4 / 32
第四話 血の継承
しおりを挟む
第四話 血の継承
王都の一角、王宮の執務室では、数枚の報告書が机に並べられていた。
ルーシェ王太子は、そのうちの一枚を手に取る。
「ノーランド公爵領、今年も黒字か」
淡々とした声音。
向かいに控える財務官が答える。
「はい。港湾税の再編と灌漑整備が奏功しております。教育予算の増額も将来的な税収増に寄与する見込みです」
「公爵の手腕か?」
財務官は一瞬だけ言葉を選ぶ。
「いえ……実務は令嬢が担っていると」
ルーシェは目を細める。
「ナチュか」
名前を口にすると同時に、別の報告書へ視線を落とす。
そこには領地視察の記録が記されていた。収穫祭の様子、農民との対話、港での商人との折衝。どれも公爵の姿は後方にあり、中心に立っているのは令嬢だった。
「先代公爵夫人の娘です」
財務官が静かに付け加える。
「先代夫人は実質的な家督継承者でございました。現公爵は婿養子。改革の基礎は、先代夫人の手によるものです」
ルーシェは報告書を閉じる。
「血は嘘をつかぬか」
「血というより……思想かと」
財務官の控えめな訂正に、ルーシェは小さく口元を緩める。
「なるほど」
彼は椅子にもたれ、窓の外を眺める。王都の屋根が連なり、その向こうに遠くノーランド領の方角がある。
「婚約者として不足はない」
その言葉は冷静だった。
「むしろ、こちらにとって都合が良い」
王太子妃とは飾りではない。王家の家計もまた、巨大な帳簿である。国庫の収支、軍備の配分、外交費。感情で動けば、国は揺らぐ。
ルーシェは指先で机を軽く叩く。
「父上は見目を重んじるが、私は内側を見る」
財務官は深く頭を下げた。
「賢明なご判断にございます」
王宮の空気は冷たい。だが、その冷たさは秩序の温度だ。
一方、ノーランド公爵邸では、執務室に家令と古参の執事が集まっていた。
「やはり、奥様に似ておられる」
家令がぽつりと呟く。
「先代奥様は帳簿を手放されなかった。現令嬢も同じです」
「旦那様は……」
執事が言葉を濁す。
「名目は旦那様。実務は令嬢様」
それは屋敷の者なら誰もが知る事実だった。
ナチュは窓辺で報告書を読み終え、静かに綴じる。
「南部の水路補修は来月中に完了予定でございます」
「かしこまりました」
家令が下がると、執務室に静寂が戻る。
ふと視線を上げると、壁に掛けられた肖像画が目に入る。
先代公爵夫人――母。
穏やかな微笑みを浮かべながら、厳しい眼差しを宿している。
「母上……」
ナチュは小さく息を吐く。
血を継ぐとは、顔立ちを似せることではない。思想を受け継ぐことだ。
同じ頃、温室では後妻とコンキュが並んでいた。
「王太子殿下は、やはりあなたの方がお似合いよ」
「そうでしょう? お姉様は数字ばかりでつまらないもの」
後妻は優雅に頷く。
「あなたは華があるわ。あの家の正統は、あなたでもよいのよ」
その言葉は甘い。
だが正統とは、宣言で決まるものではない。
王宮ではすでに判断が下されつつある。
公爵家でもまた、静かな評価が固まりつつある。
血の継承。
それは名ではなく、積み重ねだ。
気づかぬ者だけが、肩書きを信じる。
気づいている者は、帳簿を信じる。
その差は、やがて婚約という形で表に出ることになる。
王都の一角、王宮の執務室では、数枚の報告書が机に並べられていた。
ルーシェ王太子は、そのうちの一枚を手に取る。
「ノーランド公爵領、今年も黒字か」
淡々とした声音。
向かいに控える財務官が答える。
「はい。港湾税の再編と灌漑整備が奏功しております。教育予算の増額も将来的な税収増に寄与する見込みです」
「公爵の手腕か?」
財務官は一瞬だけ言葉を選ぶ。
「いえ……実務は令嬢が担っていると」
ルーシェは目を細める。
「ナチュか」
名前を口にすると同時に、別の報告書へ視線を落とす。
そこには領地視察の記録が記されていた。収穫祭の様子、農民との対話、港での商人との折衝。どれも公爵の姿は後方にあり、中心に立っているのは令嬢だった。
「先代公爵夫人の娘です」
財務官が静かに付け加える。
「先代夫人は実質的な家督継承者でございました。現公爵は婿養子。改革の基礎は、先代夫人の手によるものです」
ルーシェは報告書を閉じる。
「血は嘘をつかぬか」
「血というより……思想かと」
財務官の控えめな訂正に、ルーシェは小さく口元を緩める。
「なるほど」
彼は椅子にもたれ、窓の外を眺める。王都の屋根が連なり、その向こうに遠くノーランド領の方角がある。
「婚約者として不足はない」
その言葉は冷静だった。
「むしろ、こちらにとって都合が良い」
王太子妃とは飾りではない。王家の家計もまた、巨大な帳簿である。国庫の収支、軍備の配分、外交費。感情で動けば、国は揺らぐ。
ルーシェは指先で机を軽く叩く。
「父上は見目を重んじるが、私は内側を見る」
財務官は深く頭を下げた。
「賢明なご判断にございます」
王宮の空気は冷たい。だが、その冷たさは秩序の温度だ。
一方、ノーランド公爵邸では、執務室に家令と古参の執事が集まっていた。
「やはり、奥様に似ておられる」
家令がぽつりと呟く。
「先代奥様は帳簿を手放されなかった。現令嬢も同じです」
「旦那様は……」
執事が言葉を濁す。
「名目は旦那様。実務は令嬢様」
それは屋敷の者なら誰もが知る事実だった。
ナチュは窓辺で報告書を読み終え、静かに綴じる。
「南部の水路補修は来月中に完了予定でございます」
「かしこまりました」
家令が下がると、執務室に静寂が戻る。
ふと視線を上げると、壁に掛けられた肖像画が目に入る。
先代公爵夫人――母。
穏やかな微笑みを浮かべながら、厳しい眼差しを宿している。
「母上……」
ナチュは小さく息を吐く。
血を継ぐとは、顔立ちを似せることではない。思想を受け継ぐことだ。
同じ頃、温室では後妻とコンキュが並んでいた。
「王太子殿下は、やはりあなたの方がお似合いよ」
「そうでしょう? お姉様は数字ばかりでつまらないもの」
後妻は優雅に頷く。
「あなたは華があるわ。あの家の正統は、あなたでもよいのよ」
その言葉は甘い。
だが正統とは、宣言で決まるものではない。
王宮ではすでに判断が下されつつある。
公爵家でもまた、静かな評価が固まりつつある。
血の継承。
それは名ではなく、積み重ねだ。
気づかぬ者だけが、肩書きを信じる。
気づいている者は、帳簿を信じる。
その差は、やがて婚約という形で表に出ることになる。
1
あなたにおすすめの小説
おかしくなったのは、彼女が我が家にやってきてからでした。
ましゅぺちーの
恋愛
公爵家の令嬢であるリリスは家族と婚約者に愛されて幸せの中にいた。
そんな時、リリスの父の弟夫婦が不慮の事故で亡くなり、その娘を我が家で引き取ることになった。
娘の名前はシルビア。天使のように可愛らしく愛嬌のある彼女はすぐに一家に馴染んでいった。
それに対してリリスは次第に家で孤立していき、シルビアに嫌がらせをしているとの噂までたち始めた。
婚約者もシルビアに奪われ、父からは勘当を言い渡される。
リリスは平民として第二の人生を歩み始める。
全8話。完結まで執筆済みです。
この作品は小説家になろう様にも掲載しています。
【完結】お飾りの妻からの挑戦状
おのまとぺ
恋愛
公爵家から王家へと嫁いできたデイジー・シャトワーズ。待ちに待った旦那様との顔合わせ、王太子セオドア・ハミルトンが放った言葉に立ち会った使用人たちの顔は強張った。
「君はお飾りの妻だ。装飾品として慎ましく生きろ」
しかし、当のデイジーは不躾な挨拶を笑顔で受け止める。二人のドタバタ生活は心配する周囲を巻き込んで、やがて誰も予想しなかった展開へ……
◇表紙はノーコピーライトガール様より拝借しています
◇全18話で完結予定
心の傷は癒えるもの?ええ。簡単に。
しゃーりん
恋愛
侯爵令嬢セラヴィは婚約者のトレッドから婚約を解消してほしいと言われた。
理由は他の女性を好きになってしまったから。
10年も婚約してきたのに、セラヴィよりもその女性を選ぶという。
意志の固いトレッドを見て、婚約解消を認めた。
ちょうど長期休暇に入ったことで学園でトレッドと顔を合わせずに済み、休暇明けまでに失恋の傷を癒しておくべきだと考えた友人ミンディーナが領地に誘ってくれた。
セラヴィと同じく婚約を解消した経験があるミンディーナの兄ライガーに話を聞いてもらっているうちに段々と心の傷は癒えていったというお話です。
別に要りませんけど?
ユウキ
恋愛
「お前を愛することは無い!」
そう言ったのは、今日結婚して私の夫となったネイサンだ。夫婦の寝室、これから初夜をという時に投げつけられた言葉に、私は素直に返事をした。
「……別に要りませんけど?」
※Rに触れる様な部分は有りませんが、情事を指す言葉が出ますので念のため。
※なろうでも掲載中
幽閉王女と指輪の精霊~嫁いだら幽閉された!餓死する前に脱出したい!~
二階堂吉乃
恋愛
同盟国へ嫁いだヴァイオレット姫。夫である王太子は初夜に現れなかった。たった1人幽閉される姫。やがて貧しい食事すら届かなくなる。長い幽閉の末、死にかけた彼女を救ったのは、家宝の指輪だった。
1年後。同盟国を訪れたヴァイオレットの従兄が彼女を発見する。忘れられた牢獄には姫のミイラがあった。激怒した従兄は同盟を破棄してしまう。
一方、下町に代書業で身を立てる美少女がいた。ヴィーと名を偽ったヴァイオレットは指輪の精霊と助けあいながら暮らしていた。そこへ元夫?である王太子が視察に来る。彼は下町を案内してくれたヴィーに恋をしてしまう…。
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
居候と婚約者が手を組んでいた!
すみ 小桜(sumitan)
恋愛
グリンマトル伯爵家の一人娘のレネットは、前世の記憶を持っていた。前世は体が弱く入院しそのまま亡くなった。その為、病気に苦しむ人を助けたいと思い薬師になる事に。幸いの事に、家業は薬師だったので、いざ学校へ。本来は17歳から通う学校へ7歳から行く事に。ほらそこは、転生者だから!
って、王都の学校だったので寮生活で、数年後に帰ってみると居候がいるではないですか!
父親の妹家族のウルミーシュ子爵家だった。同じ年の従姉妹アンナがこれまたわがまま。
アンアの母親で父親の妹のエルダがこれまたくせ者で。
最悪な事態が起き、レネットの思い描いていた未来は消え去った。家族と末永く幸せと願った未来が――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる