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第34話 戻れない場所
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第34話 戻れない場所
王都の朝は、静かだった。
だが、その静けさは、平穏とは少し違う。
不要なざわめきが消え、
残るべき音だけが残った――
そんな感覚だ。
「……最近、
“あの話”をする人がいなくなりましたね」
フレッジリン侯爵邸の応接室で、
ホリデイが紅茶を注ぎながら言った。
「あの話、とは?」
シグネット・フレッジリン侯爵は、
視線を上げる。
「ベルフラワー公爵家の件です」
シグネットは、
一瞬だけ考え、
小さく頷いた。
「ええ。
終わった話だからでしょう」
誰かが公式に「終わり」を宣言したわけではない。
だが、
人々は本能的に理解していた。
戻れない場所がある、ということを。
その日の昼前、
王都の一角で小さな集まりが開かれていた。
顔ぶれは、
以前なら必ず中央にいたはずの者たち。
だが、今は違う。
「……フレッジリン侯爵の名が、
もう話題にならないな」
一人が、
苛立ちを隠さず言った。
「話題にしても、
誰も反応しないからな」
別の者が、
肩をすくめる。
「否定されない。
反論もされない。
それどころか……
無関心だ」
その言葉に、
全員が黙り込んだ。
批判される方が、
まだ救いがある。
無関心は、
完全に視界から外された証だ。
そしてそれは、
もう戻れない位置にいることを意味していた。
一方、
フレッジリン侯爵邸では、
新しい来客が応接室に案内されていた。
地方の実務官。
まだ若いが、
その態度には迷いがない。
「……侯爵」
彼は、
一礼してから口を開いた。
「今回の件で、
私は一つ確認したいことがあります」
「どうぞ」
シグネットは、
穏やかに促す。
「もし、
過去に判断を誤った者が、
やり直す機会を得たいと願った場合――」
言葉を選びながら、
続ける。
「その者に、
戻る道はあるのでしょうか」
応接室の空気が、
静まった。
重い問いだった。
シグネットは、
すぐには答えない。
少しだけ考え、
静かに口を開く。
「戻る、
という言い方をする限り、
ありません」
若い実務官は、
目を見開いた。
「……では、
救いはないのですか」
「違います」
シグネットは、
首を横に振る。
「同じ場所には戻れない、
というだけです」
その言葉に、
ホリデイがわずかに頷く。
「判断を誤った場所に戻り、
同じ立場を求める――
それは、
成長ではありません」
「ですが」
シグネットは、
真っ直ぐに相手を見る。
「別の場所に立つことは、
いつでもできます」
若い実務官は、
息を呑んだ。
「……それは、
どういう意味でしょうか」
「立場を失った者が、
再び立つには」
「以前と同じ肩書きも、
同じ席も、
必要ありません」
「必要なのは――」
言葉を区切る。
「引き受けた結果と、
向き合い続けること」
それだけだった。
過去をなかったことにはできない。
だが、
未来を選ぶことはできる。
それを理解できるかどうかが、
分かれ目だ。
来客が去った後、
ホリデイが静かに言う。
「……戻れない場所がある、
というのは、
厳しいですね」
「ええ」
シグネットは、
否定しない。
「ですが、
戻れると思わせる方が、
残酷です」
期待を持たせ、
同じ過ちを繰り返させる。
それこそが、
本当の冷酷だ。
夜。
ベルフラワー公爵邸では、
プロフィット・ベルフラワー公爵令息が、
一人で書斎に座っていた。
かつては、
当たり前のように呼ばれていた席。
当然のように、
用意されていた場所。
今は、
どこにもない。
(……戻れない)
その事実を、
ようやく受け入れ始めていた。
だが――
だからこそ、
別の場所に立つしかない。
その覚悟が、
まだ彼には足りなかった。
夜更け。
フレッジリン侯爵邸の書斎で、
シグネットは、
静かに灯りを落とした。
「戻れない場所は、
失敗の証ではありません」
誰に向けるでもなく、
小さく呟く。
「進んだ証です」
同じ場所に戻れないからこそ、
人は前に進む。
同じ立場を失ったからこそ、
別の在り方を選べる。
シグネット・フレッジリン侯爵は、
それを知っている。
だからこそ、
誰にも、
戻る道を示さない。
示すのは、
次に立つべき場所だけだった。
それが、
彼女なりの責任であり、
覚悟だった。
王都の朝は、静かだった。
だが、その静けさは、平穏とは少し違う。
不要なざわめきが消え、
残るべき音だけが残った――
そんな感覚だ。
「……最近、
“あの話”をする人がいなくなりましたね」
フレッジリン侯爵邸の応接室で、
ホリデイが紅茶を注ぎながら言った。
「あの話、とは?」
シグネット・フレッジリン侯爵は、
視線を上げる。
「ベルフラワー公爵家の件です」
シグネットは、
一瞬だけ考え、
小さく頷いた。
「ええ。
終わった話だからでしょう」
誰かが公式に「終わり」を宣言したわけではない。
だが、
人々は本能的に理解していた。
戻れない場所がある、ということを。
その日の昼前、
王都の一角で小さな集まりが開かれていた。
顔ぶれは、
以前なら必ず中央にいたはずの者たち。
だが、今は違う。
「……フレッジリン侯爵の名が、
もう話題にならないな」
一人が、
苛立ちを隠さず言った。
「話題にしても、
誰も反応しないからな」
別の者が、
肩をすくめる。
「否定されない。
反論もされない。
それどころか……
無関心だ」
その言葉に、
全員が黙り込んだ。
批判される方が、
まだ救いがある。
無関心は、
完全に視界から外された証だ。
そしてそれは、
もう戻れない位置にいることを意味していた。
一方、
フレッジリン侯爵邸では、
新しい来客が応接室に案内されていた。
地方の実務官。
まだ若いが、
その態度には迷いがない。
「……侯爵」
彼は、
一礼してから口を開いた。
「今回の件で、
私は一つ確認したいことがあります」
「どうぞ」
シグネットは、
穏やかに促す。
「もし、
過去に判断を誤った者が、
やり直す機会を得たいと願った場合――」
言葉を選びながら、
続ける。
「その者に、
戻る道はあるのでしょうか」
応接室の空気が、
静まった。
重い問いだった。
シグネットは、
すぐには答えない。
少しだけ考え、
静かに口を開く。
「戻る、
という言い方をする限り、
ありません」
若い実務官は、
目を見開いた。
「……では、
救いはないのですか」
「違います」
シグネットは、
首を横に振る。
「同じ場所には戻れない、
というだけです」
その言葉に、
ホリデイがわずかに頷く。
「判断を誤った場所に戻り、
同じ立場を求める――
それは、
成長ではありません」
「ですが」
シグネットは、
真っ直ぐに相手を見る。
「別の場所に立つことは、
いつでもできます」
若い実務官は、
息を呑んだ。
「……それは、
どういう意味でしょうか」
「立場を失った者が、
再び立つには」
「以前と同じ肩書きも、
同じ席も、
必要ありません」
「必要なのは――」
言葉を区切る。
「引き受けた結果と、
向き合い続けること」
それだけだった。
過去をなかったことにはできない。
だが、
未来を選ぶことはできる。
それを理解できるかどうかが、
分かれ目だ。
来客が去った後、
ホリデイが静かに言う。
「……戻れない場所がある、
というのは、
厳しいですね」
「ええ」
シグネットは、
否定しない。
「ですが、
戻れると思わせる方が、
残酷です」
期待を持たせ、
同じ過ちを繰り返させる。
それこそが、
本当の冷酷だ。
夜。
ベルフラワー公爵邸では、
プロフィット・ベルフラワー公爵令息が、
一人で書斎に座っていた。
かつては、
当たり前のように呼ばれていた席。
当然のように、
用意されていた場所。
今は、
どこにもない。
(……戻れない)
その事実を、
ようやく受け入れ始めていた。
だが――
だからこそ、
別の場所に立つしかない。
その覚悟が、
まだ彼には足りなかった。
夜更け。
フレッジリン侯爵邸の書斎で、
シグネットは、
静かに灯りを落とした。
「戻れない場所は、
失敗の証ではありません」
誰に向けるでもなく、
小さく呟く。
「進んだ証です」
同じ場所に戻れないからこそ、
人は前に進む。
同じ立場を失ったからこそ、
別の在り方を選べる。
シグネット・フレッジリン侯爵は、
それを知っている。
だからこそ、
誰にも、
戻る道を示さない。
示すのは、
次に立つべき場所だけだった。
それが、
彼女なりの責任であり、
覚悟だった。
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