婚約破棄されたので、もう私が支えるのはやめます

ふわふわ

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第十話 父の身勝手

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第十話 父の身勝手

フェルベルク侯爵がエレノアを呼び出したのは、王妃がアルヴィスの執務室を訪れたその日の夕刻だった。

日が傾き、屋敷の窓から差し込む光が赤みを帯び始めた頃、執事が静かに部屋を訪れる。

「お嬢様、旦那様が書斎へお越しになるようにと」

エレノアは読んでいた本から顔を上げた。

「お父様が」

「はい。できるだけ早くとのことでございます」

その声音には、わずかな気遣いがにじんでいた。書斎に呼ばれる。それだけで、ろくな話ではないと分かるからだろう。

エレノアは栞を挟み、本を閉じた。

「分かったわ」

立ち上がりながら、ふと窓の外を見る。

夕焼けに染まりかけた庭は穏やかだった。噴水の水音も、木々の揺れも変わらない。だが、この屋敷の中ではここ数日で確実に何かが変わっていた。使用人たちの足音。父の苛立ち。継母の焦り。義妹の不機嫌。どれも以前より隠しきれなくなっている。

それを思うと、胸の奥は妙に静かだった。

もう、自分が慌てる必要はない。

書斎の前に立つと、中から低い声がした。

「入れ」

扉を開ける。

侯爵は大きな机の向こうに座っていた。普段なら整えられている書斎の中も、今日は少し乱れている。机の上の書類の積み方が雑で、封の切られた手紙が脇へ押しやられていた。焦りがそのまま形になったような有様だった。

「お呼びでしょうか、お父様」

エレノアが一礼すると、侯爵はすぐには答えなかった。

机の上で指を組み、何かを量るような目で娘を見る。

その沈黙に、エレノアは覚えがあった。

叱責の前ではない。

何か都合の悪いことを言い出す前の沈黙だ。

やがて侯爵は重々しく口を開いた。

「……座りなさい」

「失礼いたします」

勧められた椅子に腰を下ろす。

向かい合う形になって、侯爵はまた少し黙った。どう切り出すべきか迷っているのだろう。珍しいことだった。父はいつも、自分の言いたいことをそのまま押しつける人だったからだ。

つまり、それだけ今は余裕がないのだ。

「王宮での混乱は、お前も耳にしているだろう」

ようやく出た言葉に、エレノアは頷いた。

「多少は」

「多少どころではない」

侯爵の眉間に深いしわが寄る。

「南方伯家はまだ不機嫌だ。東部侯家も交易祭の席順で難色を示し続けている。王宮内でも、殿下のまわりで妙な噂が立ち始めている」

妙な噂。

その正体が何であるか、エレノアにはだいたい想像がついた。

王太子の婚約者が変わった途端に、周囲の調整が立て続けに破綻した。ならば“今まで誰が整えていたのか”という話になるのは当然だ。

「そうですか」

それだけ返すと、侯爵は不満そうに顔をしかめた。

「お前はもっと危機感を持て」

「私が、ですか」

「フェルベルク家の名誉に関わる話だ!」

侯爵が声を強める。

だが、その怒声に以前ほどの圧はない。むしろ焦りが先に立っていて、どこか空回りしていた。

エレノアは静かに父を見た。

「私の名誉については、もうお考えにならないのですね」

侯爵の表情が一瞬止まる。

図星だったらしい。

だがすぐに、苦々しげに言った。

「今は家全体の話をしている」

「ええ。いつもそうでしたものね」

「皮肉を言いに来たのではあるまい」

「違いますわ。確認しただけです」

侯爵の指先がぴくりと動く。

苛立っている。

だがそれを爆発させられないのは、今はまだ自分に用があるからだ。

エレノアはその事実を、ひどく冷静に受け止めていた。

「それで、ご用件は何でしょう」

そう促すと、侯爵は不快そうに息を吐いたあと、ついに本題へ入った。

「……お前に、しばらくの間、王宮関係の調整へ戻ってもらいたい」

エレノアはまばたき一つしなかった。

だが胸の奥では、ああやはり、と思った。

来るだろうと思っていた言葉だ。

遅いくらいだった。

「戻る、とは」

「そのままの意味だ。表向きに殿下の婚約者へ戻れとは言わん。だが少なくとも、交易祭や寄付配分、南方伯家とのやり取りなど、お前が今まで見ていた部分を整理してほしい」

侯爵は言いながら、だんだん口調を整えていく。

要求を口にするうちに、自分の中で“これは当然の提案だ”という形ができてきたのだろう。

「お前しか把握していない部分が多い。今は感情的になっている場合ではないのだ」

感情的。

その言葉に、エレノアはほんの少しだけ唇の端を動かした。

感情的になっているのは、いったいどちらなのだろう。

「お父様」

静かに呼ぶ。

「私が何のために、それをするのですか」

侯爵が眉をひそめた。

「何のため、だと?」

「ええ」

エレノアはまっすぐ父を見た。

「私は殿下に公開の場で婚約破棄されました。義妹はその隣に立ち、私は悪女のように扱われました。家へ戻れば、お父様もお義母様もミレイユの顔色ばかりを気にし、私には沈黙を命じました。その私が、なぜ今さら王宮の火消しを引き受けなくてはならないのか、その理由を伺っているのです」

侯爵は不機嫌そうに顔をしかめる。

「家のためだ」

予想通りの答えだった。

「フェルベルク家のために、お前も働く義務がある」

「義務」

「そうだ。お前はこの家の娘だ」

エレノアは心の中で、小さく何かが冷えていくのを感じた。

やはりこの人は、最後までそれなのだ。

娘であることを、守る理由ではなく、使う理由にする。

「……娘、ですか」

「何だ、その言い方は」

「いいえ。ただ、お父様は便利なときだけ私を娘と呼ぶのだなと思いまして」

侯爵の顔色が変わる。

「無礼なことを言うな!」

「無礼でしょうか」

エレノアの声は乱れなかった。

「婚約破棄された娘には部屋に引っ込めとおっしゃる。公爵家当主が私に仕事を依頼しに来れば、今度は家のために働けとおっしゃる。そこにあるのは、娘への情ではなく都合ではありませんか」

「お前は……!」

侯爵が立ち上がりかける。

だがエレノアは目を逸らさなかった。

父の怒りを前にしても、もう身体が強張らないことに自分で少し驚く。以前なら、この圧に耐えながら“自分が悪いのかもしれない”と考えたはずなのに。

今は違う。

間違っているのは自分ではないと、はっきり分かる。

侯爵は何とか声を抑え込み、低く言う。

「お前は、自分がどれだけ家に守られてきたと思っている」

その言葉に、エレノアは一瞬だけ目を細めた。

守られてきた。

よくも言えたものだと思う。

「守られてきた、のですか」

「当然だろう。侯爵家の嫡女として、何不自由なく育てられてきたではないか」

「それは、私が侯爵家にとって価値ある存在だからですわ」

エレノアは静かに返す。

「慈善ではありません」

侯爵が言葉に詰まる。

「私は王太子妃候補として教育を受け、社交に出され、王宮とのつながりに使われてきました。その代わり、家の名と財を享受してきた。それは理解しています」

「ならば――」

「ですが」

エレノアは父の言葉を遮った。

「その価値を使い尽くすだけ使って、いざ婚約破棄された娘の名誉が傷ついたとき、誰がお守りくださいましたか」

書斎の空気が張り詰める。

侯爵は黙った。

反論できないからだ。

「お父様は家の体面を優先なさった。お義母様はミレイユを守った。では私は、誰に守られたのでしょう」

その問いは、責めるためというより、確認のためだった。

すでに答えは知っている。

誰にも守られていない。

だからこそ、今こうして冷静でいられるのだ。

期待が死ねば、失望もある程度で済む。

侯爵は机に手をつき、苦い顔で言った。

「……今さら感情を持ち出すな」

エレノアは、思わず小さく息を吐いた。

やっぱりそう来るのね。

「感情ではありません」

「なら何だ」

「対価の話です」

侯爵が訝しげに眉を寄せる。

エレノアは続けた。

「私はこれまで、王宮と侯爵家のために働いてきました。報酬を求めたことはありません。感謝も期待しませんでした。ですが、その結果として返ってきたのが公開婚約破棄と切り捨てなら、今後も同じ形で働く理由はありません」

「お前は家に恩があるだろう!」

「ええ。だから今まで働いてきたのです」

その一言に、侯爵は黙る。

言い返せないのだ。

エレノアはきちんと侯爵家のために尽くしてきた。しかもそれは、父が想像していた以上の範囲と質で。だから今、こうして困っている。

「……お前がここまで頑なだとは思わなかった」

侯爵が疲れたように言う。

その声に、かすかな非難が混じっていた。

以前ならその響きに罪悪感を覚えたかもしれない。だが今は、それすらどこか他人事のように聞こえる。

「頑な、ですか」

「そうだ。家が困っているのだぞ」

「私も困っておりました」

侯爵が顔を上げる。

「舞踏会の場で婚約を破棄され、悪女のように扱われ、帰宅した馬車の中でも責められました。あのとき、私も困っておりましたわ」

一語一語、静かに置いていく。

侯爵の視線が揺れる。

「その私に、お父様は何とおっしゃいましたか」

「……」

「家の名誉のために黙れと、そうおっしゃいました」

書斎の中の時計が、かちりと音を立てる。

やけに大きく響いた。

侯爵はとうとう椅子へ深く腰を落とした。

初めて、少し老けて見えた。

だがそれでも、エレノアの胸には憐れみは湧かなかった。湧くには遅すぎた。

しばらくして侯爵は、声を落として言う。

「……では、お前は何もする気はないのだな」

「はい」

即答だった。

侯爵の顔がこわばる。

けれどもう、それ以上怒鳴る元気もないのだろう。

「このままでは、ミレイユにも影響が出る」

その言葉に、エレノアはほんの少しだけ目を瞬いた。

結局、そこなのだ。

家のためと言いながら、今、父の頭にあるのは義妹の未来でもある。

「そうでしょうね」

「お前の妹だぞ」

その言い方に、エレノアは心の底から冷えた。

妹。

たしかに血はつながっていないが、戸籍の上ではそうなのだろう。だが、その“妹”は、自分の婚約者を奪い、自分を悪女に仕立て、今もなお何も失っていない顔をしている。

「……お父様は、本当にお優しいのですね」

「何だと」

「ミレイユには、何を失わせるのも惜しいのでしょう」

侯爵が怒りに目を見開く。

だがエレノアは続けた。

「でも私は違いますわ。私はもう、あの子のために自分を削るつもりはありません」

それが、決定打だった。

侯爵の中で何かが切れたのか、彼は強く机を叩いた。

「ならば好きにしろ!」

怒声が書斎に響く。

「だが忘れるな、お前はこの家の娘だ! 外で勝手なことをして、家に泥を塗るような真似は許さん!」

ああ、やっと本音が出た。

エレノアは心の中で静かに思う。

要するに父は、自分を働かせたいのではない。自分の手から離れるのが嫌なのだ。役に立つ娘を、外の誰かに正しく評価されるのが気に入らない。そして、その娘が自分の意思で家の外へ価値を持ち出すことを恐れている。

なんて身勝手なのだろう。

けれど今のエレノアには、その身勝手さが以前ほど怖くはなかった。

「泥を塗ったのは、私ではございません」

そう返して、ゆっくり立ち上がる。

侯爵が睨みつけるが、もう止めようとはしない。

止めても無駄だと分かったのかもしれない。

「お話は以上でしょうか」

「……勝手にしろ」

侯爵は顔を背けた。

その言葉を、エレノアは許可として受け取ることにした。

深く一礼する。

「では、失礼いたします」

扉へ向かう。

あと数歩というところで、背後から低い声が飛んだ。

「クラウゼン公爵の件だが」

エレノアは立ち止まる。

「家の許しなく、軽率に関わるな」

振り返らずに聞いていたが、侯爵の声には強がりが混じっていた。命令というより牽制だ。自分が完全には支配できない場所へ、娘が移るかもしれないことへの。

エレノアは扉に手をかけたまま、静かに答える。

「お父様」

「何だ」

「私は、もう軽率に誰かのために働いたりはいたしません」

それだけ言って、書斎を出た。

廊下の空気は少しひんやりしていた。

閉ざされた書斎の中より、ずっと息がしやすい。

エレノアはそのまま足を止めずに歩いた。

怒鳴られたのに、不思議と心は静かだった。痛みがないわけではない。けれどそれは、今さら改めて傷ついたというより、もう分かりきっていたものを再確認しただけの痛みに近い。

父は結局、自分を娘としてではなく、家の部品として見ていた。

壊れれば困る。失えば惜しい。だが、それ以上ではない。

「身勝手なのは、どちらかしら」

誰に聞かせるでもなく、そう呟く。

家のために働けと言う。

妹のために助けろと言う。

娘としての義務を果たせと言う。

けれど、そのすべてに対して、父は自分が何を返せるのかを一度も考えていない。

守ることも、信じることも、名誉を支えることもせずに、ただ差し出せと求めるだけ。

ずいぶんと虫のいい話だった。

窓のそばで立ち止まり、庭を見下ろす。

夕暮れの光が、屋敷の石畳を淡く染めていた。

あの書斎にいた頃の自分なら、きっとまだ迷っていただろう。家のために何かすべきではないか。ここで断るのは冷たいのではないか。そんなふうに。

でも、もう迷わない。

父が娘を都合でしか見ないのなら、自分もまた父を“絶対の庇護者”としては見ない。

ただ、それだけのことだ。

背後から足音がした。

振り向くと、若い侍女が控えめに頭を下げる。

「お嬢様、お顔色が……」

「大丈夫よ」

「お茶をお部屋へお持ちしましょうか」

その一言に、エレノアは少しだけ目をやわらげた。

「お願いするわ」

侍女が去っていく。

エレノアはもう一度だけ庭へ目を向けた。

王宮も、侯爵家も、こうして少しずつ綻びを見せ始めている。今までならその綻びを埋めることばかり考えていた。けれど、もう違う。

綻びを隠すのは、支える側の義務ではない。

壊した側が、その責任を負うべきなのだ。

そう思うと、胸の奥にあるのは怒りよりもむしろ、冷えた明瞭さだった。

父の身勝手は、もう十分見た。

ならば次は、自分のために考える番だ。

エレノアはゆっくりと歩き出す。

自室へ戻るその足取りは、少しも揺らいでいなかった。
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