婚約破棄されたので、もう私が支えるのはやめます

ふわふわ

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第十一話 公爵の手

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第十一話 公爵の手

翌朝、エレノアは珍しく早い時間から目が覚めていた。

眠れなかったわけではない。むしろ昨夜は、父とのやり取りで心が妙に冴えたあと、かえって静かに眠れた。だが目を開いた瞬間、胸の奥にひとつの感覚が残っていた。

もう、この家の中だけで物事を考える必要はない。

その思いが、昨日よりもはっきり形を持ち始めていた。

寝台から起き上がり、窓辺へ寄る。

春の朝の光が庭に落ち、まだ露の残る芝が淡く輝いている。噴水の水音も穏やかで、遠くでは使用人たちが一日の支度を始めていた。外から見れば、侯爵家は相変わらず立派で整っているように見えるだろう。

けれど、その内側ではもうあちこちが軋んでいる。

王宮からの急な使い。父の怒声。継母の焦り。義妹の失言。
全部、以前なら水面下で消えていたものだった。

そのことを思うと、胸の奥に不思議な感覚が広がる。

罪悪感ではない。

優越感でもない。

ただ、ようやく現実が正しい場所へ戻り始めている、という静かな実感だった。

「お嬢様、失礼いたします」

侍女が朝の支度を告げに来る。

エレノアは振り返り、穏やかに応じた。

「お願いするわ」

髪を整えられながら、ぼんやりと鏡の中の自分を見る。

婚約破棄された女の顔、と言われればそう見えるのかもしれない。少しだけ頬が細くなった気もする。だが以前より弱々しく見えるかといえば、そうでもなかった。

むしろ目の奥だけは、少しずつ澄んできている。

「本日のご予定ですが……」

侍女が言いにくそうに切り出した。

「旦那様からは、とくに外出のご指示はございませんでした」

「そう」

少しだけ意外だった。

昨日あれだけ言い合ったのだから、今日もまた何かしら制限をかけてくるかと思っていた。

だが考えてみれば、父も今はそれどころではないのだろう。王宮と侯爵家の火消しで手一杯で、自分の行動まで細かく縛る余裕がない。

「それから」

侍女が続ける。

「クラウゼン公爵家より、お手紙が届いております」

エレノアは鏡越しに侍女を見た。

「今朝?」

「はい。早朝のうちに使いの方が」

封筒を受け取る。

厚みはない。上質な紙に、無駄のない封蝋。見慣れたクラウゼン家の紋章。

レオンハルトらしいと思う。

何もかもが簡潔で、飾りがない。

エレノアは静かに封を切った。

中には短い便箋が一枚。

――昨日は失礼しました。
――屋敷での依頼は、少々強引でしたね。
――もしまだ検討の余地があるなら、一度、具体的な話をしませんか。
――仕事の内容、権限、待遇、すべて明確にした上で判断していただきたい。
――午後、我が屋敷の小応接間を用意します。
――来られるなら、迎えを出しましょう。
――レオンハルト・クラウゼン

読み終えたあと、エレノアは少しだけ目を伏せた。

仕事の内容、権限、待遇、すべて明確にした上で判断していただきたい。

その一文が、やけに深く胸へ落ちる。

父は家のために働けと言った。義務だと。恩だと。娘だからと。

けれどレオンハルトは違う。

頼みたい仕事があり、内容と条件を示した上で、判断は本人に委ねると言っている。

その違いは、思っていた以上に大きかった。

「お嬢様……?」

侍女がそっと様子をうかがう。

エレノアは便箋を丁寧にたたみながら言った。

「午後、外出するわ」

侍女の目がわずかに丸くなる。

「クラウゼン公爵家へ?」

「ええ」

「旦那様には……」

「あとで伝えるわ」

自分で伝える。

以前のエレノアなら、その一言を口にするだけでも少し気が重かったかもしれない。だが今は違う。もう事後承諾のように黙って動く必要もなければ、許しを請う必要もない。

これは、自分への依頼なのだから。

朝食の席には侯爵とヴィオラがいた。

ミレイユの姿はない。昨日の失態が尾を引いているのだろう。あるいは恥ずかしさで顔を出せないのかもしれない。

食卓の空気は重かった。

侯爵は新聞代わりの報告書を広げたまま顔をしかめ、ヴィオラはほとんど味のしない顔でスープを口に運んでいる。誰も、気持ちよく朝を迎えてはいないのが見て取れた。

「おはようございます」

エレノアが席に着くと、侯爵は顔を上げた。

少しだけ眉が動く。

昨日の続きを警戒しているのだろう。

「……おはよう」

それだけ返した声は、やや掠れていた。

眠れていないのかもしれない。

エレノアは無駄な会話をするつもりはなかったが、今日の外出だけは伝える必要があると思った。

食事が少し進んだ頃合いを見て、静かに口を開く。

「本日午後、クラウゼン公爵家へ伺います」

侯爵の手が止まる。

ヴィオラも目を上げた。

「何だと」

「今朝、公爵様より書簡をいただきました。依頼の詳細を伺いに参ります」

侯爵の表情が見る間に硬くなる。

「昨日の今日で、もう行くのか」

「はい」

「断るつもりではなかったのか」

「まだ決めておりません」

エレノアは正確に答えた。

「ですが、判断するには内容を知る必要があります」

侯爵は苦々しい顔でナプキンを置いた。

「……やはり行くべきではない」

「理由を伺っても?」

「今は外からどう見られるかが重要な時期だ。婚約破棄されたばかりの娘が、すぐに格上の公爵家へ通っているなど、余計な噂になる」

エレノアは父を見た。

その“余計な噂”を恐れるのなら、そもそも卒業舞踏会で婚約破棄される前に、家としてもっと何かできたのではないだろうか。

だが、言わない。

今さら同じことを繰り返しても意味がない。

「噂になるかどうかより、私にとって必要な話かどうかのほうが重要です」

侯爵の眉が吊り上がる。

「お前は……」

「昨日、お父様はおっしゃいましたわ。好きにしろ、と」

その一言で、侯爵は口をつぐんだ。

言った。

たしかに言った。

勢いと苛立ちの中で吐き捨てた言葉だったとしても、口にしたのは本人だ。

ヴィオラが慌てて口を挟む。

「でも、それは家の立場を考えずに動いてよいという意味では――」

「では、家の立場は私の立場をどこまで考えてくださるのですか」

静かな問いだった。

ヴィオラが詰まる。

侯爵も返せない。

エレノアは続ける。

「公爵様は、仕事の内容と条件を明示した上で判断してほしいとおっしゃっています。私は、それを聞きに行くだけです」

侯爵はしばらく黙り込んだあと、低く言った。

「……一人では行くな」

「侍女を伴います」

「長居もするな」

「必要な話が終わり次第、戻ります」

「勝手な約束はするな」

その言い方に、エレノアは内心でほんの少しだけ笑いそうになった。

結局、父は許可しないとは言えないのだ。

もう以前のように、自分を頭ごなしに止めるだけでは済まないと分かっているから。

「承知しました」

素直に返すと、侯爵はかえって不満そうな顔をした。

自分でも理不尽だと気づいていないのだろう。

午後、クラウゼン公爵家から迎えの馬車が来た。

侯爵邸のそれより一回り控えめな意匠なのに、質のよさだけは隠しようがない。手入れの行き届いた漆黒の車体、無駄のない紋章、従者たちの落ち着いた動き。見せびらかす品位ではなく、当然のように備わっている格の違いがそこにはあった。

馬車に乗り込むと、エレノアは自然と背筋を伸ばしていた。

緊張しているのだと、自分で気づく。

だがそれは怯えではない。

これから何を提案されるのか、自分は何を選ぶのか。その分かれ道へ向かう緊張だった。

クラウゼン公爵邸は、王都の中でもひときわ落ち着いた区画にあった。

広大ではあるが、過剰な華美はない。門も庭も屋敷も、すべてが整然としていて、どこを見ても“見せるための贅沢”より“管理の行き届いた豊かさ”が先に立つ。

エレノアは馬車を降りた瞬間、なんとなく思った。

この家は、無駄に疲れなくて済みそうだ、と。

案内された小応接間も同じだった。

壁布は深い青緑、調度は重厚だが威圧的ではなく、窓からは手入れの行き届いた庭が見える。侯爵邸の応接間のように“家格を誇示するための圧”がないぶん、むしろ空気が澄んでいた。

「来てくださって助かります」

声とともに、レオンハルトが入ってくる。

今日は執務に近い装いらしく、濃い灰青の上着に銀の留め具だけという簡素な姿だった。だが簡素なぶん、余計にその人自身の輪郭が際立つ。

「お招きありがとうございます」

エレノアが立ち上がると、レオンハルトは一礼して向かいに座った。

「まず、昨日は失礼しました」

やはり最初にその言葉を置くのか、と少し意外に思う。

「屋敷へ直接うかがったことですか」

「ええ。あなたの置かれている状況を考えると、あの場で言葉を形にしておく必要があると判断しました。ですが、家の中で余計な圧力を生んだ可能性もある」

可能性どころではない。

実際、父も継母も相当に動揺した。

けれど、それを不快だったと感じたかと言われれば違う。

「助かりましたわ」

エレノアは正直に言った。

「少なくとも、私が何をしてきたのかを、外から見ている方がいると分かりましたから」

レオンハルトはわずかに目を細めた。

「それならよかった」

そして彼はすぐに本題へ入る。

机上に用意していた書類を開き、一枚ずつこちらへ向けた。

「我が領では今、春から初夏にかけて再編が必要な案件がいくつかあります」

項目は明快だった。

領内主要商会との契約見直し。
寄付と後援先の再整理。
夏の視察日程に合わせた受け入れ準備。
王都の有力家との関係調整。
そして、公爵家内部の事務整理。

どれも派手ではない。

だがひとつずつ見れば、どれも重い。

そしてエレノアには分かった。

これは本当に“仕事”だ。

慰めの口実でも、可哀想な令嬢を囲うための飾りでもない。ちゃんと成果を期待される、実務だ。

「権限はどこまでいただけるのですか」

エレノアがそう問うと、レオンハルトはほとんど間を置かずに答えた。

「対外文書の起案と修正、会合日程の調整、優先順位の整理、必要であれば私名義での提案書作成まで。最終決裁は私が行いますが、その前段はかなり広く任せるつもりです」

かなり広い。

しかも、それを最初からはっきり言う。

「待遇は?」

「当初は客分扱いに近い形で。ですが実務量に応じた報酬は出します。期間はひとまず一か月。合わないと判断されたなら、その時点で終えてくださって構いません」

一か月。

短すぎず、長すぎない。

様子を見るにはちょうどいい期間だ。

「働く場所は、この屋敷の中ですか」

「基本はここです。必要に応じて私の執務室隣の補助室を使ってください。王宮との折衝が必要なものは、まず私を通します」

それを聞いて、エレノアは内心で少しだけ驚いた。

かなり守られている。

つまりレオンハルトは、自分を前面に立たせて王宮の矢面へ放るつもりはないのだ。必要な実務は任せるが、余計な火の粉はまず自分で受けると言っているに等しい。

「……慎重ですのね」

思わずそう言うと、レオンハルトはごく自然に返した。

「あなたには、すでに余計な火の粉が十分降ったでしょう」

その一言が、また胸の奥に触れる。

この人は、本当に妙なところで容赦がない。

優しい言葉を選ぶわけではないのに、必要な場所だけ正確に押さえてくる。

エレノアは書類へ視線を落としたまま、ゆっくり尋ねた。

「公爵様は、私をどこまで信用なさっているのですか」

レオンハルトは少しだけ黙った。

軽い質問ではないと分かったのだろう。

「全部とは言いません」

やがて彼はそう答えた。

「それはあなたにも失礼でしょう。まだ知り合って日が浅い」

「では?」

「ただ、少なくとも私は、あなたが“誰かの手柄を横取りして飾る人ではない”と知っています」

エレノアは顔を上げた。

レオンハルトは続ける。

「そして、“場を整えるために自分の功を消せる人”だとも」

その評価は、思っていた以上に重かった。

誰にも見えていないと思っていた部分を、正確に見抜いているからだ。

「だからこそ、今度は消えない形で働いていただきたい」

その言葉を聞いた瞬間、エレノアの呼吸が少しだけ浅くなった。

消えない形。

今までしてきたことは、ほとんどが消える仕事だった。誰かの失態をなかったことにし、自分の働きは痕跡を残さず、最後には“何も起きなかった”ように終わる。

だがここでは違う。

見えないところで整える仕事でも、その責任と成果は消さないと言っている。

それがどれほど大きい意味を持つか、エレノア自身が一番よく分かっていた。

しばらく沈黙が落ちた。

けれど気まずくはない。

エレノアは一つずつ書類を見ながら、ゆっくりと思考を巡らせた。

やるべきか、やらないべきか。

父の言う“家の立場”ではなく、自分の立場で考える。

そうしたとき、答えは案外明確だった。

「一つだけ、確認してもよろしいですか」

「もちろん」

「私がこの仕事を受けた場合、侯爵家の意向より、仕事上の判断を優先できますか」

レオンハルトの目が少し鋭くなる。

重要な問いだと理解したのだろう。

「できます」

はっきりと言った。

「少なくとも、私のもとで働くあいだは、あなたは侯爵家の“便利な窓口”ではなく、私の補佐です」

エレノアはその返答を聞いて、すっと背中の力が抜けるのを感じた。

それで十分だった。

「……お受けします」

言葉にすると、驚くほど自然だった。

レオンハルトは一瞬だけこちらを見つめ、それから静かに頷いた。

「ありがとうございます」

大げさな喜び方はしない。

だが、その短い返答の中に確かな重みがあった。

「一か月、試す形で」

エレノアが念を押すと、レオンハルトは頷く。

「ええ。一か月。そこで続けるかどうかは、あなたが決めてください」

そのあと、具体的な日程や必要な書類の話に入った。

明日から来るか、それとも明後日からにするか。
どの資料を先に見るか。
対外文書はどの書式を基本にするか。
補助室には何を揃えるか。

話しているうちに、エレノアは妙な感覚に気づいた。

楽なのだ。

気を張る必要がほとんどない。

相手が先回りして変な機嫌を起こさないか、どこで不用意な約束をされるか、どの言葉を削れば角が立たないか――そうした余計な計算がいらない。

ただ、仕事の話をしていれば進む。

それがどれほど珍しいことか、今までの自分の環境を思えば笑ってしまいそうになる。

一通り話が終わった頃、レオンハルトがふと視線をやわらげた。

「少し顔色が違いますね」

「そうですか?」

「初めて図書館で会ったときより、いくぶん呼吸がしやすそうだ」

その言い方に、エレノアは少しだけ笑う。

「公爵様は、よくそういうところをご覧になりますのね」

「必要なところだけです」

「便利な目をお持ちですこと」

「ええ。おかげで助かっています」

何気ないやり取りなのに、不思議と胸の奥が温まる。

この人の前では、自分は“王太子に捨てられた令嬢”ではなく、仕事を引き受ける一人の人間として存在している。だからこそ、こんな他愛のない会話さえ心地いいのかもしれない。

帰り際、玄関まで見送りに出たレオンハルトは、馬車へ乗り込む前に一言だけ言った。

「明日、補助室を整えておきます」

「ありがとうございます」

「必要なものがあれば遠慮なく言ってください」

エレノアは小さく頷いた。

「では、明日からよろしくお願いいたします」

その言葉に、レオンハルトはほんのわずかに目元を和らげた。

「こちらこそ」

馬車が動き出す。

窓の外で、公爵邸の門がゆっくり遠ざかっていく。

エレノアは背もたれに身を預け、そっと息を吐いた。

決めた。

もう、決めたのだ。

父のためではなく。
侯爵家のためでもなく。
王太子の失態を隠すためでもなく。

自分の価値を、自分で使うために。

公爵の手は、救いというより道だった。

無理やり引っ張り上げるのではなく、ここに来るかと示され、その先を自分で選ばせる手。

その手を、エレノアは今日、自分の意思で取ったのだ。

馬車の窓に映る自分の顔は、少しだけ晴れて見えた。

ようやく、自分の人生が動き出す。

そんな予感が、静かに胸の中で形になっていた。
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