婚約破棄されたので、もう私が支えるのはやめます

ふわふわ

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第七話 誰が仕事をしていたのか

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第七話 誰が仕事をしていたのか

王宮の朝は、いつもならもっと整然としている。

侍従たちは決められた時刻に廊下を行き交い、書記官たちは必要な書類を必要な部屋へ運び、控えの間では次の会談や茶会の準備が滞りなく進む。多少の行き違いはあっても、表に出る頃には形になる。それが王宮という場所だった。

だがその日、王太子アルヴィスの執務室の前では、朝から妙な空気が漂っていた。

「……まだ来ていないのか?」

扉の前で、王太子付きの若い侍従が不安げに訊いた。

書記官の一人が困ったように答える。

「南方伯家への返書が、まだ最終確認まで回っておりません」

「なぜだ」

「本来なら、昨日のうちに文面が整っているはずだったのですが……」

そこまで言って、書記官は言葉を濁した。

“本来なら”。

その言葉の先を、彼らは何となく知っている。

本来なら、誰かがもっと前の段階で文面の危うさに気づき、余計な一文を削り、相手の気分を害さない書き方へ直していたはずなのだ。誰がやっていたのかはよく分からなくても、そういう調整はいつも自然になされていた。

だが今は、それがない。

「殿下がお呼びだ!」

別の侍従が慌てて走ってくる。

「至急、寄付配分の一覧を持って来いと!」

「一覧はありますが、北部修道院の分をどうするかまだ……」

「そんなことはいい、早くしろ!」

人がばたばたと動き出す。

その騒がしさは、朝の活気というより、綻びを袖で隠しながら走り回っているような慌ただしさだった。

その頃、王太子アルヴィスは執務机の前で露骨に苛立っていた。

机の上には開かれた書類がいくつも積まれ、紅茶はすでに冷めている。窓から射し込む朝の光だけが明るいが、室内の空気は重かった。

「だから、なぜ北部修道院がこれほど騒ぐのだ」

アルヴィスが不機嫌そうに言うと、側近の一人が慎重に答えた。

「王妃殿下のご実家が長く後援されている先ゆえ、“前年より減っている”という点が問題視されているかと……」

「減ったといっても、たかがわずかな額だろう」

「額の問題だけではなく、象徴的な意味が……」

「象徴、象徴と、そういうまわりくどい話はうんざりだ」

アルヴィスは書類を机へ放り出した。

紙が散り、若い書記官がびくりと肩を震わせる。

「金が足りぬなら増やせばよいではないか。いちいち面倒な」

「しかし、その分をどこから削るかでまた……」

「なら、南方の救護院から削れ」

その一言に、部屋の空気が固まる。

発言した本人だけが気づいていない。

南方の救護院は、先月の疫病騒ぎで南方伯家が大々的に支援を行ったばかりの先だった。そこを今ここで削れば、ちょうど面会時刻の件で気分を害している南方伯家をさらに刺激することになる。

だが誰もすぐには口に出せない。

口に出せばまた、“細かい”“面倒だ”と一蹴されるだけだからだ。

結局、最年長の側近が意を決して言った。

「殿下、それは少々……」

「何だ」

「南方伯家への配慮を欠くかと」

アルヴィスは露骨に顔をしかめた。

「また南方伯家か。たかが待たせた程度で、いつまで不機嫌でいるつもりだ」

たかが待たせた程度。

それを“程度”で済ませてよい相手と悪い相手がいることを、この人はまだ理解しないのだなと、側近たちは内心で同じことを思った。

だがそのうち誰かが言葉にする前に、別の侍従が駆け込んできた。

「殿下、交易祭の席順について、東部侯家からも使者が……」

「今度は何だ!」

「南方伯家と視線の交わりやすい位置に置かれるのは不快だと……」

「またそれか!」

アルヴィスはとうとう立ち上がった。

椅子が大きく音を立てる。

「貴族どもは、どうしてこうも面倒なのだ。席が一つ違う程度で騒ぎ立てて!」

誰も答えなかった。

答えられる者がいないのではない。

答えても無駄だと知っているだけだ。

席が一つ違う程度。

たしかに本人にとってはそうなのだろう。だがその“一つ”に意味が生まれるのが社交であり、王宮であり、政治なのだ。その程度の感覚もなく、よく今まで表立って大きく転ばずに済んでいたものだ――と、部屋にいる者の多くが胸の奥で思っていた。

そして、思ってしまってから気づく。

なぜ今までは大きく転ばなかったのか、と。

答えは、まだ曖昧な形でしか誰の頭にも浮かばなかった。

同じ頃、王妃セシリアの私室では、落ち着いた空気の中で書類が広げられていた。

王妃は窓辺の席に腰を下ろし、手元の一覧に視線を落としている。その向かいには年配の女官長が立っていた。

「王太子殿下の執務室は、今朝も混乱しているようです」

女官長が控えめに告げる。

王妃は顔を上げない。

「そう」

「南方伯家、東部侯家、北部修道院、いずれも昨日からの不満が収まっておりません」

「収める者がいないのでしょうね」

その一言に、女官長はわずかに目を伏せた。

王妃はそこで初めて書類から顔を上げる。

「フェルベルク侯爵令嬢は、まだ屋敷に?」

「はい。表立っては動いておられないようです」

「当然です」

王妃は淡々と言った。

「婚約をあのような形で破棄されて、翌日からまた殿下のために働く義理などありません」

女官長は慎重に尋ねる。

「やはり、今までの調整は……」

「ほぼあの子だったのでしょう」

王妃の声音には、驚きよりも確認があった。

ずいぶん前から気づいていたのだろう。

「寄付配分も、席順も、返書の語尾も、夜会での席替えも。表には出てこないのに妙にきれいに収まる案件が多すぎました」

女官長は静かに頷く。

「殿下ご自身がそこまで気を回しておられたとは、私も思っておりませんでした」

「ええ。アルヴィスは、周囲が整えることを“当然”だと思っていたのでしょう」

王妃は一枚の書類を閉じた。

「恐ろしいのは、本人がまだそれに気づいていないことです」

一方その頃、もう一人、その“不在”の重さに気づき始めている者がいた。

ミレイユである。

彼女は王宮内の控えの間に用意された小さな応接室で、落ち着かない様子で扇を握っていた。今日もまた王宮へ呼ばれていたが、昨日までの浮き立つ気分は少し薄れている。

理由は簡単だった。

空気がおかしいのだ。

王太子に選ばれた自分へ向けられる視線はある。だがそれは、夢見るような羨望ばかりではない。測るような目。値踏みするような目。品定めするような沈黙。そういうものが少しずつ混じり始めている。

そして何より、誰もが忙しそうだった。

以前なら、エレノアの隣にいるときはもっと滑らかに進んでいたはずのものが、今はあちこちでつかえている。侍女が呼ばれて走り、書記官が顔を青くし、老練な女官たちがひそひそと相談し合っている。

ミレイユはそれが嫌だった。

自分が夢見ていたのは、もっときらきらした世界だ。王太子に愛され、皆に羨まれ、可愛いと褒められ、少し頬を染めて微笑んでいればいい場所だと思っていた。

なのに今、目の前にあるのは面倒な名前と、機嫌を損ねると厄介そうな貴族たちと、金額や席順や文言の話ばかり。

「……つまらないわ」

思わず、小さくこぼれる。

そのとき、付きの侍女が慌てて声を潜めた。

「ミレイユ様、お声が……」

「分かっているわよ」

きつく返してしまってから、ミレイユははっとしたように口元を押さえた。

いけない。

今はまだ、可憐で無垢でいなければ。

けれど、いらいらするものはいらいらするのだ。

こんなはずではなかった。

すると扉が開き、アルヴィスが入ってきた。

彼もまた顔色がよくない。いつもの華やかさは残っていても、その下には明らかな苛立ちがある。

「殿下……」

ミレイユは立ち上がり、すぐに柔らかな笑みを作った。

「お疲れでしょう? 少しお茶でも――」

「そんな暇はない」

ぴしゃりと言われ、笑みが固まる。

アルヴィスは気づかないまま続けた。

「次から次へと面倒ごとばかりだ。たかが席順ごときで騒ぎ立てる連中もそうだし、寄付の額にいちいち意味を持たせたがるのも理解できん」

ミレイユは曖昧に頷いた。

本当は、よく分からないからだ。

分からないが、ここで“そうですね”と共感してみせるのが正解だと思った。

「皆、細かすぎますのね」

「まったくだ」

アルヴィスはようやく椅子に腰を下ろし、ひとつ息をつく。

そして何気ない調子で言った。

「エレノアがいた頃は、こういうことはもっと静かに済んでいたのだがな」

ミレイユの指先が止まった。

空気が一瞬で冷える。

アルヴィス自身は、たぶん深い意味で言っていない。単なる苛立ちからの比較だ。だがミレイユには、それで十分刺さった。

「……お姉様のほうが、よかったとおっしゃるの?」

声が少しだけ尖る。

アルヴィスはそこで初めて顔を上げた。

「そういう意味ではない。あいつは冷たかった」

「でも今、そうやってお姉様の名前を出されたわ」

「だから違うと言っているだろう」

アルヴィスの声にも苛立ちが混じる。

「私はお前を選んだのだ。今さら何を気にする」

それはたしかに、普通なら安心させる言葉なのかもしれない。

けれどミレイユの胸に広がったのは安心ではなかった。

選ばれた。

そのはずなのに、なぜかまだ“比べられている”感覚がある。

しかも比べられるのは、自分が可愛くて愛らしいかどうかではない。もっと別の、面倒で、名前もつけにくいもの。場を整えること、火を消すこと、機嫌を損ねないこと。そんなつまらないこと。

つまらない。

つまらないけれど、その“つまらないこと”ができないと、空気がおかしくなるのもまた事実だった。

アルヴィスは立ち上がる。

「午後もまだ会う相手が多い。夜会までに書類も片づけねばならん」

「殿下、少しお休みになったほうが……」

「その時間も惜しい」

そう言い残し、彼は出ていった。

ミレイユはしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがてゆっくりと椅子へ腰を下ろした。

胸の中に残ったのは、もやもやした不快感だった。

まるで、見えないところで誰かと競わされているような感覚。

しかも相手は、もう舞台から下ろしたはずの姉だ。

どうして今さら。

どうして、いなくなったあとでこんなふうに名前が出るの。

可哀想で捨てられた姉のまま、静かに沈んでいてくれればよかったのに。

その頃、王太子の執務室では、いよいよ混乱が表へにじみ出ていた。

「殿下、この返書ですが、南方伯家へのお詫びが足りないと……」

「またか!」

「それから、北部修道院への増額をすると、今度は王立孤児院側から――」

「もうよい!」

アルヴィスは苛立ちのままに机を叩いた。

「いったい誰が、こんな細事を一つ一つ私に持ち込めと言った!」

部屋にいた者たちは沈黙した。

以前なら、持ち込まれる前に誰かが整理し、優先順位をつけ、殿下の耳に入れるべきものだけを選んでいた。だが今は、その“誰か”がいない。

だから全部が、未整理のまま上へ来る。

そして上にいる本人は、その全体像を見ようともしない。

若い書記官が意を決して言う。

「殿下、以前は……」

「以前は何だ」

「以前は、こうした件について、もう少し事前に整っていたように思います」

それは勇気ある言い方だった。

だがアルヴィスは、そこに込められた意味を正しく受け取らない。

「なら、以前通りに整えろ」

「その、誰が整えていたのかが……」

言いかけて、書記官は口をつぐんだ。

部屋のあちこちで、誰ともなく視線が交わる。

誰が整えていたのか。

言葉にはしない。

だが皆、少しずつ分かり始めている。

婚約破棄された侯爵令嬢。

あの、冷静すぎるほど冷静だった娘。

表に立てば冷たく見えたその人が、実はどれほど裏を支えていたのかを。

王太子だけが、それにまだ気づいていない。

いや、気づきたくないのかもしれない。

自分が“当然”だと思っていたものが、実は誰か一人の献身の上に成り立っていたと知れば、自分の立つ場所まで揺らいでしまうから。

アルヴィスは苛立ったまま椅子へ座り直した。

「……まったく」

吐き捨てるように言う。

「たかが婚約者が変わったくらいで、どうしてこうも回らぬのだ」

その言葉を聞いた誰もが、顔には出さなかった。

だが胸の内では、ほとんど同じ答えを持っていた。

たかが婚約者、ではなかったからだ。

誰が仕事をしていたのか。

その答えは、もう王宮のあちこちで静かに形になり始めていた。
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