婚約破棄されたので、もう私が支えるのはやめます

ふわふわ

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第九話 王妃の失望

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第九話 王妃の失望

王妃セシリアは、その日の午後も静かに書類へ目を通していた。

王妃の私室に隣接する執務室は、王宮の中でもひどく落ち着いた空間だった。壁一面の本棚、淡い青灰色の壁布、季節の花を控えめに活けた花器。豪奢でありながら目にうるさくない。そこには、この部屋の主が好む秩序と節度が隅々まで行き渡っていた。

窓辺から差し込む春の光の中で、王妃は一枚の報告書を閉じる。

「……やはり、そうなのね」

誰に聞かせるでもない呟きに、控えていた女官長が一歩進み出た。

「北部修道院からの抗議文にございますか」

「ええ。それだけではないわ」

王妃は手元の書類を軽く整えながら言う。

「南方伯家は面会の件をまだ根に持っている。東部侯家は交易祭の席順に難色を示し、昨日はついに王宮の使いの前でフェルベルク家の次女が“たかが席順”と言い放ったそうね」

女官長は深く目を伏せた。

「すでに、その話は女官たちの間にも……」

「広まるでしょうね」

王妃の声音は静かだった。

怒りよりも、冷えた確認に近い。

「王太子の隣に立つ者が、席順を“たかが”で済ませる。それがどれほど軽率なことか理解していないのだもの」

女官長は慎重に言葉を選ぶ。

「ミレイユ嬢は、まだお若く……」

「若さは免罪符にはならないわ」

ぴしゃりとした言い方ではなかった。だが、それ以上の弁護を許さない響きがあった。

セシリアは椅子の背に身を預け、しばし目を閉じた。

疲れているのではない。ただ、ひどく落胆していた。

アルヴィスが愚かだということは、今さら初めて知ったことではない。幼い頃から華やかなものを好み、耳に心地よい言葉を信じ、面倒なことから目を逸らす癖があった。それでも若いうちは矯正できると信じていたし、少なくとも王太子としての立場に立てば、周囲を見て学ぶだろうと思っていた。

そう信じられた理由の一つが、エレノアの存在だった。

無口で、華やかな場では目立ちすぎず、しかしどの場でも破綻を出さない娘。あの子が隣にいれば、アルヴィスも少しは形になるだろうと考えていた。

だが、違った。

形になっていたのは、アルヴィスが成長したからではない。

ただエレノアが、見えないところで整え続けていたからだ。

その事実を、王妃は今ようやく完全な形で認めざるを得なくなっていた。

「殿下は、本日も執務室で苛立っておられます」

女官長が静かに告げる。

「寄付の配分、交易祭、各家への返書、どれも“なぜこんな細事が自分のところまで来るのか”と」

王妃はゆっくりと目を開けた。

「細事、ね」

その一言の中に、深い失望がにじむ。

「王になるというのは、その“細事”の積み重ねを軽んじないことなのに」

王妃は立ち上がった。

裾の長いドレスが静かに床を撫でる。

女官長は少し驚いたようだった。

「王妃殿下」

「アルヴィスのところへ行くわ」

「今からでございますか」

「ええ。先延ばしにしても、あの子は何も理解しないでしょう」

王太子の執務室の前は、今日もどこか落ち着かなかった。

侍従が小走りに行き来し、書記官が束ねた書類を抱えて出入りし、控えの間では誰かが焦った声で確認を取り合っている。以前のように、廊下まで緊張が漏れてくることはなかった。少なくとも、表面はもっと整っていたはずだ。

王妃の一行が現れた瞬間、その場の者たちは一斉に頭を下げる。

「王妃殿下」

「アルヴィスは中に?」

「は、はい」

「通します」

誰も止められない。

扉が開かれると、室内には重苦しい空気が満ちていた。

アルヴィスは机に向かっていたが、実際には書類を読んでいるというより、睨んでいるだけだった。側近たちも疲れた顔をしている。

「母上?」

アルヴィスは王妃の姿に目を見開いた。

「どうなさったのです」

「少し話があるわ」

王妃の声は穏やかだった。

穏やかであるがゆえに、室内の全員が一層身を固くした。

「皆、少し外してちょうだい」

王妃がそう告げると、側近たちはすぐに退出した。最後に扉が閉まる。

残されたのは、母と息子だけだった。

「……何です、急に」

アルヴィスは不機嫌さを隠そうともしない。

「お忙しいようだから、手短に済ませるわ」

王妃は机の向かいに立ったまま言う。

「あなた、今の状況をどう見ているの」

「どう、とは?」

「交易祭の席順、寄付配分、南方伯家への対応、東部侯家の不満、北部修道院の抗議、フェルベルク侯爵家次女の失言」

一つずつ挙げられるたび、アルヴィスの表情が険しくなっていく。

「どれもこれも、周囲が大げさなのです」

やはりそう来るのね、と王妃は思った。

「席が少し違う、寄付が少し減る、待ち時間が少し長い。そうしたことでいちいち騒ぎ立てるから面倒になるのです。私はもっと大きなことを見ているというのに」

「大きなこと?」

「国全体のことです」

アルヴィスは苛立ちを帯びたまま言い募る。

「だから私は、細々とした調整などに時間を取られたくない。ああいうものは、下の者が整えて持ってくればいいのです」

王妃はしばらく息子を見つめた。

この子は、本当に分かっていない。

細々とした調整こそが、大きな流れを形作っているのだと。

大きなことを見る者ほど、小さな綻びを軽んじてはならないのだと。

それを理解しないまま、王になどなれるはずがない。

「では、その“下の者”が誰だったのか、あなたは考えたことがあるの?」

アルヴィスが眉をひそめる。

「何の話です」

「今まで、あなたのまわりで妙に綺麗に収まっていたものが、なぜ今こんなにも表へ噴き出しているのかという話よ」

「……それは、婚約の件で王宮内が騒がしいからでしょう」

「本気でそう思っているの」

王妃の声音が、ほんの少しだけ冷えた。

アルヴィスはその変化に気づいたのか、不愉快そうに口をつぐむ。

王妃は続ける。

「エレノア嬢がいなくなった途端に、あなたの周囲は崩れ始めた。偶然だと思う?」

「母上まで、あの女の肩を持つのですか」

アルヴィスの声に苛立ちが混じる。

「あれは冷たい女でした。いつも正しい顔をして、口うるさく、息が詰まった。私は真実の愛を選んだのです」

真実の愛。

まだそんな言葉を口にするのか、と王妃は心の底から疲れた。

「愛を選ぶのは勝手です」

王妃は淡々と言った。

「けれど、王太子として何を失うかも理解せずに人を切り捨てたのなら、それは愛ではなく愚かさよ」

アルヴィスの顔が赤くなる。

「愚かとは何です!」

「そのままの意味です」

王妃は一歩も引かなかった。

「あなたは、エレノア嬢が何をしていたのかも知らずに手放した。ミレイユ嬢が何をできないのかも見ずに隣へ置いた。そして今、周囲が回らなくなって初めて苛立っている」

「それは周囲の――」

「周囲のせいではないわ」

王妃は息子の言葉を遮った。

「王太子のまわりが崩れたのなら、まず問うべきは自分です」

その瞬間、アルヴィスは初めて押し黙った。

母の前でさえ、こうして真正面から否定されることは珍しいのだろう。王妃は普段、感情で叱りつけることをしない。だからこそ、今の静かな断定はよほど重く響いているはずだった。

だが、それでもアルヴィスはまだ理解しきれない顔をしている。

「……母上は、あれほどエレノアを買っていたのですか」

その問いに、王妃は少しだけ目を細めた。

買っていた。

そういう軽い言い方しかできないあたりが、やはり息子らしい。

「私は、あの子があなたよりよほど王宮を見ていたと思っているわ」

アルヴィスの顔が強張る。

屈辱なのだろう。

婚約者として見下していた相手を、自分より上だと言われることが。

けれど王妃は容赦しない。

「あなたが軽く済ませた失言も、誰かが先回りして消していた。あなたが面倒だと放った相手にも、誰かが頭を下げていた。あなたが覚えてもいない約束の綻びも、誰かが縫っていた」

静かに、一つずつ。

「その“誰か”がいなくなっただけで、今の有様よ」

アルヴィスは視線を逸らした。

その仕草だけで、何かを感じ始めていることは分かる。だがそれは、反省よりもむしろ不快感に近いのかもしれない。自分の“当然”が当然ではなかったと知るのは、誰にとっても愉快ではない。

「ミレイユは……」

ぽつりとアルヴィスが言う。

「ミレイユは、これから学べばいいのでしょう」

王妃はその言葉に、短く息を吐いた。

「学ぶこと自体は悪くないわ」

「なら――」

「けれど、あなたはその“学ぶまでの間”を誰が埋めると思っているの」

アルヴィスが言葉を失う。

そうなのだ。

王太子妃候補が未熟でも、時間をかけて育てればいい、という話では済まない。今この瞬間にも王宮は動いている。席順も、寄付も、返書も、面会も、誰かが今整えなければならない。

そして、エレノアはもういない。

「まさか……」

アルヴィスがようやく口を開く。

「母上は、私にエレノアを呼び戻せと?」

その言い方に、王妃は心の底から失望した。

まだ、そんなふうに言うのか。

まるで道具を戻させるように。

「あの子は物ではありません」

王妃の声音が、明確に冷える。

「呼べば戻ると思っているなら、それだけでもう十分に失礼よ」

アルヴィスは口をつぐんだ。

王妃はそれ以上続ける気が少し失せた。

ここまで言ってもまだ、息子は何を失ったのかを“自分の不便”としてしか捉えられていない。エレノアの名誉でも、努力でも、献身でもない。自分のまわりが回らなくなったことだけが問題なのだ。

なんて情けないのだろう。

「……あなたには、しばらく自分で考えてもらうしかなさそうね」

そう言って、王妃は身を翻す。

アルヴィスが慌てて声を上げる。

「母上!」

王妃は扉の前で止まった。

振り返らずに問う。

「何かしら」

「私は……そこまで間違っているのですか」

王妃は静かに目を閉じた。

その問いを今すること自体が、答えだと思った。

「間違いを犯すこと自体は、誰にでもあります」

ゆっくりと告げる。

「けれど、自分が何を間違えたのかも分からないまま、人のせいにしているうちは、何も正せないわ」

それだけを残し、王妃は執務室を出た。

廊下へ出ると、女官長が静かに寄り添う。

「いかがでしたか」

王妃はしばらく答えなかった。

廊下の向こうでは、書記官たちがまた慌ただしく動いている。王宮は止まらない。誰かが愚かでも、誰かが未熟でも、それでも動き続ける。だからこそ、その綻びは一層残酷に目立つのだ。

やがて王妃は、小さく言った。

「思っていた以上に、深刻だわ」

女官長は黙っていた。

王妃は歩き出しながら続ける。

「私はずっと、アルヴィスが未熟でも、隣に立つ者と周囲の支えでどうにか形になると思っていた」

「……はい」

「けれど違ったのね。形になっていたのは、あの子が支え続けていたからだった」

あの子。

女官長はそれが誰を指すのか、説明されなくても分かっていた。

エレノア・フェルベルク。

公開の場で婚約破棄され、それでも取り乱さずに去った娘。

あの静かな背中の意味を、王妃は今になってようやく完全に理解したのだ。

「失望したわ」

王妃はそう言った。

息子に対して。

そして、自分自身にも少し。

もっと早く気づくべきだったのかもしれない。あの子がどれだけ支えていたのかを。息子がどれだけ“支えられていること”に無自覚だったのかを。

「王妃殿下……」

「いいの」

王妃は女官長の言葉をやわらかく止めた。

「今さら悔やんでも遅いわ。なら、せめてこれ以上同じ愚かさを重ねないようにするしかない」

だが、その言葉の裏で、王妃ははっきりと分かっていた。

アルヴィスはまだ、自分が何を壊したのかを理解していない。

ミレイユもまた、自分がどれほど空虚な場所へ立ったのかを分かっていない。

そして二人が理解する頃には、きっともう遅いのだろう。

王妃は廊下の窓から春の庭を見下ろした。

柔らかな光の中で、木々が静かに揺れている。

その穏やかな景色とは裏腹に、王宮の中では少しずつ答えが形になり始めていた。

誰が支えていたのか。

誰が軽んじたのか。

そして、誰がその愚かさの代償を払うことになるのか。

王妃セシリアは静かに唇を引き結ぶ。

失望は、もう十分だった。

ここから先は、ただ見届けるだけでは済まないかもしれない。
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