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第十二話 新しい居場所
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第十二話 新しい居場所
翌朝、エレノアはいつもより少しだけ早く目を覚ました。
緊張していたのだと思う。
眠れなかったわけではない。むしろ久しぶりに、先の見えない不安ではなく、明日やるべきことがある人間の眠りだった。けれど、目を開いた瞬間から胸の内に小さな張りがあった。
今日から、自分はクラウゼン公爵家で働く。
それはまだ仮の形で、期間もひと月と定められている。けれど、それでも十分に大きな変化だった。王太子の婚約者としての役目ではなく、侯爵家の娘としての義務でもなく、誰かが勝手に押しつけた立場でもない。
自分で選んだ仕事だ。
その事実が、思っていた以上に重く、そして心地よかった。
窓辺へ寄ると、朝の庭は薄い光に包まれていた。露を残した芝、目覚めたばかりのような木々、遠くで静かに働く使用人たち。フェルベルク侯爵邸の朝は相変わらず整っているように見える。けれどその整いが、今ではどこか表面だけのものに思えた。
この家で自分はずっと、決められた役割をこなしてきた。
王太子妃候補として。
侯爵家の嫡女として。
義妹を立てる姉として。
そして気づけば、王宮と屋敷のあちこちで火を消し続ける、名もない調整役として。
だが今日からは少し違う。
「お嬢様、お目覚めでございますか」
侍女が控えめに入ってくる。
「ええ。お願いするわ」
「本日はクラウゼン公爵家へお出ましとのことでしたので、動きやすい装いをいくつかご用意しております」
その言い方に、エレノアは少しだけ目をやわらげた。
“動きやすい装い”。
王宮の茶会や舞踏会に出るときなら、まず言われない言葉だ。あの頃は見栄えが優先だった。華やかで、欠点がなく、未来の王太子妃としてふさわしく見えること。けれど今日は違う。
仕事をするための服。
それだけのことなのに、妙に新鮮だった。
選んだのは、深い青緑のドレスだった。装飾は控えめで、袖も動きやすい。侯爵家の娘として見苦しくない程度の品位は保ちつつ、机に向かっても肩が凝らないもの。
鏡の前に立つと、そこに映る自分は少しだけ以前と違って見えた。
着飾るためではなく、働くための支度をした顔だ。
「……悪くないわね」
思わずこぼれた言葉に、侍女が嬉しそうに微笑んだ。
朝食の席で侯爵と顔を合わせたが、会話は最低限だった。
侯爵は昨夜よりも疲れて見えたし、エレノアも余計な話をするつもりはなかった。ヴィオラは落ち着かない様子で視線を泳がせていたが、何か言う前に侯爵の顔色をうかがい、結局何も口にしなかった。
ミレイユは今日も来ていなかった。
王宮での失態がよほど堪えているのだろう。あるいは、今の食卓に顔を出しても自分が慰められる側にはなれないと、ようやく気づいたのかもしれない。
「本日は、何時頃戻る」
食事の終わり際、侯爵がぶっきらぼうに訊いた。
「夕刻前には」
「……そうか」
それだけだった。
止めないのは、もう止めても無駄だと分かっているからだろう。そして本音を言えば、今の侯爵にとっても、エレノアが公爵家で働くことで何かしらの余地が生まれるなら、その価値を完全には捨てきれないのだ。
身勝手な話だ、とエレノアは思う。
だが、もういちいち腹は立たない。
クラウゼン公爵家の馬車は、昨日と同じように静かに侯爵邸へ着いた。
今日の空は高く晴れていた。王都の街路も穏やかで、窓の外を流れる景色は春の明るさを帯びている。馬車の中で、エレノアは膝の上の手をそっと重ねた。
少し緊張している。
けれど逃げたいわけではない。むしろ、早くその場所に着いて、何をするのかを確かめたかった。
クラウゼン公爵邸へ着くと、昨日と同じ従者が出迎えた。
「お待ちしておりました、エレノア様」
「本日よりお世話になります」
「こちらへ」
案内される廊下は静かで、広いのに落ち着いていた。
この屋敷の不思議なところは、家格に見合う規模があるのに、どこを歩いても“誇示”の匂いがしないところだ。壁の絵も、敷物も、調度も上質だが、それをわざわざ見せつける意図が薄い。必要なものが、必要なだけ、きちんと整っている。
管理する側の神経が行き届いている家なのだと分かる。
やがて従者が一つの扉の前で立ち止まった。
「こちらが、今後お使いいただく補助室にございます」
扉が開く。
エレノアは思わず、ほんの少しだけ足を止めた。
部屋は決して広すぎない。だが狭いわけでもない。執務机が一つ、壁際に資料棚、窓際には小さな丸机と椅子。記録用の帳簿、筆記具、封蝋、予備の紙束まできちんと揃えられていた。しかもただ置いてあるのではなく、使う順に手が届く位置へ収められている。
机の高さも椅子の座面も、自分に合うよう微調整されていた。
昨日のうちに測ったわけではないだろうに、よくここまで整えたものだと思う。
窓からは中庭が見えた。光は十分に入るが、眩しすぎない向きだ。長時間机に向かっても疲れにくそうだった。
「……ここを、私に?」
思わず口に出る。
従者は静かに一礼した。
「旦那様のご指示でございます。不足がございましたら、何なりとお申しつけください」
その言葉の直後、隣の扉が開いた。
「気に入りましたか」
レオンハルトだった。
今日も簡素な執務姿で、書類を片手に立っている。昨日と変わらぬ無駄のない佇まいだが、なぜか今日は少しだけ空気がやわらかい気がした。
「……驚きました」
エレノアが正直に言うと、レオンハルトは部屋の中をひと通り見渡した。
「机の高さは問題ありませんか」
「え?」
「合わないと肩が凝るでしょう」
あまりに当然のように言うものだから、エレノアは一瞬言葉に詰まった。
そんなことを、最初に確認されたことはなかった。
今までなら、机は与えられるものだった。高さが合うか、座りやすいか、長く使って疲れないか、そういうことは“使う側が慣れるべきこと”として処理されてきた。
けれどこの人は違う。
働く前提で部屋を整え、そのうえで“使えるか”を確認する。
細かいようでいて、それは働く相手をきちんと人として扱う態度だった。
「大丈夫です」
エレノアはゆっくり答えた。
「……ありがとうございます」
レオンハルトは軽く頷く。
「では、まず今日の分を」
彼は机へ数冊の帳簿と書類束を置いた。
「後援先の整理案が三つ。領内商会との契約見直しが二件。王都の有力家への返書候補が四通。優先順位を見てほしい」
それだけ聞けばかなりの量だ。
だがエレノアは書類の端をめくっただけで、すぐに構造を理解した。全部を“今すぐやれ”という意味ではない。まず全体を見て、何から手をつけるべきか、どこに危険があるかを見極めるための束だ。
試されているのだろう。
けれど嫌な試し方ではない。
「今日中に大まかな仕分けまででよろしいですか」
「十分です」
「では、まず後援先から」
レオンハルトの眉がわずかに動く。
「理由を聞いても?」
「契約見直しは、先方もある程度現実を見て話します。返書も、よほど相手を怒らせる文面でない限り一日では大きくは動きません。でも後援先の整理は違います」
エレノアは書類を見ながら言った。
「金額そのものではなく、姿勢として見られる場合がある。削る順番を誤ると、思っている以上に尾を引きます」
レオンハルトは数秒沈黙し、それからごく薄く笑った。
「やはり、来てもらって正解でした」
その言い方はさらりとしていたが、妙に胸に残った。
まだ何かを成し遂げたわけではない。
それでも、“正解だった”と言われるだけで、今までとは違う場所に来たのだと実感する。
仕事はすぐに始まった。
エレノアは椅子に腰を下ろし、後援先の一覧をひとつずつ見ていく。表向きの寄付額だけでなく、その裏にある人脈、歴史、影響範囲。どの家がどこを重んじ、どこを軽んじられると不快に思うか。数字だけでは読めないものを拾いながら、頭の中で線を引き直していく。
しばらくすると、レオンハルトが隣室へ戻った。
完全に目を離したわけではないだろうが、ずっと立って見張ることはしない。それもまた、気が楽だった。
静かな室内で、紙をめくる音と筆の走る音だけが続く。
不思議なほど、集中できた。
誰かの機嫌を先回りしてうかがう必要がない。
無茶な失言が飛んでこない。
無意味な命令で流れが止まらない。
やるべき仕事が目の前にあって、それをどう処理するかだけを考えればいい。
こんなにも楽だったのか、とエレノアは何度も思った。
昼前、レオンハルトが一度部屋へ戻ってくる。
「進み具合は」
「後援先の優先度は出ました」
エレノアは紙を差し出した。
「この三つは削らないほうがいいです。金額が小さくても、長く続いていることで意味を持っているので。逆にこちらは額は大きいですが、今年少し調整しても角は立ちにくいかと」
レオンハルトはその場で目を通した。
途中、二度ほど短い質問が入り、エレノアが答える。
やり取りは驚くほど無駄がなかった。
「……なるほど」
最後まで読んで、レオンハルトが言う。
「私なら、この大きい後援先をそのまま残すほうを選んでいました」
「多くの方がそうなさると思います」
「ですが、長く細い関係のほうが、切ったときに冷たく見える?」
「はい。しかも、そういうところほど表立って騒ぎません。ただ記憶に残します」
レオンハルトは紙を置いた。
「厄介ですね」
「ええ。とても」
そこでふっと視線が合う。
次の瞬間、二人とも少しだけ笑っていた。
たったそれだけのことなのに、室内の空気が少しだけやわらぐ。
「昼食のあと、契約見直しに入ってください」
「承知しました」
「休憩は取ってください。初日から倒れられても困る」
その言い方があまりに自然で、エレノアはまた少しだけ驚いた。
今までなら、“倒れないように自分で調整する”のが当然だった。無理をしても気づかれないか、気づかれても“そのくらい当然”と流されることが多かった。
けれどレオンハルトは、最初からそこを前提に組み込んでいる。
気遣いというより、仕事を続けるうえで当然の管理として。
それが余計に心地よかった。
昼食は補助室の隣の小部屋で用意された。
華美ではないが、温かく食べやすいものばかりだった。量もちょうどいい。働く人間に合わせた食事なのだと分かる。
食後、エレノアは窓辺で少しだけ息をついた。
外では中庭の木々が風に揺れている。鳥の声も聞こえる。
そしてふと思う。
ここでは、誰も自分を“婚約破棄された哀れな令嬢”として扱わないのだ。
慰めも、同情も、遠慮もない。
代わりにあるのは、机と書類と、判断を求められる仕事。
それがこんなにも安心できるとは、昨日まで知らなかった。
午後の仕事も順調に進んだ。
領内商会との契約見直しでは、書面の文言が穏やかすぎて相手に押し返される可能性がある箇所を見つけ、返書候補では一見無難に見えて実は主導権を失う語尾を直した。
夕方前、レオンハルトが再び補助室へ来たときには、机の上に仕分け済みの束が三つ並んでいた。
「思っていたより早い」
「今日は量を見ていただくための束でしたから」
「それでも早いです」
そう言って、彼は机の端へ視線をやった。
「もうその机に馴染んでいる」
エレノアは思わず自分の手元を見た。
たしかにそうだった。
朝ここへ入ったときの張りつめた感じが、もうかなり薄れている。机に向かう姿勢も、紙の置き方も、補助室の空気に自然となじんでいた。
「……そうかもしれません」
「よかった」
それだけ。
たったそれだけなのに、妙に心へ残る。
やがて帰りの時刻になった。
初日だからと、レオンハルトはそれ以上無理に引き留めなかった。必要な連絡だけ交わし、明日の予定を簡単に決める。
「明日は午前から、商会二件の比較をお願いします」
「承知しました」
「疲れましたか」
その問いに、エレノアは少し考えた。
疲れていないわけではない。久しぶりに頭をかなり使ったし、新しい場所で気も張った。
けれど、今まで知っていた疲れ方とは違う。
「心地よい疲れです」
正直に答えると、レオンハルトは静かに頷いた。
「なら安心しました」
帰りの馬車の中で、エレノアは窓に映る自分を見た。
頬に少しだけ色が差している。目元も、ここ数日で一番やわらかい。
初めてだった。
働いたあとで、こんなふうに“自分のしたことがそのまま積み上がっている”感覚を持つのは。
今までは、どれだけ整えても痕跡が消えた。誰かの失敗がなかったことになり、誰かの機嫌が直り、誰かの立場が守られ、その結果、自分の仕事だけが見えなくなる。
でも今日は違う。
机の上に自分の仕分けた書類があり、直した文面があり、判断を求められた結果がそのまま残っている。
消えない仕事だ。
それが、こんなにも嬉しい。
侯爵邸へ戻ると、玄関ホールの空気は相変わらず少し重かった。だがエレノアはもう、それに引きずられなかった。
執事が出迎える。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま戻りました」
「いかがでしたか」
ほんの少し、声を落として訊かれる。
エレノアは答えた。
「……働きやすい場所でした」
執事の目元が、わずかにやわらぐ。
「それは何よりでございます」
自室へ戻ると、夕方の光が部屋へ差し込んでいた。
エレノアは椅子へ腰を下ろし、静かに目を閉じる。
新しい居場所。
そんな言葉が、胸の中に浮かぶ。
まだ完全に自分のものになったわけではない。
期間も区切られている。
この先どうなるかも分からない。
けれど少なくとも今日、自分はそこにいてよかったと思えた。
誰かの婚約者としてではなく。
誰かの都合のいい娘としてでもなく。
自分の判断と力を必要とされる一人の人間として。
それだけで十分だった。
エレノアはそっと目を開ける。
窓の外では、暮れゆく空がやわらかく色を変えていた。
あの舞踏会の夜、静かに退場したときには想像もしていなかった。こんなふうに、自分の足で別の場所へ立ち、自分の手で役割を選び取る日が、こんなにも早く来るなんて。
唇の端が、自然と少しだけ上がる。
ここが、新しい居場所になるのかもしれない。
そう思えたことが、何より嬉しかった。
翌朝、エレノアはいつもより少しだけ早く目を覚ました。
緊張していたのだと思う。
眠れなかったわけではない。むしろ久しぶりに、先の見えない不安ではなく、明日やるべきことがある人間の眠りだった。けれど、目を開いた瞬間から胸の内に小さな張りがあった。
今日から、自分はクラウゼン公爵家で働く。
それはまだ仮の形で、期間もひと月と定められている。けれど、それでも十分に大きな変化だった。王太子の婚約者としての役目ではなく、侯爵家の娘としての義務でもなく、誰かが勝手に押しつけた立場でもない。
自分で選んだ仕事だ。
その事実が、思っていた以上に重く、そして心地よかった。
窓辺へ寄ると、朝の庭は薄い光に包まれていた。露を残した芝、目覚めたばかりのような木々、遠くで静かに働く使用人たち。フェルベルク侯爵邸の朝は相変わらず整っているように見える。けれどその整いが、今ではどこか表面だけのものに思えた。
この家で自分はずっと、決められた役割をこなしてきた。
王太子妃候補として。
侯爵家の嫡女として。
義妹を立てる姉として。
そして気づけば、王宮と屋敷のあちこちで火を消し続ける、名もない調整役として。
だが今日からは少し違う。
「お嬢様、お目覚めでございますか」
侍女が控えめに入ってくる。
「ええ。お願いするわ」
「本日はクラウゼン公爵家へお出ましとのことでしたので、動きやすい装いをいくつかご用意しております」
その言い方に、エレノアは少しだけ目をやわらげた。
“動きやすい装い”。
王宮の茶会や舞踏会に出るときなら、まず言われない言葉だ。あの頃は見栄えが優先だった。華やかで、欠点がなく、未来の王太子妃としてふさわしく見えること。けれど今日は違う。
仕事をするための服。
それだけのことなのに、妙に新鮮だった。
選んだのは、深い青緑のドレスだった。装飾は控えめで、袖も動きやすい。侯爵家の娘として見苦しくない程度の品位は保ちつつ、机に向かっても肩が凝らないもの。
鏡の前に立つと、そこに映る自分は少しだけ以前と違って見えた。
着飾るためではなく、働くための支度をした顔だ。
「……悪くないわね」
思わずこぼれた言葉に、侍女が嬉しそうに微笑んだ。
朝食の席で侯爵と顔を合わせたが、会話は最低限だった。
侯爵は昨夜よりも疲れて見えたし、エレノアも余計な話をするつもりはなかった。ヴィオラは落ち着かない様子で視線を泳がせていたが、何か言う前に侯爵の顔色をうかがい、結局何も口にしなかった。
ミレイユは今日も来ていなかった。
王宮での失態がよほど堪えているのだろう。あるいは、今の食卓に顔を出しても自分が慰められる側にはなれないと、ようやく気づいたのかもしれない。
「本日は、何時頃戻る」
食事の終わり際、侯爵がぶっきらぼうに訊いた。
「夕刻前には」
「……そうか」
それだけだった。
止めないのは、もう止めても無駄だと分かっているからだろう。そして本音を言えば、今の侯爵にとっても、エレノアが公爵家で働くことで何かしらの余地が生まれるなら、その価値を完全には捨てきれないのだ。
身勝手な話だ、とエレノアは思う。
だが、もういちいち腹は立たない。
クラウゼン公爵家の馬車は、昨日と同じように静かに侯爵邸へ着いた。
今日の空は高く晴れていた。王都の街路も穏やかで、窓の外を流れる景色は春の明るさを帯びている。馬車の中で、エレノアは膝の上の手をそっと重ねた。
少し緊張している。
けれど逃げたいわけではない。むしろ、早くその場所に着いて、何をするのかを確かめたかった。
クラウゼン公爵邸へ着くと、昨日と同じ従者が出迎えた。
「お待ちしておりました、エレノア様」
「本日よりお世話になります」
「こちらへ」
案内される廊下は静かで、広いのに落ち着いていた。
この屋敷の不思議なところは、家格に見合う規模があるのに、どこを歩いても“誇示”の匂いがしないところだ。壁の絵も、敷物も、調度も上質だが、それをわざわざ見せつける意図が薄い。必要なものが、必要なだけ、きちんと整っている。
管理する側の神経が行き届いている家なのだと分かる。
やがて従者が一つの扉の前で立ち止まった。
「こちらが、今後お使いいただく補助室にございます」
扉が開く。
エレノアは思わず、ほんの少しだけ足を止めた。
部屋は決して広すぎない。だが狭いわけでもない。執務机が一つ、壁際に資料棚、窓際には小さな丸机と椅子。記録用の帳簿、筆記具、封蝋、予備の紙束まできちんと揃えられていた。しかもただ置いてあるのではなく、使う順に手が届く位置へ収められている。
机の高さも椅子の座面も、自分に合うよう微調整されていた。
昨日のうちに測ったわけではないだろうに、よくここまで整えたものだと思う。
窓からは中庭が見えた。光は十分に入るが、眩しすぎない向きだ。長時間机に向かっても疲れにくそうだった。
「……ここを、私に?」
思わず口に出る。
従者は静かに一礼した。
「旦那様のご指示でございます。不足がございましたら、何なりとお申しつけください」
その言葉の直後、隣の扉が開いた。
「気に入りましたか」
レオンハルトだった。
今日も簡素な執務姿で、書類を片手に立っている。昨日と変わらぬ無駄のない佇まいだが、なぜか今日は少しだけ空気がやわらかい気がした。
「……驚きました」
エレノアが正直に言うと、レオンハルトは部屋の中をひと通り見渡した。
「机の高さは問題ありませんか」
「え?」
「合わないと肩が凝るでしょう」
あまりに当然のように言うものだから、エレノアは一瞬言葉に詰まった。
そんなことを、最初に確認されたことはなかった。
今までなら、机は与えられるものだった。高さが合うか、座りやすいか、長く使って疲れないか、そういうことは“使う側が慣れるべきこと”として処理されてきた。
けれどこの人は違う。
働く前提で部屋を整え、そのうえで“使えるか”を確認する。
細かいようでいて、それは働く相手をきちんと人として扱う態度だった。
「大丈夫です」
エレノアはゆっくり答えた。
「……ありがとうございます」
レオンハルトは軽く頷く。
「では、まず今日の分を」
彼は机へ数冊の帳簿と書類束を置いた。
「後援先の整理案が三つ。領内商会との契約見直しが二件。王都の有力家への返書候補が四通。優先順位を見てほしい」
それだけ聞けばかなりの量だ。
だがエレノアは書類の端をめくっただけで、すぐに構造を理解した。全部を“今すぐやれ”という意味ではない。まず全体を見て、何から手をつけるべきか、どこに危険があるかを見極めるための束だ。
試されているのだろう。
けれど嫌な試し方ではない。
「今日中に大まかな仕分けまででよろしいですか」
「十分です」
「では、まず後援先から」
レオンハルトの眉がわずかに動く。
「理由を聞いても?」
「契約見直しは、先方もある程度現実を見て話します。返書も、よほど相手を怒らせる文面でない限り一日では大きくは動きません。でも後援先の整理は違います」
エレノアは書類を見ながら言った。
「金額そのものではなく、姿勢として見られる場合がある。削る順番を誤ると、思っている以上に尾を引きます」
レオンハルトは数秒沈黙し、それからごく薄く笑った。
「やはり、来てもらって正解でした」
その言い方はさらりとしていたが、妙に胸に残った。
まだ何かを成し遂げたわけではない。
それでも、“正解だった”と言われるだけで、今までとは違う場所に来たのだと実感する。
仕事はすぐに始まった。
エレノアは椅子に腰を下ろし、後援先の一覧をひとつずつ見ていく。表向きの寄付額だけでなく、その裏にある人脈、歴史、影響範囲。どの家がどこを重んじ、どこを軽んじられると不快に思うか。数字だけでは読めないものを拾いながら、頭の中で線を引き直していく。
しばらくすると、レオンハルトが隣室へ戻った。
完全に目を離したわけではないだろうが、ずっと立って見張ることはしない。それもまた、気が楽だった。
静かな室内で、紙をめくる音と筆の走る音だけが続く。
不思議なほど、集中できた。
誰かの機嫌を先回りしてうかがう必要がない。
無茶な失言が飛んでこない。
無意味な命令で流れが止まらない。
やるべき仕事が目の前にあって、それをどう処理するかだけを考えればいい。
こんなにも楽だったのか、とエレノアは何度も思った。
昼前、レオンハルトが一度部屋へ戻ってくる。
「進み具合は」
「後援先の優先度は出ました」
エレノアは紙を差し出した。
「この三つは削らないほうがいいです。金額が小さくても、長く続いていることで意味を持っているので。逆にこちらは額は大きいですが、今年少し調整しても角は立ちにくいかと」
レオンハルトはその場で目を通した。
途中、二度ほど短い質問が入り、エレノアが答える。
やり取りは驚くほど無駄がなかった。
「……なるほど」
最後まで読んで、レオンハルトが言う。
「私なら、この大きい後援先をそのまま残すほうを選んでいました」
「多くの方がそうなさると思います」
「ですが、長く細い関係のほうが、切ったときに冷たく見える?」
「はい。しかも、そういうところほど表立って騒ぎません。ただ記憶に残します」
レオンハルトは紙を置いた。
「厄介ですね」
「ええ。とても」
そこでふっと視線が合う。
次の瞬間、二人とも少しだけ笑っていた。
たったそれだけのことなのに、室内の空気が少しだけやわらぐ。
「昼食のあと、契約見直しに入ってください」
「承知しました」
「休憩は取ってください。初日から倒れられても困る」
その言い方があまりに自然で、エレノアはまた少しだけ驚いた。
今までなら、“倒れないように自分で調整する”のが当然だった。無理をしても気づかれないか、気づかれても“そのくらい当然”と流されることが多かった。
けれどレオンハルトは、最初からそこを前提に組み込んでいる。
気遣いというより、仕事を続けるうえで当然の管理として。
それが余計に心地よかった。
昼食は補助室の隣の小部屋で用意された。
華美ではないが、温かく食べやすいものばかりだった。量もちょうどいい。働く人間に合わせた食事なのだと分かる。
食後、エレノアは窓辺で少しだけ息をついた。
外では中庭の木々が風に揺れている。鳥の声も聞こえる。
そしてふと思う。
ここでは、誰も自分を“婚約破棄された哀れな令嬢”として扱わないのだ。
慰めも、同情も、遠慮もない。
代わりにあるのは、机と書類と、判断を求められる仕事。
それがこんなにも安心できるとは、昨日まで知らなかった。
午後の仕事も順調に進んだ。
領内商会との契約見直しでは、書面の文言が穏やかすぎて相手に押し返される可能性がある箇所を見つけ、返書候補では一見無難に見えて実は主導権を失う語尾を直した。
夕方前、レオンハルトが再び補助室へ来たときには、机の上に仕分け済みの束が三つ並んでいた。
「思っていたより早い」
「今日は量を見ていただくための束でしたから」
「それでも早いです」
そう言って、彼は机の端へ視線をやった。
「もうその机に馴染んでいる」
エレノアは思わず自分の手元を見た。
たしかにそうだった。
朝ここへ入ったときの張りつめた感じが、もうかなり薄れている。机に向かう姿勢も、紙の置き方も、補助室の空気に自然となじんでいた。
「……そうかもしれません」
「よかった」
それだけ。
たったそれだけなのに、妙に心へ残る。
やがて帰りの時刻になった。
初日だからと、レオンハルトはそれ以上無理に引き留めなかった。必要な連絡だけ交わし、明日の予定を簡単に決める。
「明日は午前から、商会二件の比較をお願いします」
「承知しました」
「疲れましたか」
その問いに、エレノアは少し考えた。
疲れていないわけではない。久しぶりに頭をかなり使ったし、新しい場所で気も張った。
けれど、今まで知っていた疲れ方とは違う。
「心地よい疲れです」
正直に答えると、レオンハルトは静かに頷いた。
「なら安心しました」
帰りの馬車の中で、エレノアは窓に映る自分を見た。
頬に少しだけ色が差している。目元も、ここ数日で一番やわらかい。
初めてだった。
働いたあとで、こんなふうに“自分のしたことがそのまま積み上がっている”感覚を持つのは。
今までは、どれだけ整えても痕跡が消えた。誰かの失敗がなかったことになり、誰かの機嫌が直り、誰かの立場が守られ、その結果、自分の仕事だけが見えなくなる。
でも今日は違う。
机の上に自分の仕分けた書類があり、直した文面があり、判断を求められた結果がそのまま残っている。
消えない仕事だ。
それが、こんなにも嬉しい。
侯爵邸へ戻ると、玄関ホールの空気は相変わらず少し重かった。だがエレノアはもう、それに引きずられなかった。
執事が出迎える。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま戻りました」
「いかがでしたか」
ほんの少し、声を落として訊かれる。
エレノアは答えた。
「……働きやすい場所でした」
執事の目元が、わずかにやわらぐ。
「それは何よりでございます」
自室へ戻ると、夕方の光が部屋へ差し込んでいた。
エレノアは椅子へ腰を下ろし、静かに目を閉じる。
新しい居場所。
そんな言葉が、胸の中に浮かぶ。
まだ完全に自分のものになったわけではない。
期間も区切られている。
この先どうなるかも分からない。
けれど少なくとも今日、自分はそこにいてよかったと思えた。
誰かの婚約者としてではなく。
誰かの都合のいい娘としてでもなく。
自分の判断と力を必要とされる一人の人間として。
それだけで十分だった。
エレノアはそっと目を開ける。
窓の外では、暮れゆく空がやわらかく色を変えていた。
あの舞踏会の夜、静かに退場したときには想像もしていなかった。こんなふうに、自分の足で別の場所へ立ち、自分の手で役割を選び取る日が、こんなにも早く来るなんて。
唇の端が、自然と少しだけ上がる。
ここが、新しい居場所になるのかもしれない。
そう思えたことが、何より嬉しかった。
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