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第十話 父の身勝手
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第十話 父の身勝手
フェルベルク侯爵がエレノアを呼び出したのは、王妃がアルヴィスの執務室を訪れたその日の夕刻だった。
日が傾き、屋敷の窓から差し込む光が赤みを帯び始めた頃、執事が静かに部屋を訪れる。
「お嬢様、旦那様が書斎へお越しになるようにと」
エレノアは読んでいた本から顔を上げた。
「お父様が」
「はい。できるだけ早くとのことでございます」
その声音には、わずかな気遣いがにじんでいた。書斎に呼ばれる。それだけで、ろくな話ではないと分かるからだろう。
エレノアは栞を挟み、本を閉じた。
「分かったわ」
立ち上がりながら、ふと窓の外を見る。
夕焼けに染まりかけた庭は穏やかだった。噴水の水音も、木々の揺れも変わらない。だが、この屋敷の中ではここ数日で確実に何かが変わっていた。使用人たちの足音。父の苛立ち。継母の焦り。義妹の不機嫌。どれも以前より隠しきれなくなっている。
それを思うと、胸の奥は妙に静かだった。
もう、自分が慌てる必要はない。
書斎の前に立つと、中から低い声がした。
「入れ」
扉を開ける。
侯爵は大きな机の向こうに座っていた。普段なら整えられている書斎の中も、今日は少し乱れている。机の上の書類の積み方が雑で、封の切られた手紙が脇へ押しやられていた。焦りがそのまま形になったような有様だった。
「お呼びでしょうか、お父様」
エレノアが一礼すると、侯爵はすぐには答えなかった。
机の上で指を組み、何かを量るような目で娘を見る。
その沈黙に、エレノアは覚えがあった。
叱責の前ではない。
何か都合の悪いことを言い出す前の沈黙だ。
やがて侯爵は重々しく口を開いた。
「……座りなさい」
「失礼いたします」
勧められた椅子に腰を下ろす。
向かい合う形になって、侯爵はまた少し黙った。どう切り出すべきか迷っているのだろう。珍しいことだった。父はいつも、自分の言いたいことをそのまま押しつける人だったからだ。
つまり、それだけ今は余裕がないのだ。
「王宮での混乱は、お前も耳にしているだろう」
ようやく出た言葉に、エレノアは頷いた。
「多少は」
「多少どころではない」
侯爵の眉間に深いしわが寄る。
「南方伯家はまだ不機嫌だ。東部侯家も交易祭の席順で難色を示し続けている。王宮内でも、殿下のまわりで妙な噂が立ち始めている」
妙な噂。
その正体が何であるか、エレノアにはだいたい想像がついた。
王太子の婚約者が変わった途端に、周囲の調整が立て続けに破綻した。ならば“今まで誰が整えていたのか”という話になるのは当然だ。
「そうですか」
それだけ返すと、侯爵は不満そうに顔をしかめた。
「お前はもっと危機感を持て」
「私が、ですか」
「フェルベルク家の名誉に関わる話だ!」
侯爵が声を強める。
だが、その怒声に以前ほどの圧はない。むしろ焦りが先に立っていて、どこか空回りしていた。
エレノアは静かに父を見た。
「私の名誉については、もうお考えにならないのですね」
侯爵の表情が一瞬止まる。
図星だったらしい。
だがすぐに、苦々しげに言った。
「今は家全体の話をしている」
「ええ。いつもそうでしたものね」
「皮肉を言いに来たのではあるまい」
「違いますわ。確認しただけです」
侯爵の指先がぴくりと動く。
苛立っている。
だがそれを爆発させられないのは、今はまだ自分に用があるからだ。
エレノアはその事実を、ひどく冷静に受け止めていた。
「それで、ご用件は何でしょう」
そう促すと、侯爵は不快そうに息を吐いたあと、ついに本題へ入った。
「……お前に、しばらくの間、王宮関係の調整へ戻ってもらいたい」
エレノアはまばたき一つしなかった。
だが胸の奥では、ああやはり、と思った。
来るだろうと思っていた言葉だ。
遅いくらいだった。
「戻る、とは」
「そのままの意味だ。表向きに殿下の婚約者へ戻れとは言わん。だが少なくとも、交易祭や寄付配分、南方伯家とのやり取りなど、お前が今まで見ていた部分を整理してほしい」
侯爵は言いながら、だんだん口調を整えていく。
要求を口にするうちに、自分の中で“これは当然の提案だ”という形ができてきたのだろう。
「お前しか把握していない部分が多い。今は感情的になっている場合ではないのだ」
感情的。
その言葉に、エレノアはほんの少しだけ唇の端を動かした。
感情的になっているのは、いったいどちらなのだろう。
「お父様」
静かに呼ぶ。
「私が何のために、それをするのですか」
侯爵が眉をひそめた。
「何のため、だと?」
「ええ」
エレノアはまっすぐ父を見た。
「私は殿下に公開の場で婚約破棄されました。義妹はその隣に立ち、私は悪女のように扱われました。家へ戻れば、お父様もお義母様もミレイユの顔色ばかりを気にし、私には沈黙を命じました。その私が、なぜ今さら王宮の火消しを引き受けなくてはならないのか、その理由を伺っているのです」
侯爵は不機嫌そうに顔をしかめる。
「家のためだ」
予想通りの答えだった。
「フェルベルク家のために、お前も働く義務がある」
「義務」
「そうだ。お前はこの家の娘だ」
エレノアは心の中で、小さく何かが冷えていくのを感じた。
やはりこの人は、最後までそれなのだ。
娘であることを、守る理由ではなく、使う理由にする。
「……娘、ですか」
「何だ、その言い方は」
「いいえ。ただ、お父様は便利なときだけ私を娘と呼ぶのだなと思いまして」
侯爵の顔色が変わる。
「無礼なことを言うな!」
「無礼でしょうか」
エレノアの声は乱れなかった。
「婚約破棄された娘には部屋に引っ込めとおっしゃる。公爵家当主が私に仕事を依頼しに来れば、今度は家のために働けとおっしゃる。そこにあるのは、娘への情ではなく都合ではありませんか」
「お前は……!」
侯爵が立ち上がりかける。
だがエレノアは目を逸らさなかった。
父の怒りを前にしても、もう身体が強張らないことに自分で少し驚く。以前なら、この圧に耐えながら“自分が悪いのかもしれない”と考えたはずなのに。
今は違う。
間違っているのは自分ではないと、はっきり分かる。
侯爵は何とか声を抑え込み、低く言う。
「お前は、自分がどれだけ家に守られてきたと思っている」
その言葉に、エレノアは一瞬だけ目を細めた。
守られてきた。
よくも言えたものだと思う。
「守られてきた、のですか」
「当然だろう。侯爵家の嫡女として、何不自由なく育てられてきたではないか」
「それは、私が侯爵家にとって価値ある存在だからですわ」
エレノアは静かに返す。
「慈善ではありません」
侯爵が言葉に詰まる。
「私は王太子妃候補として教育を受け、社交に出され、王宮とのつながりに使われてきました。その代わり、家の名と財を享受してきた。それは理解しています」
「ならば――」
「ですが」
エレノアは父の言葉を遮った。
「その価値を使い尽くすだけ使って、いざ婚約破棄された娘の名誉が傷ついたとき、誰がお守りくださいましたか」
書斎の空気が張り詰める。
侯爵は黙った。
反論できないからだ。
「お父様は家の体面を優先なさった。お義母様はミレイユを守った。では私は、誰に守られたのでしょう」
その問いは、責めるためというより、確認のためだった。
すでに答えは知っている。
誰にも守られていない。
だからこそ、今こうして冷静でいられるのだ。
期待が死ねば、失望もある程度で済む。
侯爵は机に手をつき、苦い顔で言った。
「……今さら感情を持ち出すな」
エレノアは、思わず小さく息を吐いた。
やっぱりそう来るのね。
「感情ではありません」
「なら何だ」
「対価の話です」
侯爵が訝しげに眉を寄せる。
エレノアは続けた。
「私はこれまで、王宮と侯爵家のために働いてきました。報酬を求めたことはありません。感謝も期待しませんでした。ですが、その結果として返ってきたのが公開婚約破棄と切り捨てなら、今後も同じ形で働く理由はありません」
「お前は家に恩があるだろう!」
「ええ。だから今まで働いてきたのです」
その一言に、侯爵は黙る。
言い返せないのだ。
エレノアはきちんと侯爵家のために尽くしてきた。しかもそれは、父が想像していた以上の範囲と質で。だから今、こうして困っている。
「……お前がここまで頑なだとは思わなかった」
侯爵が疲れたように言う。
その声に、かすかな非難が混じっていた。
以前ならその響きに罪悪感を覚えたかもしれない。だが今は、それすらどこか他人事のように聞こえる。
「頑な、ですか」
「そうだ。家が困っているのだぞ」
「私も困っておりました」
侯爵が顔を上げる。
「舞踏会の場で婚約を破棄され、悪女のように扱われ、帰宅した馬車の中でも責められました。あのとき、私も困っておりましたわ」
一語一語、静かに置いていく。
侯爵の視線が揺れる。
「その私に、お父様は何とおっしゃいましたか」
「……」
「家の名誉のために黙れと、そうおっしゃいました」
書斎の中の時計が、かちりと音を立てる。
やけに大きく響いた。
侯爵はとうとう椅子へ深く腰を落とした。
初めて、少し老けて見えた。
だがそれでも、エレノアの胸には憐れみは湧かなかった。湧くには遅すぎた。
しばらくして侯爵は、声を落として言う。
「……では、お前は何もする気はないのだな」
「はい」
即答だった。
侯爵の顔がこわばる。
けれどもう、それ以上怒鳴る元気もないのだろう。
「このままでは、ミレイユにも影響が出る」
その言葉に、エレノアはほんの少しだけ目を瞬いた。
結局、そこなのだ。
家のためと言いながら、今、父の頭にあるのは義妹の未来でもある。
「そうでしょうね」
「お前の妹だぞ」
その言い方に、エレノアは心の底から冷えた。
妹。
たしかに血はつながっていないが、戸籍の上ではそうなのだろう。だが、その“妹”は、自分の婚約者を奪い、自分を悪女に仕立て、今もなお何も失っていない顔をしている。
「……お父様は、本当にお優しいのですね」
「何だと」
「ミレイユには、何を失わせるのも惜しいのでしょう」
侯爵が怒りに目を見開く。
だがエレノアは続けた。
「でも私は違いますわ。私はもう、あの子のために自分を削るつもりはありません」
それが、決定打だった。
侯爵の中で何かが切れたのか、彼は強く机を叩いた。
「ならば好きにしろ!」
怒声が書斎に響く。
「だが忘れるな、お前はこの家の娘だ! 外で勝手なことをして、家に泥を塗るような真似は許さん!」
ああ、やっと本音が出た。
エレノアは心の中で静かに思う。
要するに父は、自分を働かせたいのではない。自分の手から離れるのが嫌なのだ。役に立つ娘を、外の誰かに正しく評価されるのが気に入らない。そして、その娘が自分の意思で家の外へ価値を持ち出すことを恐れている。
なんて身勝手なのだろう。
けれど今のエレノアには、その身勝手さが以前ほど怖くはなかった。
「泥を塗ったのは、私ではございません」
そう返して、ゆっくり立ち上がる。
侯爵が睨みつけるが、もう止めようとはしない。
止めても無駄だと分かったのかもしれない。
「お話は以上でしょうか」
「……勝手にしろ」
侯爵は顔を背けた。
その言葉を、エレノアは許可として受け取ることにした。
深く一礼する。
「では、失礼いたします」
扉へ向かう。
あと数歩というところで、背後から低い声が飛んだ。
「クラウゼン公爵の件だが」
エレノアは立ち止まる。
「家の許しなく、軽率に関わるな」
振り返らずに聞いていたが、侯爵の声には強がりが混じっていた。命令というより牽制だ。自分が完全には支配できない場所へ、娘が移るかもしれないことへの。
エレノアは扉に手をかけたまま、静かに答える。
「お父様」
「何だ」
「私は、もう軽率に誰かのために働いたりはいたしません」
それだけ言って、書斎を出た。
廊下の空気は少しひんやりしていた。
閉ざされた書斎の中より、ずっと息がしやすい。
エレノアはそのまま足を止めずに歩いた。
怒鳴られたのに、不思議と心は静かだった。痛みがないわけではない。けれどそれは、今さら改めて傷ついたというより、もう分かりきっていたものを再確認しただけの痛みに近い。
父は結局、自分を娘としてではなく、家の部品として見ていた。
壊れれば困る。失えば惜しい。だが、それ以上ではない。
「身勝手なのは、どちらかしら」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
家のために働けと言う。
妹のために助けろと言う。
娘としての義務を果たせと言う。
けれど、そのすべてに対して、父は自分が何を返せるのかを一度も考えていない。
守ることも、信じることも、名誉を支えることもせずに、ただ差し出せと求めるだけ。
ずいぶんと虫のいい話だった。
窓のそばで立ち止まり、庭を見下ろす。
夕暮れの光が、屋敷の石畳を淡く染めていた。
あの書斎にいた頃の自分なら、きっとまだ迷っていただろう。家のために何かすべきではないか。ここで断るのは冷たいのではないか。そんなふうに。
でも、もう迷わない。
父が娘を都合でしか見ないのなら、自分もまた父を“絶対の庇護者”としては見ない。
ただ、それだけのことだ。
背後から足音がした。
振り向くと、若い侍女が控えめに頭を下げる。
「お嬢様、お顔色が……」
「大丈夫よ」
「お茶をお部屋へお持ちしましょうか」
その一言に、エレノアは少しだけ目をやわらげた。
「お願いするわ」
侍女が去っていく。
エレノアはもう一度だけ庭へ目を向けた。
王宮も、侯爵家も、こうして少しずつ綻びを見せ始めている。今までならその綻びを埋めることばかり考えていた。けれど、もう違う。
綻びを隠すのは、支える側の義務ではない。
壊した側が、その責任を負うべきなのだ。
そう思うと、胸の奥にあるのは怒りよりもむしろ、冷えた明瞭さだった。
父の身勝手は、もう十分見た。
ならば次は、自分のために考える番だ。
エレノアはゆっくりと歩き出す。
自室へ戻るその足取りは、少しも揺らいでいなかった。
フェルベルク侯爵がエレノアを呼び出したのは、王妃がアルヴィスの執務室を訪れたその日の夕刻だった。
日が傾き、屋敷の窓から差し込む光が赤みを帯び始めた頃、執事が静かに部屋を訪れる。
「お嬢様、旦那様が書斎へお越しになるようにと」
エレノアは読んでいた本から顔を上げた。
「お父様が」
「はい。できるだけ早くとのことでございます」
その声音には、わずかな気遣いがにじんでいた。書斎に呼ばれる。それだけで、ろくな話ではないと分かるからだろう。
エレノアは栞を挟み、本を閉じた。
「分かったわ」
立ち上がりながら、ふと窓の外を見る。
夕焼けに染まりかけた庭は穏やかだった。噴水の水音も、木々の揺れも変わらない。だが、この屋敷の中ではここ数日で確実に何かが変わっていた。使用人たちの足音。父の苛立ち。継母の焦り。義妹の不機嫌。どれも以前より隠しきれなくなっている。
それを思うと、胸の奥は妙に静かだった。
もう、自分が慌てる必要はない。
書斎の前に立つと、中から低い声がした。
「入れ」
扉を開ける。
侯爵は大きな机の向こうに座っていた。普段なら整えられている書斎の中も、今日は少し乱れている。机の上の書類の積み方が雑で、封の切られた手紙が脇へ押しやられていた。焦りがそのまま形になったような有様だった。
「お呼びでしょうか、お父様」
エレノアが一礼すると、侯爵はすぐには答えなかった。
机の上で指を組み、何かを量るような目で娘を見る。
その沈黙に、エレノアは覚えがあった。
叱責の前ではない。
何か都合の悪いことを言い出す前の沈黙だ。
やがて侯爵は重々しく口を開いた。
「……座りなさい」
「失礼いたします」
勧められた椅子に腰を下ろす。
向かい合う形になって、侯爵はまた少し黙った。どう切り出すべきか迷っているのだろう。珍しいことだった。父はいつも、自分の言いたいことをそのまま押しつける人だったからだ。
つまり、それだけ今は余裕がないのだ。
「王宮での混乱は、お前も耳にしているだろう」
ようやく出た言葉に、エレノアは頷いた。
「多少は」
「多少どころではない」
侯爵の眉間に深いしわが寄る。
「南方伯家はまだ不機嫌だ。東部侯家も交易祭の席順で難色を示し続けている。王宮内でも、殿下のまわりで妙な噂が立ち始めている」
妙な噂。
その正体が何であるか、エレノアにはだいたい想像がついた。
王太子の婚約者が変わった途端に、周囲の調整が立て続けに破綻した。ならば“今まで誰が整えていたのか”という話になるのは当然だ。
「そうですか」
それだけ返すと、侯爵は不満そうに顔をしかめた。
「お前はもっと危機感を持て」
「私が、ですか」
「フェルベルク家の名誉に関わる話だ!」
侯爵が声を強める。
だが、その怒声に以前ほどの圧はない。むしろ焦りが先に立っていて、どこか空回りしていた。
エレノアは静かに父を見た。
「私の名誉については、もうお考えにならないのですね」
侯爵の表情が一瞬止まる。
図星だったらしい。
だがすぐに、苦々しげに言った。
「今は家全体の話をしている」
「ええ。いつもそうでしたものね」
「皮肉を言いに来たのではあるまい」
「違いますわ。確認しただけです」
侯爵の指先がぴくりと動く。
苛立っている。
だがそれを爆発させられないのは、今はまだ自分に用があるからだ。
エレノアはその事実を、ひどく冷静に受け止めていた。
「それで、ご用件は何でしょう」
そう促すと、侯爵は不快そうに息を吐いたあと、ついに本題へ入った。
「……お前に、しばらくの間、王宮関係の調整へ戻ってもらいたい」
エレノアはまばたき一つしなかった。
だが胸の奥では、ああやはり、と思った。
来るだろうと思っていた言葉だ。
遅いくらいだった。
「戻る、とは」
「そのままの意味だ。表向きに殿下の婚約者へ戻れとは言わん。だが少なくとも、交易祭や寄付配分、南方伯家とのやり取りなど、お前が今まで見ていた部分を整理してほしい」
侯爵は言いながら、だんだん口調を整えていく。
要求を口にするうちに、自分の中で“これは当然の提案だ”という形ができてきたのだろう。
「お前しか把握していない部分が多い。今は感情的になっている場合ではないのだ」
感情的。
その言葉に、エレノアはほんの少しだけ唇の端を動かした。
感情的になっているのは、いったいどちらなのだろう。
「お父様」
静かに呼ぶ。
「私が何のために、それをするのですか」
侯爵が眉をひそめた。
「何のため、だと?」
「ええ」
エレノアはまっすぐ父を見た。
「私は殿下に公開の場で婚約破棄されました。義妹はその隣に立ち、私は悪女のように扱われました。家へ戻れば、お父様もお義母様もミレイユの顔色ばかりを気にし、私には沈黙を命じました。その私が、なぜ今さら王宮の火消しを引き受けなくてはならないのか、その理由を伺っているのです」
侯爵は不機嫌そうに顔をしかめる。
「家のためだ」
予想通りの答えだった。
「フェルベルク家のために、お前も働く義務がある」
「義務」
「そうだ。お前はこの家の娘だ」
エレノアは心の中で、小さく何かが冷えていくのを感じた。
やはりこの人は、最後までそれなのだ。
娘であることを、守る理由ではなく、使う理由にする。
「……娘、ですか」
「何だ、その言い方は」
「いいえ。ただ、お父様は便利なときだけ私を娘と呼ぶのだなと思いまして」
侯爵の顔色が変わる。
「無礼なことを言うな!」
「無礼でしょうか」
エレノアの声は乱れなかった。
「婚約破棄された娘には部屋に引っ込めとおっしゃる。公爵家当主が私に仕事を依頼しに来れば、今度は家のために働けとおっしゃる。そこにあるのは、娘への情ではなく都合ではありませんか」
「お前は……!」
侯爵が立ち上がりかける。
だがエレノアは目を逸らさなかった。
父の怒りを前にしても、もう身体が強張らないことに自分で少し驚く。以前なら、この圧に耐えながら“自分が悪いのかもしれない”と考えたはずなのに。
今は違う。
間違っているのは自分ではないと、はっきり分かる。
侯爵は何とか声を抑え込み、低く言う。
「お前は、自分がどれだけ家に守られてきたと思っている」
その言葉に、エレノアは一瞬だけ目を細めた。
守られてきた。
よくも言えたものだと思う。
「守られてきた、のですか」
「当然だろう。侯爵家の嫡女として、何不自由なく育てられてきたではないか」
「それは、私が侯爵家にとって価値ある存在だからですわ」
エレノアは静かに返す。
「慈善ではありません」
侯爵が言葉に詰まる。
「私は王太子妃候補として教育を受け、社交に出され、王宮とのつながりに使われてきました。その代わり、家の名と財を享受してきた。それは理解しています」
「ならば――」
「ですが」
エレノアは父の言葉を遮った。
「その価値を使い尽くすだけ使って、いざ婚約破棄された娘の名誉が傷ついたとき、誰がお守りくださいましたか」
書斎の空気が張り詰める。
侯爵は黙った。
反論できないからだ。
「お父様は家の体面を優先なさった。お義母様はミレイユを守った。では私は、誰に守られたのでしょう」
その問いは、責めるためというより、確認のためだった。
すでに答えは知っている。
誰にも守られていない。
だからこそ、今こうして冷静でいられるのだ。
期待が死ねば、失望もある程度で済む。
侯爵は机に手をつき、苦い顔で言った。
「……今さら感情を持ち出すな」
エレノアは、思わず小さく息を吐いた。
やっぱりそう来るのね。
「感情ではありません」
「なら何だ」
「対価の話です」
侯爵が訝しげに眉を寄せる。
エレノアは続けた。
「私はこれまで、王宮と侯爵家のために働いてきました。報酬を求めたことはありません。感謝も期待しませんでした。ですが、その結果として返ってきたのが公開婚約破棄と切り捨てなら、今後も同じ形で働く理由はありません」
「お前は家に恩があるだろう!」
「ええ。だから今まで働いてきたのです」
その一言に、侯爵は黙る。
言い返せないのだ。
エレノアはきちんと侯爵家のために尽くしてきた。しかもそれは、父が想像していた以上の範囲と質で。だから今、こうして困っている。
「……お前がここまで頑なだとは思わなかった」
侯爵が疲れたように言う。
その声に、かすかな非難が混じっていた。
以前ならその響きに罪悪感を覚えたかもしれない。だが今は、それすらどこか他人事のように聞こえる。
「頑な、ですか」
「そうだ。家が困っているのだぞ」
「私も困っておりました」
侯爵が顔を上げる。
「舞踏会の場で婚約を破棄され、悪女のように扱われ、帰宅した馬車の中でも責められました。あのとき、私も困っておりましたわ」
一語一語、静かに置いていく。
侯爵の視線が揺れる。
「その私に、お父様は何とおっしゃいましたか」
「……」
「家の名誉のために黙れと、そうおっしゃいました」
書斎の中の時計が、かちりと音を立てる。
やけに大きく響いた。
侯爵はとうとう椅子へ深く腰を落とした。
初めて、少し老けて見えた。
だがそれでも、エレノアの胸には憐れみは湧かなかった。湧くには遅すぎた。
しばらくして侯爵は、声を落として言う。
「……では、お前は何もする気はないのだな」
「はい」
即答だった。
侯爵の顔がこわばる。
けれどもう、それ以上怒鳴る元気もないのだろう。
「このままでは、ミレイユにも影響が出る」
その言葉に、エレノアはほんの少しだけ目を瞬いた。
結局、そこなのだ。
家のためと言いながら、今、父の頭にあるのは義妹の未来でもある。
「そうでしょうね」
「お前の妹だぞ」
その言い方に、エレノアは心の底から冷えた。
妹。
たしかに血はつながっていないが、戸籍の上ではそうなのだろう。だが、その“妹”は、自分の婚約者を奪い、自分を悪女に仕立て、今もなお何も失っていない顔をしている。
「……お父様は、本当にお優しいのですね」
「何だと」
「ミレイユには、何を失わせるのも惜しいのでしょう」
侯爵が怒りに目を見開く。
だがエレノアは続けた。
「でも私は違いますわ。私はもう、あの子のために自分を削るつもりはありません」
それが、決定打だった。
侯爵の中で何かが切れたのか、彼は強く机を叩いた。
「ならば好きにしろ!」
怒声が書斎に響く。
「だが忘れるな、お前はこの家の娘だ! 外で勝手なことをして、家に泥を塗るような真似は許さん!」
ああ、やっと本音が出た。
エレノアは心の中で静かに思う。
要するに父は、自分を働かせたいのではない。自分の手から離れるのが嫌なのだ。役に立つ娘を、外の誰かに正しく評価されるのが気に入らない。そして、その娘が自分の意思で家の外へ価値を持ち出すことを恐れている。
なんて身勝手なのだろう。
けれど今のエレノアには、その身勝手さが以前ほど怖くはなかった。
「泥を塗ったのは、私ではございません」
そう返して、ゆっくり立ち上がる。
侯爵が睨みつけるが、もう止めようとはしない。
止めても無駄だと分かったのかもしれない。
「お話は以上でしょうか」
「……勝手にしろ」
侯爵は顔を背けた。
その言葉を、エレノアは許可として受け取ることにした。
深く一礼する。
「では、失礼いたします」
扉へ向かう。
あと数歩というところで、背後から低い声が飛んだ。
「クラウゼン公爵の件だが」
エレノアは立ち止まる。
「家の許しなく、軽率に関わるな」
振り返らずに聞いていたが、侯爵の声には強がりが混じっていた。命令というより牽制だ。自分が完全には支配できない場所へ、娘が移るかもしれないことへの。
エレノアは扉に手をかけたまま、静かに答える。
「お父様」
「何だ」
「私は、もう軽率に誰かのために働いたりはいたしません」
それだけ言って、書斎を出た。
廊下の空気は少しひんやりしていた。
閉ざされた書斎の中より、ずっと息がしやすい。
エレノアはそのまま足を止めずに歩いた。
怒鳴られたのに、不思議と心は静かだった。痛みがないわけではない。けれどそれは、今さら改めて傷ついたというより、もう分かりきっていたものを再確認しただけの痛みに近い。
父は結局、自分を娘としてではなく、家の部品として見ていた。
壊れれば困る。失えば惜しい。だが、それ以上ではない。
「身勝手なのは、どちらかしら」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
家のために働けと言う。
妹のために助けろと言う。
娘としての義務を果たせと言う。
けれど、そのすべてに対して、父は自分が何を返せるのかを一度も考えていない。
守ることも、信じることも、名誉を支えることもせずに、ただ差し出せと求めるだけ。
ずいぶんと虫のいい話だった。
窓のそばで立ち止まり、庭を見下ろす。
夕暮れの光が、屋敷の石畳を淡く染めていた。
あの書斎にいた頃の自分なら、きっとまだ迷っていただろう。家のために何かすべきではないか。ここで断るのは冷たいのではないか。そんなふうに。
でも、もう迷わない。
父が娘を都合でしか見ないのなら、自分もまた父を“絶対の庇護者”としては見ない。
ただ、それだけのことだ。
背後から足音がした。
振り向くと、若い侍女が控えめに頭を下げる。
「お嬢様、お顔色が……」
「大丈夫よ」
「お茶をお部屋へお持ちしましょうか」
その一言に、エレノアは少しだけ目をやわらげた。
「お願いするわ」
侍女が去っていく。
エレノアはもう一度だけ庭へ目を向けた。
王宮も、侯爵家も、こうして少しずつ綻びを見せ始めている。今までならその綻びを埋めることばかり考えていた。けれど、もう違う。
綻びを隠すのは、支える側の義務ではない。
壊した側が、その責任を負うべきなのだ。
そう思うと、胸の奥にあるのは怒りよりもむしろ、冷えた明瞭さだった。
父の身勝手は、もう十分見た。
ならば次は、自分のために考える番だ。
エレノアはゆっくりと歩き出す。
自室へ戻るその足取りは、少しも揺らいでいなかった。
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