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第八話 義妹の限界
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第八話 義妹の限界
王宮の控えの間に通されるたび、ミレイユは少しずつ機嫌を悪くしていた。
最初の数日はよかったのだ。
王太子アルヴィスの隣を歩けば、廊下の向こうから視線が集まる。侍女たちは目を伏せ、若い令息令嬢たちはひそひそと噂を交わす。ああ、自分は見られているのだ、羨ましがられているのだと実感できる瞬間だけは、確かに心地よかった。
けれど、その“心地よさ”は驚くほど短かった。
王宮で求められるのは、ただ微笑んで立っていることだけではない。
今日はどの家の夫人に先に挨拶すべきか。
どの女官にまで声をかければ“きちんと見ている”と思わせられるか。
誰の前では王太子を立て、誰の前では一歩引いたほうが得か。
寄付の話になったとき、どこに共感を示せば角が立たないか。
学園時代のように、可愛く首を傾げていれば済む場所ではなかった。
そしてそれ以上に、誰もがミレイユを見ていた。
温かい目ではない。
試すような目。
値踏みする目。
間違えるのを待っているような目。
それがたまらなく不愉快だった。
この日も、王宮の小広間では午後の茶会が開かれていた。
招かれていたのは、王都でも影響力のある夫人たちと、数名の若い令嬢。そして王妃の側近筋に連なる女官たちだ。表向きは春の親睦茶会。だが実際には、“新しく王太子の隣へ現れた娘がどれほどのものか”を測る場でもあった。
ミレイユは白に淡い桃色を重ねたドレスで席についていた。
可憐で、柔らかく、守ってあげたくなる色合い。鏡の前では完璧だった。自分でも似合うと思った。けれど、席に着いた瞬間から、なぜか居心地が悪い。
正面に座る壮年の伯爵夫人が、柔らかな笑みで訊ねる。
「ミレイユ様は、最近王宮でお忙しいのでしょう?」
「ええ……少しだけ」
曖昧に笑って返すと、別の侯爵夫人が言葉を継いだ。
「まあ。では、春季交易祭の準備にもお心を砕いておられるのかしら」
ミレイユの指先がぴくりと動く。
それだ。
最近、あちこちでその名前を聞く。春季交易祭。寄付配分。来賓席順。南方伯家。北部修道院。
なぜ皆、こんなにもつまらない話ばかりするのだろう。
「そういうことは、殿下や書記官の方々が……」
笑ってかわそうとした瞬間、向かいにいた女官の一人が穏やかに微笑んだ。
「ですが、未来の王太子妃殿下になられる方であれば、無関係とは申せませんでしょう?」
その一言に、小広間の空気が少しだけ締まる。
未来の王太子妃。
甘い響きのはずなのに、今はまるで試験の題名のようだった。
ミレイユは扇を開きかけ、すぐ閉じた。
「わ、私はまだ、そのような大それた……」
「ご謙遜ですこと」
伯爵夫人が言う。
「ですが、殿下が自らお選びになったのでしょう? それほどまでに愛されておられるなら、きっとお力もおありなのでしょうね」
やわらかな物言い。
だが逃げ道を塞ぐには十分すぎる言い方だった。
ミレイユは胸の内で舌打ちしたくなる。
愛されていることと、どうしてそんな面倒な話が結びつくのか。選ばれたのだから、それで十分ではないのか。なぜそこから先に、仕事や調整や配慮などという退屈なものがついてくるのか。
「……まだ勉強中ですの」
そう返すのが精一杯だった。
すると、今まで黙っていた年配の女官長格らしき女性が、紅茶のカップを置いて静かに言った。
「まあ、そうでしたの。では今後、どの方に教わるご予定なのかしら」
まただ、とミレイユは思った。
また“その先”を訊かれる。
まだ慣れていないのだと伝えれば、それなら誰に学ぶのかと問われる。学ぶと言えば、何をどこまで知っているのかと試される。
息が詰まる。
「……お姉様は、そのようなことまで全部なさっていたのかしら」
思わず、口からこぼれた。
小広間の空気が静まる。
しまった、と思ったときには遅かった。
夫人たちの目が、先ほどまでよりわずかに鋭くなっている。
侯爵夫人がにこやかなまま言った。
「エレノア様は、少なくともどの場でも滞りなく振る舞っておられましたわね」
それは褒め言葉だった。
控えめな、しかしはっきりとした褒め言葉。
ミレイユの喉の奥がかっと熱くなる。
どうしてここで、姉の名が出るの。
どうして自分が座っている席で、あの女の評価が上がるの。
「……お姉様は昔から、そういう細かいことが好きでしたもの」
言ってから、自分でも失敗したと分かった。
細かいことが好き。
それでは、今ここで問われている王太子妃としての役目まで、ただの“細かいこと”として切り捨てたように聞こえてしまう。
実際、ミレイユにとってはそうなのだが、今はまだそれを出すべきではなかった。
女官長が静かに首を傾げる。
「細かいこと、ですか」
その目は笑っていない。
ミレイユは慌てて取り繕う。
「い、いいえ、その……お姉様は何でもきっちりなさる方でしたから、私とは違って……」
「ではミレイユ様は、きっちりなさるのはお好みではないのですね」
逃げ場がない。
問いかけの形をしながら、答えはすでに選別されている。
ここで“はい”とは言えない。だが“いいえ”と言えば、では何をどこまできっちりなさるのかとまた問われる。
ミレイユは笑おうとした。
けれど頬がうまく動かない。
「私……そういうことは、あまり得意では……」
その瞬間だった。
誰かが小さくカップを置く音がした。
たったそれだけの音なのに、なぜか“終わった”と分かってしまう空気があった。
伯爵夫人が穏やかに微笑む。
「まあ。では、これから大変ですこと」
その言い方に露骨な悪意はない。
だが慰めもない。
ミレイユはようやく理解する。
この人たちは、自分を責めたいわけではない。ただ見ているだけなのだ。王太子が選んだ娘がどれほどのものか。そして、前にいた娘と比べて何を持ち、何を持たないかを。
そして今、彼女たちの中では、おそらく答えが出始めている。
茶会のあとは最悪だった。
部屋を出るなり、付きの侍女へ向かってミレイユは声を荒げた。
「どうして、あんな方々ばかり集めたの!」
侍女は青ざめる。
「わ、私どもが選んだわけでは……」
「なら、もっと私が困らないように先に教えなさいよ!」
「申し訳ございません……」
「申し訳ございませんではないわ!」
ついに扇を机に叩きつけたとき、控えの間にいた別の侍女たちが一斉に息を呑んだ。
その音で、ミレイユは自分が見られていると気づく。
まずい。
まずいのに、怒りが止まらない。
どうして自分ばかりがこんな目に遭うのか。
選ばれたのは自分なのに。王太子に愛されているのは自分なのに。どうして皆、素直に祝福せず、こんなふうに細かいことばかり持ち出して試すのか。
「……下がって」
低く言うと、侍女たちは慌てて礼をして下がった。
一人残された控えの間で、ミレイユは鏡を見た。
頬が赤い。目元が吊っている。まるで舞踏会の夜、自分が勝ち取ったはずのものにふさわしくない顔だった。
こんなのは嫌だ。
もっと簡単なはずだった。
もっと華やかで、甘くて、きらきらしたもののはずだった。
その苛立ちを抱えたまま、その日の夕刻、ミレイユは侯爵邸へ戻った。
そして運の悪いことに、玄関ホールではちょうど侯爵と王宮からの使いが話し込んでいるところだった。
「ですから、春季交易祭の席次については再考を――」
「再考再考と、何度目だ!」
侯爵の怒声が響く。
使いの顔も険しい。
使用人たちは壁際で息を殺し、誰一人目を上げない。
その光景を見た瞬間、ミレイユの中で、今日一日の苛立ちが一気にあふれた。
「もうっ、いつまでそんなことをなさっているの!」
誰もが凍りついた。
侯爵も、王宮の使いも、侍従も、使用人も、一斉にミレイユを見る。
本人だけが、その重さに気づいていなかった。
「たかが席順でしょう!? そんなことで毎日毎日騒いで……本当に馬鹿みたい!」
沈黙。
完璧な沈黙だった。
侯爵の顔から血の気が引いていくのが分かる。
王宮の使いは、一瞬だけ信じられないものを見るような顔をしたあと、すっと表情を消した。ああ、これは覚えられた、とエレノアなら即座に判断しただろう。悪い意味で。
だがミレイユはまだ止まらない。
「それに、どうして私まであんな年増の夫人たちに囲まれて、わけの分からないことを訊かれなくてはなりませんの? お姉様がしていたなら、お姉様にやらせればいいでしょう!」
言った瞬間、ようやくまずいと気づいたらしい。
だが遅い。
言葉はもう、玄関ホール中へ響いていた。
侯爵が怒鳴る。
「ミレイユ!」
その声に、ミレイユはびくりと震えた。
今まで、父にここまで強い声を向けられたことはほとんどない。
「部屋へ下がれ!」
「で、でも……」
「今すぐだ!」
泣きそうな顔を作ろうとした。
だがその場にいた誰の顔にも、もう“可哀想な娘”を見る色はなかった。あるのは驚き、呆れ、そして記憶しようとする冷たい目だけだ。
ミレイユは唇を震わせ、けれど何も言えずに身を翻した。
去っていく背中を、王宮の使いが無言で見送る。
最悪だった。
部屋へ駆け込み、扉を閉めたあと、ミレイユはそのまま寝台へ倒れ込んだ。
胸が苦しい。
悔しい。
恥ずかしい。
でも何より許せないのは、自分が“限界を見せた”ことだった。
取り乱した。
叫んだ。
本性を出した。
しかも、あんな大勢の前で。
「……どうして、こんなことに」
枕に顔を押しつけながら呟く。
答えは出ない。
出したくもない。
考えたくもない。
けれど、頭の片隅で分かってしまっている。
自分には無理なのだ。
少なくとも今のままでは。
選ばれることと、その座に立ち続けることは違う。
愛されることと、その場所を回すことは違う。
そして、自分が奪ったのは、ただ“王太子の隣”というきらびやかな席だけではなかったのだ。
姉が今まで、黙って受け持っていたもの。
面倒で、地味で、つまらなくて、それでいて少しでも欠けると全部が軋み出すもの。
自分はそれごと奪ってしまったのだ。
でも、認めたくない。
そんなのは欲しかったものじゃない。
欲しかったのは、愛と羨望と勝利だけだった。
その夜、侯爵邸の食卓は重かった。
侯爵はほとんど口をきかず、ヴィオラも蒼白な顔でナイフとフォークを持っているだけ。ミレイユは目を赤くして俯いていたが、誰も優しい言葉をかけない。
夕方の一件が、どれほど悪かったかを全員が理解しているからだ。
王宮の使いの前で、交易祭の席順を“馬鹿みたい”と言い放った。
しかも、エレノアにやらせればいいと。
それはつまり、自分ではできないと認めたのと同じだった。
重苦しい沈黙の中、侯爵がようやく口を開いた。
「……しばらく、王宮への出入りは最低限にしろ」
ミレイユが顔を上げる。
「お父様……」
「これ以上、余計なことを口にされては困る」
その言葉は、娘を守るためのものではなかった。
家を守るための言葉だった。
ミレイユの目に涙がたまる。
だが侯爵は視線を合わせない。
ヴィオラも口をつぐんだまま、娘の肩を抱こうともしない。
ミレイユはそこで初めて、はっきりと感じた。
自分は今日、失敗したのだと。
ただの小さな失言ではない。
“可哀想で守られるべき義妹”という仮面に、ひびが入るような失敗を。
そしてそのひびの向こうで、皆が見始めている。
本当は誰が限界だったのかを。
王宮の控えの間に通されるたび、ミレイユは少しずつ機嫌を悪くしていた。
最初の数日はよかったのだ。
王太子アルヴィスの隣を歩けば、廊下の向こうから視線が集まる。侍女たちは目を伏せ、若い令息令嬢たちはひそひそと噂を交わす。ああ、自分は見られているのだ、羨ましがられているのだと実感できる瞬間だけは、確かに心地よかった。
けれど、その“心地よさ”は驚くほど短かった。
王宮で求められるのは、ただ微笑んで立っていることだけではない。
今日はどの家の夫人に先に挨拶すべきか。
どの女官にまで声をかければ“きちんと見ている”と思わせられるか。
誰の前では王太子を立て、誰の前では一歩引いたほうが得か。
寄付の話になったとき、どこに共感を示せば角が立たないか。
学園時代のように、可愛く首を傾げていれば済む場所ではなかった。
そしてそれ以上に、誰もがミレイユを見ていた。
温かい目ではない。
試すような目。
値踏みする目。
間違えるのを待っているような目。
それがたまらなく不愉快だった。
この日も、王宮の小広間では午後の茶会が開かれていた。
招かれていたのは、王都でも影響力のある夫人たちと、数名の若い令嬢。そして王妃の側近筋に連なる女官たちだ。表向きは春の親睦茶会。だが実際には、“新しく王太子の隣へ現れた娘がどれほどのものか”を測る場でもあった。
ミレイユは白に淡い桃色を重ねたドレスで席についていた。
可憐で、柔らかく、守ってあげたくなる色合い。鏡の前では完璧だった。自分でも似合うと思った。けれど、席に着いた瞬間から、なぜか居心地が悪い。
正面に座る壮年の伯爵夫人が、柔らかな笑みで訊ねる。
「ミレイユ様は、最近王宮でお忙しいのでしょう?」
「ええ……少しだけ」
曖昧に笑って返すと、別の侯爵夫人が言葉を継いだ。
「まあ。では、春季交易祭の準備にもお心を砕いておられるのかしら」
ミレイユの指先がぴくりと動く。
それだ。
最近、あちこちでその名前を聞く。春季交易祭。寄付配分。来賓席順。南方伯家。北部修道院。
なぜ皆、こんなにもつまらない話ばかりするのだろう。
「そういうことは、殿下や書記官の方々が……」
笑ってかわそうとした瞬間、向かいにいた女官の一人が穏やかに微笑んだ。
「ですが、未来の王太子妃殿下になられる方であれば、無関係とは申せませんでしょう?」
その一言に、小広間の空気が少しだけ締まる。
未来の王太子妃。
甘い響きのはずなのに、今はまるで試験の題名のようだった。
ミレイユは扇を開きかけ、すぐ閉じた。
「わ、私はまだ、そのような大それた……」
「ご謙遜ですこと」
伯爵夫人が言う。
「ですが、殿下が自らお選びになったのでしょう? それほどまでに愛されておられるなら、きっとお力もおありなのでしょうね」
やわらかな物言い。
だが逃げ道を塞ぐには十分すぎる言い方だった。
ミレイユは胸の内で舌打ちしたくなる。
愛されていることと、どうしてそんな面倒な話が結びつくのか。選ばれたのだから、それで十分ではないのか。なぜそこから先に、仕事や調整や配慮などという退屈なものがついてくるのか。
「……まだ勉強中ですの」
そう返すのが精一杯だった。
すると、今まで黙っていた年配の女官長格らしき女性が、紅茶のカップを置いて静かに言った。
「まあ、そうでしたの。では今後、どの方に教わるご予定なのかしら」
まただ、とミレイユは思った。
また“その先”を訊かれる。
まだ慣れていないのだと伝えれば、それなら誰に学ぶのかと問われる。学ぶと言えば、何をどこまで知っているのかと試される。
息が詰まる。
「……お姉様は、そのようなことまで全部なさっていたのかしら」
思わず、口からこぼれた。
小広間の空気が静まる。
しまった、と思ったときには遅かった。
夫人たちの目が、先ほどまでよりわずかに鋭くなっている。
侯爵夫人がにこやかなまま言った。
「エレノア様は、少なくともどの場でも滞りなく振る舞っておられましたわね」
それは褒め言葉だった。
控えめな、しかしはっきりとした褒め言葉。
ミレイユの喉の奥がかっと熱くなる。
どうしてここで、姉の名が出るの。
どうして自分が座っている席で、あの女の評価が上がるの。
「……お姉様は昔から、そういう細かいことが好きでしたもの」
言ってから、自分でも失敗したと分かった。
細かいことが好き。
それでは、今ここで問われている王太子妃としての役目まで、ただの“細かいこと”として切り捨てたように聞こえてしまう。
実際、ミレイユにとってはそうなのだが、今はまだそれを出すべきではなかった。
女官長が静かに首を傾げる。
「細かいこと、ですか」
その目は笑っていない。
ミレイユは慌てて取り繕う。
「い、いいえ、その……お姉様は何でもきっちりなさる方でしたから、私とは違って……」
「ではミレイユ様は、きっちりなさるのはお好みではないのですね」
逃げ場がない。
問いかけの形をしながら、答えはすでに選別されている。
ここで“はい”とは言えない。だが“いいえ”と言えば、では何をどこまできっちりなさるのかとまた問われる。
ミレイユは笑おうとした。
けれど頬がうまく動かない。
「私……そういうことは、あまり得意では……」
その瞬間だった。
誰かが小さくカップを置く音がした。
たったそれだけの音なのに、なぜか“終わった”と分かってしまう空気があった。
伯爵夫人が穏やかに微笑む。
「まあ。では、これから大変ですこと」
その言い方に露骨な悪意はない。
だが慰めもない。
ミレイユはようやく理解する。
この人たちは、自分を責めたいわけではない。ただ見ているだけなのだ。王太子が選んだ娘がどれほどのものか。そして、前にいた娘と比べて何を持ち、何を持たないかを。
そして今、彼女たちの中では、おそらく答えが出始めている。
茶会のあとは最悪だった。
部屋を出るなり、付きの侍女へ向かってミレイユは声を荒げた。
「どうして、あんな方々ばかり集めたの!」
侍女は青ざめる。
「わ、私どもが選んだわけでは……」
「なら、もっと私が困らないように先に教えなさいよ!」
「申し訳ございません……」
「申し訳ございませんではないわ!」
ついに扇を机に叩きつけたとき、控えの間にいた別の侍女たちが一斉に息を呑んだ。
その音で、ミレイユは自分が見られていると気づく。
まずい。
まずいのに、怒りが止まらない。
どうして自分ばかりがこんな目に遭うのか。
選ばれたのは自分なのに。王太子に愛されているのは自分なのに。どうして皆、素直に祝福せず、こんなふうに細かいことばかり持ち出して試すのか。
「……下がって」
低く言うと、侍女たちは慌てて礼をして下がった。
一人残された控えの間で、ミレイユは鏡を見た。
頬が赤い。目元が吊っている。まるで舞踏会の夜、自分が勝ち取ったはずのものにふさわしくない顔だった。
こんなのは嫌だ。
もっと簡単なはずだった。
もっと華やかで、甘くて、きらきらしたもののはずだった。
その苛立ちを抱えたまま、その日の夕刻、ミレイユは侯爵邸へ戻った。
そして運の悪いことに、玄関ホールではちょうど侯爵と王宮からの使いが話し込んでいるところだった。
「ですから、春季交易祭の席次については再考を――」
「再考再考と、何度目だ!」
侯爵の怒声が響く。
使いの顔も険しい。
使用人たちは壁際で息を殺し、誰一人目を上げない。
その光景を見た瞬間、ミレイユの中で、今日一日の苛立ちが一気にあふれた。
「もうっ、いつまでそんなことをなさっているの!」
誰もが凍りついた。
侯爵も、王宮の使いも、侍従も、使用人も、一斉にミレイユを見る。
本人だけが、その重さに気づいていなかった。
「たかが席順でしょう!? そんなことで毎日毎日騒いで……本当に馬鹿みたい!」
沈黙。
完璧な沈黙だった。
侯爵の顔から血の気が引いていくのが分かる。
王宮の使いは、一瞬だけ信じられないものを見るような顔をしたあと、すっと表情を消した。ああ、これは覚えられた、とエレノアなら即座に判断しただろう。悪い意味で。
だがミレイユはまだ止まらない。
「それに、どうして私まであんな年増の夫人たちに囲まれて、わけの分からないことを訊かれなくてはなりませんの? お姉様がしていたなら、お姉様にやらせればいいでしょう!」
言った瞬間、ようやくまずいと気づいたらしい。
だが遅い。
言葉はもう、玄関ホール中へ響いていた。
侯爵が怒鳴る。
「ミレイユ!」
その声に、ミレイユはびくりと震えた。
今まで、父にここまで強い声を向けられたことはほとんどない。
「部屋へ下がれ!」
「で、でも……」
「今すぐだ!」
泣きそうな顔を作ろうとした。
だがその場にいた誰の顔にも、もう“可哀想な娘”を見る色はなかった。あるのは驚き、呆れ、そして記憶しようとする冷たい目だけだ。
ミレイユは唇を震わせ、けれど何も言えずに身を翻した。
去っていく背中を、王宮の使いが無言で見送る。
最悪だった。
部屋へ駆け込み、扉を閉めたあと、ミレイユはそのまま寝台へ倒れ込んだ。
胸が苦しい。
悔しい。
恥ずかしい。
でも何より許せないのは、自分が“限界を見せた”ことだった。
取り乱した。
叫んだ。
本性を出した。
しかも、あんな大勢の前で。
「……どうして、こんなことに」
枕に顔を押しつけながら呟く。
答えは出ない。
出したくもない。
考えたくもない。
けれど、頭の片隅で分かってしまっている。
自分には無理なのだ。
少なくとも今のままでは。
選ばれることと、その座に立ち続けることは違う。
愛されることと、その場所を回すことは違う。
そして、自分が奪ったのは、ただ“王太子の隣”というきらびやかな席だけではなかったのだ。
姉が今まで、黙って受け持っていたもの。
面倒で、地味で、つまらなくて、それでいて少しでも欠けると全部が軋み出すもの。
自分はそれごと奪ってしまったのだ。
でも、認めたくない。
そんなのは欲しかったものじゃない。
欲しかったのは、愛と羨望と勝利だけだった。
その夜、侯爵邸の食卓は重かった。
侯爵はほとんど口をきかず、ヴィオラも蒼白な顔でナイフとフォークを持っているだけ。ミレイユは目を赤くして俯いていたが、誰も優しい言葉をかけない。
夕方の一件が、どれほど悪かったかを全員が理解しているからだ。
王宮の使いの前で、交易祭の席順を“馬鹿みたい”と言い放った。
しかも、エレノアにやらせればいいと。
それはつまり、自分ではできないと認めたのと同じだった。
重苦しい沈黙の中、侯爵がようやく口を開いた。
「……しばらく、王宮への出入りは最低限にしろ」
ミレイユが顔を上げる。
「お父様……」
「これ以上、余計なことを口にされては困る」
その言葉は、娘を守るためのものではなかった。
家を守るための言葉だった。
ミレイユの目に涙がたまる。
だが侯爵は視線を合わせない。
ヴィオラも口をつぐんだまま、娘の肩を抱こうともしない。
ミレイユはそこで初めて、はっきりと感じた。
自分は今日、失敗したのだと。
ただの小さな失言ではない。
“可哀想で守られるべき義妹”という仮面に、ひびが入るような失敗を。
そしてそのひびの向こうで、皆が見始めている。
本当は誰が限界だったのかを。
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