まっていた時間が静かに動き出したのです。
「……ひとつだけ、ご褒美いただけますか?」
やがて、勇気を振り絞って願った、小さな言葉。
それは、水底に沈んでいた私の人生をすくい上げ、
冷たい王子の心をそっと溶かしていく――最初の奇跡でした。
没落令嬢ノエルと、孤独な氷の王子カスパル。
これは、そんなじれじれなふたりが“本当の幸せを掴むまで”のお話です。
※全10話+番外編・約2.5万字の短編。一気読みもどうぞ
※わんこが繋ぐ恋物語です
※因果応報ざまぁ。最後は甘く、後味スッキリ
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる