9 / 35
第九話 王妃の失望
しおりを挟む
第九話 王妃の失望
王妃セシリアは、その日の午後も静かに書類へ目を通していた。
王妃の私室に隣接する執務室は、王宮の中でもひどく落ち着いた空間だった。壁一面の本棚、淡い青灰色の壁布、季節の花を控えめに活けた花器。豪奢でありながら目にうるさくない。そこには、この部屋の主が好む秩序と節度が隅々まで行き渡っていた。
窓辺から差し込む春の光の中で、王妃は一枚の報告書を閉じる。
「……やはり、そうなのね」
誰に聞かせるでもない呟きに、控えていた女官長が一歩進み出た。
「北部修道院からの抗議文にございますか」
「ええ。それだけではないわ」
王妃は手元の書類を軽く整えながら言う。
「南方伯家は面会の件をまだ根に持っている。東部侯家は交易祭の席順に難色を示し、昨日はついに王宮の使いの前でフェルベルク家の次女が“たかが席順”と言い放ったそうね」
女官長は深く目を伏せた。
「すでに、その話は女官たちの間にも……」
「広まるでしょうね」
王妃の声音は静かだった。
怒りよりも、冷えた確認に近い。
「王太子の隣に立つ者が、席順を“たかが”で済ませる。それがどれほど軽率なことか理解していないのだもの」
女官長は慎重に言葉を選ぶ。
「ミレイユ嬢は、まだお若く……」
「若さは免罪符にはならないわ」
ぴしゃりとした言い方ではなかった。だが、それ以上の弁護を許さない響きがあった。
セシリアは椅子の背に身を預け、しばし目を閉じた。
疲れているのではない。ただ、ひどく落胆していた。
アルヴィスが愚かだということは、今さら初めて知ったことではない。幼い頃から華やかなものを好み、耳に心地よい言葉を信じ、面倒なことから目を逸らす癖があった。それでも若いうちは矯正できると信じていたし、少なくとも王太子としての立場に立てば、周囲を見て学ぶだろうと思っていた。
そう信じられた理由の一つが、エレノアの存在だった。
無口で、華やかな場では目立ちすぎず、しかしどの場でも破綻を出さない娘。あの子が隣にいれば、アルヴィスも少しは形になるだろうと考えていた。
だが、違った。
形になっていたのは、アルヴィスが成長したからではない。
ただエレノアが、見えないところで整え続けていたからだ。
その事実を、王妃は今ようやく完全な形で認めざるを得なくなっていた。
「殿下は、本日も執務室で苛立っておられます」
女官長が静かに告げる。
「寄付の配分、交易祭、各家への返書、どれも“なぜこんな細事が自分のところまで来るのか”と」
王妃はゆっくりと目を開けた。
「細事、ね」
その一言の中に、深い失望がにじむ。
「王になるというのは、その“細事”の積み重ねを軽んじないことなのに」
王妃は立ち上がった。
裾の長いドレスが静かに床を撫でる。
女官長は少し驚いたようだった。
「王妃殿下」
「アルヴィスのところへ行くわ」
「今からでございますか」
「ええ。先延ばしにしても、あの子は何も理解しないでしょう」
王太子の執務室の前は、今日もどこか落ち着かなかった。
侍従が小走りに行き来し、書記官が束ねた書類を抱えて出入りし、控えの間では誰かが焦った声で確認を取り合っている。以前のように、廊下まで緊張が漏れてくることはなかった。少なくとも、表面はもっと整っていたはずだ。
王妃の一行が現れた瞬間、その場の者たちは一斉に頭を下げる。
「王妃殿下」
「アルヴィスは中に?」
「は、はい」
「通します」
誰も止められない。
扉が開かれると、室内には重苦しい空気が満ちていた。
アルヴィスは机に向かっていたが、実際には書類を読んでいるというより、睨んでいるだけだった。側近たちも疲れた顔をしている。
「母上?」
アルヴィスは王妃の姿に目を見開いた。
「どうなさったのです」
「少し話があるわ」
王妃の声は穏やかだった。
穏やかであるがゆえに、室内の全員が一層身を固くした。
「皆、少し外してちょうだい」
王妃がそう告げると、側近たちはすぐに退出した。最後に扉が閉まる。
残されたのは、母と息子だけだった。
「……何です、急に」
アルヴィスは不機嫌さを隠そうともしない。
「お忙しいようだから、手短に済ませるわ」
王妃は机の向かいに立ったまま言う。
「あなた、今の状況をどう見ているの」
「どう、とは?」
「交易祭の席順、寄付配分、南方伯家への対応、東部侯家の不満、北部修道院の抗議、フェルベルク侯爵家次女の失言」
一つずつ挙げられるたび、アルヴィスの表情が険しくなっていく。
「どれもこれも、周囲が大げさなのです」
やはりそう来るのね、と王妃は思った。
「席が少し違う、寄付が少し減る、待ち時間が少し長い。そうしたことでいちいち騒ぎ立てるから面倒になるのです。私はもっと大きなことを見ているというのに」
「大きなこと?」
「国全体のことです」
アルヴィスは苛立ちを帯びたまま言い募る。
「だから私は、細々とした調整などに時間を取られたくない。ああいうものは、下の者が整えて持ってくればいいのです」
王妃はしばらく息子を見つめた。
この子は、本当に分かっていない。
細々とした調整こそが、大きな流れを形作っているのだと。
大きなことを見る者ほど、小さな綻びを軽んじてはならないのだと。
それを理解しないまま、王になどなれるはずがない。
「では、その“下の者”が誰だったのか、あなたは考えたことがあるの?」
アルヴィスが眉をひそめる。
「何の話です」
「今まで、あなたのまわりで妙に綺麗に収まっていたものが、なぜ今こんなにも表へ噴き出しているのかという話よ」
「……それは、婚約の件で王宮内が騒がしいからでしょう」
「本気でそう思っているの」
王妃の声音が、ほんの少しだけ冷えた。
アルヴィスはその変化に気づいたのか、不愉快そうに口をつぐむ。
王妃は続ける。
「エレノア嬢がいなくなった途端に、あなたの周囲は崩れ始めた。偶然だと思う?」
「母上まで、あの女の肩を持つのですか」
アルヴィスの声に苛立ちが混じる。
「あれは冷たい女でした。いつも正しい顔をして、口うるさく、息が詰まった。私は真実の愛を選んだのです」
真実の愛。
まだそんな言葉を口にするのか、と王妃は心の底から疲れた。
「愛を選ぶのは勝手です」
王妃は淡々と言った。
「けれど、王太子として何を失うかも理解せずに人を切り捨てたのなら、それは愛ではなく愚かさよ」
アルヴィスの顔が赤くなる。
「愚かとは何です!」
「そのままの意味です」
王妃は一歩も引かなかった。
「あなたは、エレノア嬢が何をしていたのかも知らずに手放した。ミレイユ嬢が何をできないのかも見ずに隣へ置いた。そして今、周囲が回らなくなって初めて苛立っている」
「それは周囲の――」
「周囲のせいではないわ」
王妃は息子の言葉を遮った。
「王太子のまわりが崩れたのなら、まず問うべきは自分です」
その瞬間、アルヴィスは初めて押し黙った。
母の前でさえ、こうして真正面から否定されることは珍しいのだろう。王妃は普段、感情で叱りつけることをしない。だからこそ、今の静かな断定はよほど重く響いているはずだった。
だが、それでもアルヴィスはまだ理解しきれない顔をしている。
「……母上は、あれほどエレノアを買っていたのですか」
その問いに、王妃は少しだけ目を細めた。
買っていた。
そういう軽い言い方しかできないあたりが、やはり息子らしい。
「私は、あの子があなたよりよほど王宮を見ていたと思っているわ」
アルヴィスの顔が強張る。
屈辱なのだろう。
婚約者として見下していた相手を、自分より上だと言われることが。
けれど王妃は容赦しない。
「あなたが軽く済ませた失言も、誰かが先回りして消していた。あなたが面倒だと放った相手にも、誰かが頭を下げていた。あなたが覚えてもいない約束の綻びも、誰かが縫っていた」
静かに、一つずつ。
「その“誰か”がいなくなっただけで、今の有様よ」
アルヴィスは視線を逸らした。
その仕草だけで、何かを感じ始めていることは分かる。だがそれは、反省よりもむしろ不快感に近いのかもしれない。自分の“当然”が当然ではなかったと知るのは、誰にとっても愉快ではない。
「ミレイユは……」
ぽつりとアルヴィスが言う。
「ミレイユは、これから学べばいいのでしょう」
王妃はその言葉に、短く息を吐いた。
「学ぶこと自体は悪くないわ」
「なら――」
「けれど、あなたはその“学ぶまでの間”を誰が埋めると思っているの」
アルヴィスが言葉を失う。
そうなのだ。
王太子妃候補が未熟でも、時間をかけて育てればいい、という話では済まない。今この瞬間にも王宮は動いている。席順も、寄付も、返書も、面会も、誰かが今整えなければならない。
そして、エレノアはもういない。
「まさか……」
アルヴィスがようやく口を開く。
「母上は、私にエレノアを呼び戻せと?」
その言い方に、王妃は心の底から失望した。
まだ、そんなふうに言うのか。
まるで道具を戻させるように。
「あの子は物ではありません」
王妃の声音が、明確に冷える。
「呼べば戻ると思っているなら、それだけでもう十分に失礼よ」
アルヴィスは口をつぐんだ。
王妃はそれ以上続ける気が少し失せた。
ここまで言ってもまだ、息子は何を失ったのかを“自分の不便”としてしか捉えられていない。エレノアの名誉でも、努力でも、献身でもない。自分のまわりが回らなくなったことだけが問題なのだ。
なんて情けないのだろう。
「……あなたには、しばらく自分で考えてもらうしかなさそうね」
そう言って、王妃は身を翻す。
アルヴィスが慌てて声を上げる。
「母上!」
王妃は扉の前で止まった。
振り返らずに問う。
「何かしら」
「私は……そこまで間違っているのですか」
王妃は静かに目を閉じた。
その問いを今すること自体が、答えだと思った。
「間違いを犯すこと自体は、誰にでもあります」
ゆっくりと告げる。
「けれど、自分が何を間違えたのかも分からないまま、人のせいにしているうちは、何も正せないわ」
それだけを残し、王妃は執務室を出た。
廊下へ出ると、女官長が静かに寄り添う。
「いかがでしたか」
王妃はしばらく答えなかった。
廊下の向こうでは、書記官たちがまた慌ただしく動いている。王宮は止まらない。誰かが愚かでも、誰かが未熟でも、それでも動き続ける。だからこそ、その綻びは一層残酷に目立つのだ。
やがて王妃は、小さく言った。
「思っていた以上に、深刻だわ」
女官長は黙っていた。
王妃は歩き出しながら続ける。
「私はずっと、アルヴィスが未熟でも、隣に立つ者と周囲の支えでどうにか形になると思っていた」
「……はい」
「けれど違ったのね。形になっていたのは、あの子が支え続けていたからだった」
あの子。
女官長はそれが誰を指すのか、説明されなくても分かっていた。
エレノア・フェルベルク。
公開の場で婚約破棄され、それでも取り乱さずに去った娘。
あの静かな背中の意味を、王妃は今になってようやく完全に理解したのだ。
「失望したわ」
王妃はそう言った。
息子に対して。
そして、自分自身にも少し。
もっと早く気づくべきだったのかもしれない。あの子がどれだけ支えていたのかを。息子がどれだけ“支えられていること”に無自覚だったのかを。
「王妃殿下……」
「いいの」
王妃は女官長の言葉をやわらかく止めた。
「今さら悔やんでも遅いわ。なら、せめてこれ以上同じ愚かさを重ねないようにするしかない」
だが、その言葉の裏で、王妃ははっきりと分かっていた。
アルヴィスはまだ、自分が何を壊したのかを理解していない。
ミレイユもまた、自分がどれほど空虚な場所へ立ったのかを分かっていない。
そして二人が理解する頃には、きっともう遅いのだろう。
王妃は廊下の窓から春の庭を見下ろした。
柔らかな光の中で、木々が静かに揺れている。
その穏やかな景色とは裏腹に、王宮の中では少しずつ答えが形になり始めていた。
誰が支えていたのか。
誰が軽んじたのか。
そして、誰がその愚かさの代償を払うことになるのか。
王妃セシリアは静かに唇を引き結ぶ。
失望は、もう十分だった。
ここから先は、ただ見届けるだけでは済まないかもしれない。
王妃セシリアは、その日の午後も静かに書類へ目を通していた。
王妃の私室に隣接する執務室は、王宮の中でもひどく落ち着いた空間だった。壁一面の本棚、淡い青灰色の壁布、季節の花を控えめに活けた花器。豪奢でありながら目にうるさくない。そこには、この部屋の主が好む秩序と節度が隅々まで行き渡っていた。
窓辺から差し込む春の光の中で、王妃は一枚の報告書を閉じる。
「……やはり、そうなのね」
誰に聞かせるでもない呟きに、控えていた女官長が一歩進み出た。
「北部修道院からの抗議文にございますか」
「ええ。それだけではないわ」
王妃は手元の書類を軽く整えながら言う。
「南方伯家は面会の件をまだ根に持っている。東部侯家は交易祭の席順に難色を示し、昨日はついに王宮の使いの前でフェルベルク家の次女が“たかが席順”と言い放ったそうね」
女官長は深く目を伏せた。
「すでに、その話は女官たちの間にも……」
「広まるでしょうね」
王妃の声音は静かだった。
怒りよりも、冷えた確認に近い。
「王太子の隣に立つ者が、席順を“たかが”で済ませる。それがどれほど軽率なことか理解していないのだもの」
女官長は慎重に言葉を選ぶ。
「ミレイユ嬢は、まだお若く……」
「若さは免罪符にはならないわ」
ぴしゃりとした言い方ではなかった。だが、それ以上の弁護を許さない響きがあった。
セシリアは椅子の背に身を預け、しばし目を閉じた。
疲れているのではない。ただ、ひどく落胆していた。
アルヴィスが愚かだということは、今さら初めて知ったことではない。幼い頃から華やかなものを好み、耳に心地よい言葉を信じ、面倒なことから目を逸らす癖があった。それでも若いうちは矯正できると信じていたし、少なくとも王太子としての立場に立てば、周囲を見て学ぶだろうと思っていた。
そう信じられた理由の一つが、エレノアの存在だった。
無口で、華やかな場では目立ちすぎず、しかしどの場でも破綻を出さない娘。あの子が隣にいれば、アルヴィスも少しは形になるだろうと考えていた。
だが、違った。
形になっていたのは、アルヴィスが成長したからではない。
ただエレノアが、見えないところで整え続けていたからだ。
その事実を、王妃は今ようやく完全な形で認めざるを得なくなっていた。
「殿下は、本日も執務室で苛立っておられます」
女官長が静かに告げる。
「寄付の配分、交易祭、各家への返書、どれも“なぜこんな細事が自分のところまで来るのか”と」
王妃はゆっくりと目を開けた。
「細事、ね」
その一言の中に、深い失望がにじむ。
「王になるというのは、その“細事”の積み重ねを軽んじないことなのに」
王妃は立ち上がった。
裾の長いドレスが静かに床を撫でる。
女官長は少し驚いたようだった。
「王妃殿下」
「アルヴィスのところへ行くわ」
「今からでございますか」
「ええ。先延ばしにしても、あの子は何も理解しないでしょう」
王太子の執務室の前は、今日もどこか落ち着かなかった。
侍従が小走りに行き来し、書記官が束ねた書類を抱えて出入りし、控えの間では誰かが焦った声で確認を取り合っている。以前のように、廊下まで緊張が漏れてくることはなかった。少なくとも、表面はもっと整っていたはずだ。
王妃の一行が現れた瞬間、その場の者たちは一斉に頭を下げる。
「王妃殿下」
「アルヴィスは中に?」
「は、はい」
「通します」
誰も止められない。
扉が開かれると、室内には重苦しい空気が満ちていた。
アルヴィスは机に向かっていたが、実際には書類を読んでいるというより、睨んでいるだけだった。側近たちも疲れた顔をしている。
「母上?」
アルヴィスは王妃の姿に目を見開いた。
「どうなさったのです」
「少し話があるわ」
王妃の声は穏やかだった。
穏やかであるがゆえに、室内の全員が一層身を固くした。
「皆、少し外してちょうだい」
王妃がそう告げると、側近たちはすぐに退出した。最後に扉が閉まる。
残されたのは、母と息子だけだった。
「……何です、急に」
アルヴィスは不機嫌さを隠そうともしない。
「お忙しいようだから、手短に済ませるわ」
王妃は机の向かいに立ったまま言う。
「あなた、今の状況をどう見ているの」
「どう、とは?」
「交易祭の席順、寄付配分、南方伯家への対応、東部侯家の不満、北部修道院の抗議、フェルベルク侯爵家次女の失言」
一つずつ挙げられるたび、アルヴィスの表情が険しくなっていく。
「どれもこれも、周囲が大げさなのです」
やはりそう来るのね、と王妃は思った。
「席が少し違う、寄付が少し減る、待ち時間が少し長い。そうしたことでいちいち騒ぎ立てるから面倒になるのです。私はもっと大きなことを見ているというのに」
「大きなこと?」
「国全体のことです」
アルヴィスは苛立ちを帯びたまま言い募る。
「だから私は、細々とした調整などに時間を取られたくない。ああいうものは、下の者が整えて持ってくればいいのです」
王妃はしばらく息子を見つめた。
この子は、本当に分かっていない。
細々とした調整こそが、大きな流れを形作っているのだと。
大きなことを見る者ほど、小さな綻びを軽んじてはならないのだと。
それを理解しないまま、王になどなれるはずがない。
「では、その“下の者”が誰だったのか、あなたは考えたことがあるの?」
アルヴィスが眉をひそめる。
「何の話です」
「今まで、あなたのまわりで妙に綺麗に収まっていたものが、なぜ今こんなにも表へ噴き出しているのかという話よ」
「……それは、婚約の件で王宮内が騒がしいからでしょう」
「本気でそう思っているの」
王妃の声音が、ほんの少しだけ冷えた。
アルヴィスはその変化に気づいたのか、不愉快そうに口をつぐむ。
王妃は続ける。
「エレノア嬢がいなくなった途端に、あなたの周囲は崩れ始めた。偶然だと思う?」
「母上まで、あの女の肩を持つのですか」
アルヴィスの声に苛立ちが混じる。
「あれは冷たい女でした。いつも正しい顔をして、口うるさく、息が詰まった。私は真実の愛を選んだのです」
真実の愛。
まだそんな言葉を口にするのか、と王妃は心の底から疲れた。
「愛を選ぶのは勝手です」
王妃は淡々と言った。
「けれど、王太子として何を失うかも理解せずに人を切り捨てたのなら、それは愛ではなく愚かさよ」
アルヴィスの顔が赤くなる。
「愚かとは何です!」
「そのままの意味です」
王妃は一歩も引かなかった。
「あなたは、エレノア嬢が何をしていたのかも知らずに手放した。ミレイユ嬢が何をできないのかも見ずに隣へ置いた。そして今、周囲が回らなくなって初めて苛立っている」
「それは周囲の――」
「周囲のせいではないわ」
王妃は息子の言葉を遮った。
「王太子のまわりが崩れたのなら、まず問うべきは自分です」
その瞬間、アルヴィスは初めて押し黙った。
母の前でさえ、こうして真正面から否定されることは珍しいのだろう。王妃は普段、感情で叱りつけることをしない。だからこそ、今の静かな断定はよほど重く響いているはずだった。
だが、それでもアルヴィスはまだ理解しきれない顔をしている。
「……母上は、あれほどエレノアを買っていたのですか」
その問いに、王妃は少しだけ目を細めた。
買っていた。
そういう軽い言い方しかできないあたりが、やはり息子らしい。
「私は、あの子があなたよりよほど王宮を見ていたと思っているわ」
アルヴィスの顔が強張る。
屈辱なのだろう。
婚約者として見下していた相手を、自分より上だと言われることが。
けれど王妃は容赦しない。
「あなたが軽く済ませた失言も、誰かが先回りして消していた。あなたが面倒だと放った相手にも、誰かが頭を下げていた。あなたが覚えてもいない約束の綻びも、誰かが縫っていた」
静かに、一つずつ。
「その“誰か”がいなくなっただけで、今の有様よ」
アルヴィスは視線を逸らした。
その仕草だけで、何かを感じ始めていることは分かる。だがそれは、反省よりもむしろ不快感に近いのかもしれない。自分の“当然”が当然ではなかったと知るのは、誰にとっても愉快ではない。
「ミレイユは……」
ぽつりとアルヴィスが言う。
「ミレイユは、これから学べばいいのでしょう」
王妃はその言葉に、短く息を吐いた。
「学ぶこと自体は悪くないわ」
「なら――」
「けれど、あなたはその“学ぶまでの間”を誰が埋めると思っているの」
アルヴィスが言葉を失う。
そうなのだ。
王太子妃候補が未熟でも、時間をかけて育てればいい、という話では済まない。今この瞬間にも王宮は動いている。席順も、寄付も、返書も、面会も、誰かが今整えなければならない。
そして、エレノアはもういない。
「まさか……」
アルヴィスがようやく口を開く。
「母上は、私にエレノアを呼び戻せと?」
その言い方に、王妃は心の底から失望した。
まだ、そんなふうに言うのか。
まるで道具を戻させるように。
「あの子は物ではありません」
王妃の声音が、明確に冷える。
「呼べば戻ると思っているなら、それだけでもう十分に失礼よ」
アルヴィスは口をつぐんだ。
王妃はそれ以上続ける気が少し失せた。
ここまで言ってもまだ、息子は何を失ったのかを“自分の不便”としてしか捉えられていない。エレノアの名誉でも、努力でも、献身でもない。自分のまわりが回らなくなったことだけが問題なのだ。
なんて情けないのだろう。
「……あなたには、しばらく自分で考えてもらうしかなさそうね」
そう言って、王妃は身を翻す。
アルヴィスが慌てて声を上げる。
「母上!」
王妃は扉の前で止まった。
振り返らずに問う。
「何かしら」
「私は……そこまで間違っているのですか」
王妃は静かに目を閉じた。
その問いを今すること自体が、答えだと思った。
「間違いを犯すこと自体は、誰にでもあります」
ゆっくりと告げる。
「けれど、自分が何を間違えたのかも分からないまま、人のせいにしているうちは、何も正せないわ」
それだけを残し、王妃は執務室を出た。
廊下へ出ると、女官長が静かに寄り添う。
「いかがでしたか」
王妃はしばらく答えなかった。
廊下の向こうでは、書記官たちがまた慌ただしく動いている。王宮は止まらない。誰かが愚かでも、誰かが未熟でも、それでも動き続ける。だからこそ、その綻びは一層残酷に目立つのだ。
やがて王妃は、小さく言った。
「思っていた以上に、深刻だわ」
女官長は黙っていた。
王妃は歩き出しながら続ける。
「私はずっと、アルヴィスが未熟でも、隣に立つ者と周囲の支えでどうにか形になると思っていた」
「……はい」
「けれど違ったのね。形になっていたのは、あの子が支え続けていたからだった」
あの子。
女官長はそれが誰を指すのか、説明されなくても分かっていた。
エレノア・フェルベルク。
公開の場で婚約破棄され、それでも取り乱さずに去った娘。
あの静かな背中の意味を、王妃は今になってようやく完全に理解したのだ。
「失望したわ」
王妃はそう言った。
息子に対して。
そして、自分自身にも少し。
もっと早く気づくべきだったのかもしれない。あの子がどれだけ支えていたのかを。息子がどれだけ“支えられていること”に無自覚だったのかを。
「王妃殿下……」
「いいの」
王妃は女官長の言葉をやわらかく止めた。
「今さら悔やんでも遅いわ。なら、せめてこれ以上同じ愚かさを重ねないようにするしかない」
だが、その言葉の裏で、王妃ははっきりと分かっていた。
アルヴィスはまだ、自分が何を壊したのかを理解していない。
ミレイユもまた、自分がどれほど空虚な場所へ立ったのかを分かっていない。
そして二人が理解する頃には、きっともう遅いのだろう。
王妃は廊下の窓から春の庭を見下ろした。
柔らかな光の中で、木々が静かに揺れている。
その穏やかな景色とは裏腹に、王宮の中では少しずつ答えが形になり始めていた。
誰が支えていたのか。
誰が軽んじたのか。
そして、誰がその愚かさの代償を払うことになるのか。
王妃セシリアは静かに唇を引き結ぶ。
失望は、もう十分だった。
ここから先は、ただ見届けるだけでは済まないかもしれない。
15
あなたにおすすめの小説
愚か者たちの婚約破棄
あんど もあ
ファンタジー
ライラは、父と後妻と妹だけが家族のような侯爵家で居候のように生きてきた。そして、卒業パーティーでライラの婚約者までライラでは無く妹と婚約すると宣言する。侯爵家の本当の姿に気づいているのがライラだけだと知らずに……。
私の婚約者を奪った義妹は、幸せになるはずでした
しおしお
恋愛
侯爵令嬢フィオレッタ・ランベールは、公爵令息ギルベルトとの婚約が決まっていた。
けれど、他国へ嫁ぐのが嫌だと訴える義妹カトリーヌは、可憐でか弱い姿を武器に、少しずつ周囲の心を動かしていく。
そしてついに起こる、婚約者交換。
婚約を奪われたフィオレッタは、義妹が拒んだ相手――他国アルディシア公国の公爵フェリクスのもとへ向かうことになる。
突然変えられ「他国へ嫁ぐなんて嫌ですわ」
そう泣いた義妹は、姉の婚約者を奪った。
侯爵令嬢フィオレッタ・ランベールは、公爵令息との婚約を義妹カトリーヌに奪われ、代わりに義妹が拒んだ他国の公爵へ嫁ぐことになる。
傷つきながらも静かに運命を受け入れるフィオレッタと、愛される幸せを手に入れたと信じるカトリーヌ。
だが、婚約交換から始まった二人の人生は、やがて思いもよらぬ形で分かれていく。
奪われた姉が辿り着く未来と、奪った妹が手にする結末とは――。
婚約交換から始まる、姉妹の明暗を描いた恋愛ざまぁ物語。
幼馴染以上、婚約者未満の王子と侯爵令嬢の関係
紫月 由良
恋愛
第二王子エインの婚約者は、貴族には珍しい赤茶色の髪を持つ侯爵令嬢のディアドラ。だが彼女の冷たい瞳と無口な性格が気に入らず、エインは婚約者の義兄フィオンとともに彼女を疎んじていた。そんな中、ディアドラが学院内で留学してきた男子学生たちと親しくしているという噂が広まる。注意しに行ったエインは彼女の見知らぬ一面に心を乱された。しかし婚約者の異母兄妹たちの思惑が問題を引き起こして……。
顔と頭が良く性格が悪い男の失恋ストーリー。
※流血シーンがあります。(各話の前書きに注意書き+次話前書きにあらすじがあるので、飛ばし読み可能です)
【完結】私の望み通り婚約を解消しようと言うけど、そもそも半年間も嫌だと言い続けたのは貴方でしょう?〜初恋は終わりました。
るんた
恋愛
「君の望み通り、君との婚約解消を受け入れるよ」
色とりどりの春の花が咲き誇る我が伯爵家の庭園で、沈痛な面持ちで目の前に座る男の言葉を、私は内心冷ややかに受け止める。
……ほんとに屑だわ。
結果はうまくいかないけど、初恋と学園生活をそれなりに真面目にがんばる主人公のお話です。
彼はイケメンだけど、あれ?何か残念だな……。という感じを目指してます。そう思っていただけたら嬉しいです。
彼女視点(side A)と彼視点(side J)を交互にあげていきます。
婚約者と義妹に裏切られたので、ざまぁして逃げてみた
せいめ
恋愛
伯爵令嬢のフローラは、夜会で婚約者のレイモンドと義妹のリリアンが抱き合う姿を見てしまった。
大好きだったレイモンドの裏切りを知りショックを受けるフローラ。
三ヶ月後には結婚式なのに、このままあの方と結婚していいの?
深く傷付いたフローラは散々悩んだ挙句、その場に偶然居合わせた公爵令息や親友の力を借り、ざまぁして逃げ出すことにしたのであった。
ご都合主義です。
誤字脱字、申し訳ありません。
真実の愛がどうなろうと関係ありません。
希猫 ゆうみ
恋愛
伯爵令息サディアスはメイドのリディと恋に落ちた。
婚約者であった伯爵令嬢フェルネは無残にも婚約を解消されてしまう。
「僕はリディと真実の愛を貫く。誰にも邪魔はさせない!」
サディアスの両親エヴァンズ伯爵夫妻は激怒し、息子を勘当、追放する。
それもそのはずで、フェルネは王家の血を引く名門貴族パートランド伯爵家の一人娘だった。
サディアスからの一方的な婚約解消は決して許されない裏切りだったのだ。
一ヶ月後、愛を信じないフェルネに新たな求婚者が現れる。
若きバラクロフ侯爵レジナルド。
「あら、あなたも真実の愛を実らせようって仰いますの?」
フェルネの曾祖母シャーリンとレジナルドの祖父アルフォンス卿には悲恋の歴史がある。
「子孫の我々が結婚しようと関係ない。聡明な妻が欲しいだけだ」
互いに塩対応だったはずが、気づくとクーデレ夫婦になっていたフェルネとレジナルド。
その頃、真実の愛を貫いたはずのサディアスは……
(予定より長くなってしまった為、完結に伴い短編→長編に変更しました)
【完結】婚約破棄はしたいけれど傍にいてほしいなんて言われましても、私は貴方の母親ではありません
すだもみぢ
恋愛
「彼女は私のことを好きなんだって。だから君とは婚約解消しようと思う」
他の女性に言い寄られて舞い上がり、10年続いた婚約を一方的に解消してきた王太子。
今まで婚約者だと思うからこそ、彼のフォローもアドバイスもしていたけれど、まだそれを当たり前のように求めてくる彼に驚けば。
「君とは結婚しないけれど、ずっと私の側にいて助けてくれるんだろう?」
貴方は私を母親だとでも思っているのでしょうか。正直気持ち悪いんですけれど。
王妃様も「あの子のためを思って我慢して」としか言わないし。
あんな男となんてもう結婚したくないから我慢するのも嫌だし、非難されるのもイヤ。なんとかうまいこと立ち回って幸せになるんだから!
結婚式の前日に婚約者が「他に愛する人がいる」と言いに来ました
四折 柊
恋愛
セリーナは結婚式の前日に婚約者に「他に愛する人がいる」と告げられた。うすうす気づいていたがその言葉に深く傷つく。それでも彼が好きで結婚を止めたいとは思わなかった。(身勝手な言い分が出てきます。不快な気持ちになりそうでしたらブラウザバックでお願いします。)矛盾や違和感はスルーしてお読みいただけると助かります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる