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第十三話 有能な令嬢
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第十三話 有能な令嬢
クラウゼン公爵家で働き始めて三日目の朝、エレノアは補助室の机に向かいながら、自分でも不思議な感覚を覚えていた。
もう、この部屋に入るときに余計な緊張をしなくなっている。
最初の日は、机の高さや棚の並びまで気になった。自分がここにいていいのか、どこまで手を伸ばしていいのか、どの程度の言葉で返すべきなのか、そんなことをひとつひとつ確認するように過ごしていた。
だが今は違う。
扉を開ければ、机の上には今日の仕事が置かれている。
棚には昨日までに整理した資料が並んでいる。
隣室からは、レオンハルトが誰かと短く要点だけを交わす声が聞こえてくる。
その流れの中に、自分の居場所がある。
まだ“完全に馴染んだ”とまでは言えない。けれど少なくとも、侯爵邸にいた頃のように、呼吸するだけで神経をすり減らす場所ではなかった。
「おはようございます」
声をかけると、補助室へ入ってきた従者が一礼した。
「おはようございます、エレノア様。本日はこちらを」
差し出された書類束は、領内主要商会の再編案だった。
上段には公爵家と長く取引している老舗商会。中段には近年伸びてきた新興商会。下段には、表向きは問題なく見えるが、数字の流れが少し不自然な帳簿写し。
エレノアはざっと目を通しただけで、今日の仕事が軽くないと悟った。
「旦那様は?」
「先ほど北門側の倉庫視察へ。昼前にはお戻りの予定です」
「分かりました」
従者が下がると、エレノアはすぐに最上段の資料から手をつけた。
クラウゼン公爵家の取引は、表面だけ見ればかなり堅実だった。無駄な冒険が少なく、長く続く商会を大事にしている。その一方で、安定に寄りすぎると変化に鈍くなる危険もある。今まさにレオンハルトが進めている再編は、その鈍りを削るためのものなのだろう。
それ自体は正しい。
問題は、削る順番と、残す相手への見せ方だ。
エレノアは帳簿に目を走らせながら、小さく眉を寄せた。
「……やっぱり」
一見すると、新興商会のほうが数字はいい。
納入量も利益率も悪くないし、契約を切り替えれば表面上の数字はもっと見栄えする。けれど、老舗商会のほうには別の価値があった。
倉庫番との連携。
冬場の遅延の少なさ。
地方支店との融通。
そして何より、いざというときに“義理で動く”余地。
数字の外にある信用だ。
エレノアは羽ペンを取り、別紙に書き出していく。
老舗三商会は維持。
ただし、一社だけ契約内容の見直しを。
新興は一社採用、一社保留。
残る一社は表向きの数字に対して裏の支払いが不自然――。
そこまで書いて、彼女の指が止まった。
不自然。
もう一度、帳簿を見返す。
新興商会の一つ、ローデン商会。納入額の伸び方に対して、王都内の倉庫使用料が妙に低い。しかも輸送費の揺れ幅が大きいのに、納入遅延の報告がほとんどない。数字だけなら優秀だが、優秀すぎる。
「報告が上がっていないだけ……?」
エレノアは独り言ち、資料棚から昨年分の関連書類を引き抜いた。
読み比べるうちに、違和感はますます強くなる。記録上は順調。だがその順調さが、かえって作られたもののように見えた。
そこで扉の向こうから、落ち着いた足音が近づいてきた。
「何か見つかりましたか」
レオンハルトだった。
外套を脱ぎ、視察から戻ったばかりらしい。だが疲れを表に出す様子もなく、そのまま補助室へ入ってくる。
「倉庫視察はもう?」
「ええ。思ったより早く終わりました」
彼は机の向かいに立ち、エレノアの手元を見る。
「その顔は、面倒なものを見つけた顔ですね」
あまりに自然に言われて、エレノアは少しだけ目を瞬いた。
「そんな顔をしていましたか」
「していました」
即答だった。
「眉の寄り方が、昨日より深い」
その観察の細かさに、エレノアはほんの少しだけ笑う。
「便利な目をお持ちですこと」
「今朝も言われるとは思いませんでした」
レオンハルトの返しが少しだけ乾いていて、エレノアはまた笑いそうになる。
だがすぐに気持ちを切り替え、机上の資料を示した。
「ローデン商会です」
「新興の?」
「はい。一見、数字は優秀です。けれど優秀すぎます」
レオンハルトは何も言わず、エレノアが差し出した帳簿へ目を落とした。
エレノアは続ける。
「倉庫使用料が不自然に低いのに、納入遅延が少なすぎるんです。それに輸送費の上下が大きいわりに、実際の損耗報告もほとんどない。帳簿だけ見ると完璧ですが、完璧すぎて逆に現実味がありません」
レオンハルトは数秒沈黙し、それから問う。
「ごまかしていると?」
「断言はできません」
「ですが?」
「少なくとも、“このまま主力へ引き上げるのは危険”だと思います」
彼は紙を置いた。
「理由は十分です」
「調べますか」
「ええ。しかも静かに」
その返答の早さに、エレノアはやはりこの人は話が早いと思った。
説明に無駄な抵抗がない。自分が知らなかったことを知らなかったまま放置する人ではないのだ。
レオンハルトは従者を呼び、短く指示を飛ばした。
「ローデン商会の倉庫利用記録を別経路でも確認しろ。表向きではなく、搬入口側の番人と運搬係からも聞き取れ。名前は出すな」
従者は一礼してすぐに下がった。
その様子を見ながら、エレノアは少しだけ胸が軽くなるのを感じた。
以前なら、こうはいかなかった。
違和感を覚えても、まず相手の機嫌を考え、言い方を選び、下手をすれば“また細かいことを言う”と嫌がられた。けれどここでは、見つけた違和感を違和感としてそのまま差し出せる。そして相手も、それを仕事として受け取る。
たったそれだけのことが、こんなにも違う。
レオンハルトはそのまま窓際へ移り、腕を組んだ。
「ほかは」
「老舗三商会は残すべきです」
エレノアは整理した紙を示す。
「少なくとも今の段階では。数字だけなら新興へ寄せたくなりますが、冬場の融通と地方支店の連携を切るにはまだ早いかと」
「私も直感ではそう思っていました」
「直感は大事ですわ」
「ですが、説明できない直感だけでは人は動かせない」
その言い方に、エレノアは頷いた。
「だから数字の外にある信用を書き出しました」
紙には簡潔な箇条書きで、各商会の“帳簿に出ない価値”がまとめられていた。倉庫番との関係、地方支店との融通、非常時の貸し借り、冬場の運搬安定度。
レオンハルトはそれを一通り読み終え、低く言う。
「この視点は助かります」
「商売は数字だけではありませんもの」
「ええ。そして、数字だけ見たがる者ほど足をすくわれる」
その一言に、エレノアは王宮の誰かを思い浮かべかけて、やめた。
今はもう、あちらを思い出す必要はない。
昼前には、調査の第一報が戻ってきた。
ローデン商会が使っていると申告していた倉庫の一部は、実際には別名義で借りていた。しかも搬入口側では、荷の出入りに関する記録が帳簿と微妙に食い違っている。
エレノアは報告を聞き終えたあと、静かに紙を閉じた。
「やはり」
レオンハルトは短く息を吐く。
「早い段階で見つけられてよかった」
「主力へ引き上げたあとなら厄介でしたわね」
「ええ。下手をすれば、我が家が相手の粉飾に箔をつけるところでした」
彼はそう言ってから、エレノアを見た。
「あなたは、こういう違和感をよく拾うのですか」
少し考えてから、エレノアは答える。
「拾わざるを得なかった、と言ったほうが正しいかもしれません」
「どういう意味で」
「誰かが不用意な約束をしたあと、帳尻を合わせるには、表面だけ見ても足りませんもの。どこに余白があるか、誰が何を隠しているか、どこまでが見せかけか。そういうものばかり見てきましたから」
口にしてから、自分でも少しだけ驚いた。
以前なら、こんな言い方はしなかったかもしれない。
“王太子の尻拭いをしていました”と言外に示すようなものだからだ。
けれどレオンハルトは笑わず、ただまっすぐに受け止めた。
「なるほど」
それだけだった。
哀れみも同情もない。
ただ、“そうやって培われた力なのだな”と理解した人の返事だった。
その静けさが、逆にありがたかった。
午後には、ローデン商会を外した再編案がまとまった。
老舗との関係を切りすぎず、新興の勢いも取り込む形。数字の見栄えだけでなく、実際に冬を越えられる構造を優先した案だ。
エレノアが最終確認を終えた頃、補助室の扉が軽く叩かれた。
入ってきたのは、クラウゼン公爵家の家令だった。
年配の男で、落ち着いた物腰の奥にかなりの切れを感じさせる人物だ。初日にも遠目では見ていたが、こうして直接話すのは初めてだった。
「失礼いたします、旦那様」
家令は一礼し、次いでエレノアにも丁寧に頭を下げた。
「エレノア様」
その呼び方に、侯爵家で使われていたものとは少し違う響きを感じる。
腫れ物に触る遠慮でもなければ、婚約破棄された令嬢への薄い同情でもない。単に、この部屋で仕事をしている者への礼だった。
「何かしら」
レオンハルトが問う。
「先ほどの再編案、外の会計係たちの間でも少し話題になっております」
「早いな」
「ええ。ローデン商会をこの段階で外したことに、皆驚いているようで」
レオンハルトはわずかに視線をエレノアへ向けた。
「説明は?」
「いたしませんでした。ですが……」
家令が言葉を区切る。
「帳簿の匂いを見抜いた方がいる、とは察しているかと」
エレノアは目を伏せた。
こういう話は、得てして大げさになりやすい。誰か一人が有能だと騒がれるのは、時に扱いづらさも生む。
だが家令は、穏やかな顔のまま続けた。
「皆、助かっております」
短い言葉だった。
けれど、それは妙に胸に響いた。
助かっております。
今まで、自分が何かを整えても、返ってくるのは“当然でしょう”か“もっと早くして”ばかりだった。あるいは、何も返ってこないか。
でもここでは違う。
見ている人がいて、助かったと言葉にする人がいる。
エレノアは静かに答えた。
「そう言っていただけるなら、嬉しいです」
家令は深く一礼し、必要以上に踏み込むことなく退出した。
扉が閉まったあと、少しだけ沈黙が落ちる。
その静けさの中で、レオンハルトがぽつりと言った。
「もう噂になり始めていますね」
「……困りますか」
「いいえ」
彼は即答した。
「有能な人が有能だと知られることに、何の問題が」
その言葉に、エレノアは思わず目を上げた。
有能な人が有能だと知られることに、何の問題が。
今までの自分には、少し眩しすぎるくらい真っ直ぐな言葉だった。
「公爵様は、本当に」
「何でしょう」
「そういうことを、ためらいなくおっしゃるのですね」
レオンハルトは少しだけ首を傾けた。
「隠す必要がありますか」
「……場所によります」
「ここでは隠しません」
その答えは、きっぱりしていた。
エレノアはほんの少しだけ笑う。
「分かりました」
夕方、再編案の最終版を整え終えたときには、頭の奥が心地よく疲れていた。
今日は一日、かなり濃かった。
けれど嫌な疲れではない。自分の頭と判断が、そのまま形になった疲れだ。
帰り支度をしていると、レオンハルトが補助室の扉にもたれたまま言った。
「初日に続いて、今日も上々でした」
「初日よりは、落ち着いて動けた気がいたします」
「そう見えました」
「顔に出ていましたか」
「ええ。初日は“ここにいていいのか”と半分考えていた顔でしたが、今日は“どこから切るか”を考える顔だった」
エレノアは少しだけ息を詰め、それから苦笑した。
「本当に、よくご覧になりますのね」
「必要なところだけです」
もう何度目か分からないやり取りだったが、不思議と飽きなかった。
むしろその定番めいた応酬が、少しだけ心をやわらげる。
レオンハルトは続ける。
「今日の件で、屋敷内の見方も少し変わるでしょう」
「ローデン商会の件ですか」
「ええ。帳簿に強い方はいます。ですが、数字の外まで含めて危険を拾える者はそう多くない」
エレノアは一瞬だけ言葉に詰まった。
褒められているのだろう。
しかも、ただ機嫌を取るためではなく、仕事の結果に対して。
「……ありがとうございます」
そう答えると、レオンハルトはわずかに目をやわらげた。
「礼を言うのはこちらです」
侯爵邸へ戻る馬車の中、エレノアは窓の外を見ながら、今日一日のことを静かに反芻していた。
家令に“助かっております”と言われたこと。
会計係たちの間で噂になり始めていること。
レオンハルトがそれを隠す必要はないと言ったこと。
全部が、まだ少し信じきれない。
けれど同時に、胸の奥では確かな実感が育ち始めていた。
ここでは、自分の力が見える。
ここでは、自分の判断が形になる。
ここでは、自分の働きが、自分の働きとして残る。
侯爵邸の門が見えたとき、エレノアはふと気づく。
もう、“戻る場所”の感覚が少し変わっている。
朝出てきたはずの侯爵邸より、今日一日いた補助室のほうが、自分の呼吸には合っていた。
そして、そのことに罪悪感がほとんどなかった。
自室へ戻り、椅子に腰を下ろす。
窓の外はもう夕暮れに染まっていた。
エレノアはそっと両手を膝の上で重ねる。
有能な令嬢。
もし誰かがそう呼ぶのなら、以前の自分はたぶん、居心地の悪さを覚えただろう。自分だけが前に出るようで、落ち着かなかったはずだ。
けれど今は、少しだけ違う。
そう見えるだけのことを、自分はたしかにやってきたのだと、ようやく受け入れ始めている。
小さく息を吐く。
そして、自然に口元がほころんだ。
今日の仕事は、ちゃんと自分のものだった。
クラウゼン公爵家で働き始めて三日目の朝、エレノアは補助室の机に向かいながら、自分でも不思議な感覚を覚えていた。
もう、この部屋に入るときに余計な緊張をしなくなっている。
最初の日は、机の高さや棚の並びまで気になった。自分がここにいていいのか、どこまで手を伸ばしていいのか、どの程度の言葉で返すべきなのか、そんなことをひとつひとつ確認するように過ごしていた。
だが今は違う。
扉を開ければ、机の上には今日の仕事が置かれている。
棚には昨日までに整理した資料が並んでいる。
隣室からは、レオンハルトが誰かと短く要点だけを交わす声が聞こえてくる。
その流れの中に、自分の居場所がある。
まだ“完全に馴染んだ”とまでは言えない。けれど少なくとも、侯爵邸にいた頃のように、呼吸するだけで神経をすり減らす場所ではなかった。
「おはようございます」
声をかけると、補助室へ入ってきた従者が一礼した。
「おはようございます、エレノア様。本日はこちらを」
差し出された書類束は、領内主要商会の再編案だった。
上段には公爵家と長く取引している老舗商会。中段には近年伸びてきた新興商会。下段には、表向きは問題なく見えるが、数字の流れが少し不自然な帳簿写し。
エレノアはざっと目を通しただけで、今日の仕事が軽くないと悟った。
「旦那様は?」
「先ほど北門側の倉庫視察へ。昼前にはお戻りの予定です」
「分かりました」
従者が下がると、エレノアはすぐに最上段の資料から手をつけた。
クラウゼン公爵家の取引は、表面だけ見ればかなり堅実だった。無駄な冒険が少なく、長く続く商会を大事にしている。その一方で、安定に寄りすぎると変化に鈍くなる危険もある。今まさにレオンハルトが進めている再編は、その鈍りを削るためのものなのだろう。
それ自体は正しい。
問題は、削る順番と、残す相手への見せ方だ。
エレノアは帳簿に目を走らせながら、小さく眉を寄せた。
「……やっぱり」
一見すると、新興商会のほうが数字はいい。
納入量も利益率も悪くないし、契約を切り替えれば表面上の数字はもっと見栄えする。けれど、老舗商会のほうには別の価値があった。
倉庫番との連携。
冬場の遅延の少なさ。
地方支店との融通。
そして何より、いざというときに“義理で動く”余地。
数字の外にある信用だ。
エレノアは羽ペンを取り、別紙に書き出していく。
老舗三商会は維持。
ただし、一社だけ契約内容の見直しを。
新興は一社採用、一社保留。
残る一社は表向きの数字に対して裏の支払いが不自然――。
そこまで書いて、彼女の指が止まった。
不自然。
もう一度、帳簿を見返す。
新興商会の一つ、ローデン商会。納入額の伸び方に対して、王都内の倉庫使用料が妙に低い。しかも輸送費の揺れ幅が大きいのに、納入遅延の報告がほとんどない。数字だけなら優秀だが、優秀すぎる。
「報告が上がっていないだけ……?」
エレノアは独り言ち、資料棚から昨年分の関連書類を引き抜いた。
読み比べるうちに、違和感はますます強くなる。記録上は順調。だがその順調さが、かえって作られたもののように見えた。
そこで扉の向こうから、落ち着いた足音が近づいてきた。
「何か見つかりましたか」
レオンハルトだった。
外套を脱ぎ、視察から戻ったばかりらしい。だが疲れを表に出す様子もなく、そのまま補助室へ入ってくる。
「倉庫視察はもう?」
「ええ。思ったより早く終わりました」
彼は机の向かいに立ち、エレノアの手元を見る。
「その顔は、面倒なものを見つけた顔ですね」
あまりに自然に言われて、エレノアは少しだけ目を瞬いた。
「そんな顔をしていましたか」
「していました」
即答だった。
「眉の寄り方が、昨日より深い」
その観察の細かさに、エレノアはほんの少しだけ笑う。
「便利な目をお持ちですこと」
「今朝も言われるとは思いませんでした」
レオンハルトの返しが少しだけ乾いていて、エレノアはまた笑いそうになる。
だがすぐに気持ちを切り替え、机上の資料を示した。
「ローデン商会です」
「新興の?」
「はい。一見、数字は優秀です。けれど優秀すぎます」
レオンハルトは何も言わず、エレノアが差し出した帳簿へ目を落とした。
エレノアは続ける。
「倉庫使用料が不自然に低いのに、納入遅延が少なすぎるんです。それに輸送費の上下が大きいわりに、実際の損耗報告もほとんどない。帳簿だけ見ると完璧ですが、完璧すぎて逆に現実味がありません」
レオンハルトは数秒沈黙し、それから問う。
「ごまかしていると?」
「断言はできません」
「ですが?」
「少なくとも、“このまま主力へ引き上げるのは危険”だと思います」
彼は紙を置いた。
「理由は十分です」
「調べますか」
「ええ。しかも静かに」
その返答の早さに、エレノアはやはりこの人は話が早いと思った。
説明に無駄な抵抗がない。自分が知らなかったことを知らなかったまま放置する人ではないのだ。
レオンハルトは従者を呼び、短く指示を飛ばした。
「ローデン商会の倉庫利用記録を別経路でも確認しろ。表向きではなく、搬入口側の番人と運搬係からも聞き取れ。名前は出すな」
従者は一礼してすぐに下がった。
その様子を見ながら、エレノアは少しだけ胸が軽くなるのを感じた。
以前なら、こうはいかなかった。
違和感を覚えても、まず相手の機嫌を考え、言い方を選び、下手をすれば“また細かいことを言う”と嫌がられた。けれどここでは、見つけた違和感を違和感としてそのまま差し出せる。そして相手も、それを仕事として受け取る。
たったそれだけのことが、こんなにも違う。
レオンハルトはそのまま窓際へ移り、腕を組んだ。
「ほかは」
「老舗三商会は残すべきです」
エレノアは整理した紙を示す。
「少なくとも今の段階では。数字だけなら新興へ寄せたくなりますが、冬場の融通と地方支店の連携を切るにはまだ早いかと」
「私も直感ではそう思っていました」
「直感は大事ですわ」
「ですが、説明できない直感だけでは人は動かせない」
その言い方に、エレノアは頷いた。
「だから数字の外にある信用を書き出しました」
紙には簡潔な箇条書きで、各商会の“帳簿に出ない価値”がまとめられていた。倉庫番との関係、地方支店との融通、非常時の貸し借り、冬場の運搬安定度。
レオンハルトはそれを一通り読み終え、低く言う。
「この視点は助かります」
「商売は数字だけではありませんもの」
「ええ。そして、数字だけ見たがる者ほど足をすくわれる」
その一言に、エレノアは王宮の誰かを思い浮かべかけて、やめた。
今はもう、あちらを思い出す必要はない。
昼前には、調査の第一報が戻ってきた。
ローデン商会が使っていると申告していた倉庫の一部は、実際には別名義で借りていた。しかも搬入口側では、荷の出入りに関する記録が帳簿と微妙に食い違っている。
エレノアは報告を聞き終えたあと、静かに紙を閉じた。
「やはり」
レオンハルトは短く息を吐く。
「早い段階で見つけられてよかった」
「主力へ引き上げたあとなら厄介でしたわね」
「ええ。下手をすれば、我が家が相手の粉飾に箔をつけるところでした」
彼はそう言ってから、エレノアを見た。
「あなたは、こういう違和感をよく拾うのですか」
少し考えてから、エレノアは答える。
「拾わざるを得なかった、と言ったほうが正しいかもしれません」
「どういう意味で」
「誰かが不用意な約束をしたあと、帳尻を合わせるには、表面だけ見ても足りませんもの。どこに余白があるか、誰が何を隠しているか、どこまでが見せかけか。そういうものばかり見てきましたから」
口にしてから、自分でも少しだけ驚いた。
以前なら、こんな言い方はしなかったかもしれない。
“王太子の尻拭いをしていました”と言外に示すようなものだからだ。
けれどレオンハルトは笑わず、ただまっすぐに受け止めた。
「なるほど」
それだけだった。
哀れみも同情もない。
ただ、“そうやって培われた力なのだな”と理解した人の返事だった。
その静けさが、逆にありがたかった。
午後には、ローデン商会を外した再編案がまとまった。
老舗との関係を切りすぎず、新興の勢いも取り込む形。数字の見栄えだけでなく、実際に冬を越えられる構造を優先した案だ。
エレノアが最終確認を終えた頃、補助室の扉が軽く叩かれた。
入ってきたのは、クラウゼン公爵家の家令だった。
年配の男で、落ち着いた物腰の奥にかなりの切れを感じさせる人物だ。初日にも遠目では見ていたが、こうして直接話すのは初めてだった。
「失礼いたします、旦那様」
家令は一礼し、次いでエレノアにも丁寧に頭を下げた。
「エレノア様」
その呼び方に、侯爵家で使われていたものとは少し違う響きを感じる。
腫れ物に触る遠慮でもなければ、婚約破棄された令嬢への薄い同情でもない。単に、この部屋で仕事をしている者への礼だった。
「何かしら」
レオンハルトが問う。
「先ほどの再編案、外の会計係たちの間でも少し話題になっております」
「早いな」
「ええ。ローデン商会をこの段階で外したことに、皆驚いているようで」
レオンハルトはわずかに視線をエレノアへ向けた。
「説明は?」
「いたしませんでした。ですが……」
家令が言葉を区切る。
「帳簿の匂いを見抜いた方がいる、とは察しているかと」
エレノアは目を伏せた。
こういう話は、得てして大げさになりやすい。誰か一人が有能だと騒がれるのは、時に扱いづらさも生む。
だが家令は、穏やかな顔のまま続けた。
「皆、助かっております」
短い言葉だった。
けれど、それは妙に胸に響いた。
助かっております。
今まで、自分が何かを整えても、返ってくるのは“当然でしょう”か“もっと早くして”ばかりだった。あるいは、何も返ってこないか。
でもここでは違う。
見ている人がいて、助かったと言葉にする人がいる。
エレノアは静かに答えた。
「そう言っていただけるなら、嬉しいです」
家令は深く一礼し、必要以上に踏み込むことなく退出した。
扉が閉まったあと、少しだけ沈黙が落ちる。
その静けさの中で、レオンハルトがぽつりと言った。
「もう噂になり始めていますね」
「……困りますか」
「いいえ」
彼は即答した。
「有能な人が有能だと知られることに、何の問題が」
その言葉に、エレノアは思わず目を上げた。
有能な人が有能だと知られることに、何の問題が。
今までの自分には、少し眩しすぎるくらい真っ直ぐな言葉だった。
「公爵様は、本当に」
「何でしょう」
「そういうことを、ためらいなくおっしゃるのですね」
レオンハルトは少しだけ首を傾けた。
「隠す必要がありますか」
「……場所によります」
「ここでは隠しません」
その答えは、きっぱりしていた。
エレノアはほんの少しだけ笑う。
「分かりました」
夕方、再編案の最終版を整え終えたときには、頭の奥が心地よく疲れていた。
今日は一日、かなり濃かった。
けれど嫌な疲れではない。自分の頭と判断が、そのまま形になった疲れだ。
帰り支度をしていると、レオンハルトが補助室の扉にもたれたまま言った。
「初日に続いて、今日も上々でした」
「初日よりは、落ち着いて動けた気がいたします」
「そう見えました」
「顔に出ていましたか」
「ええ。初日は“ここにいていいのか”と半分考えていた顔でしたが、今日は“どこから切るか”を考える顔だった」
エレノアは少しだけ息を詰め、それから苦笑した。
「本当に、よくご覧になりますのね」
「必要なところだけです」
もう何度目か分からないやり取りだったが、不思議と飽きなかった。
むしろその定番めいた応酬が、少しだけ心をやわらげる。
レオンハルトは続ける。
「今日の件で、屋敷内の見方も少し変わるでしょう」
「ローデン商会の件ですか」
「ええ。帳簿に強い方はいます。ですが、数字の外まで含めて危険を拾える者はそう多くない」
エレノアは一瞬だけ言葉に詰まった。
褒められているのだろう。
しかも、ただ機嫌を取るためではなく、仕事の結果に対して。
「……ありがとうございます」
そう答えると、レオンハルトはわずかに目をやわらげた。
「礼を言うのはこちらです」
侯爵邸へ戻る馬車の中、エレノアは窓の外を見ながら、今日一日のことを静かに反芻していた。
家令に“助かっております”と言われたこと。
会計係たちの間で噂になり始めていること。
レオンハルトがそれを隠す必要はないと言ったこと。
全部が、まだ少し信じきれない。
けれど同時に、胸の奥では確かな実感が育ち始めていた。
ここでは、自分の力が見える。
ここでは、自分の判断が形になる。
ここでは、自分の働きが、自分の働きとして残る。
侯爵邸の門が見えたとき、エレノアはふと気づく。
もう、“戻る場所”の感覚が少し変わっている。
朝出てきたはずの侯爵邸より、今日一日いた補助室のほうが、自分の呼吸には合っていた。
そして、そのことに罪悪感がほとんどなかった。
自室へ戻り、椅子に腰を下ろす。
窓の外はもう夕暮れに染まっていた。
エレノアはそっと両手を膝の上で重ねる。
有能な令嬢。
もし誰かがそう呼ぶのなら、以前の自分はたぶん、居心地の悪さを覚えただろう。自分だけが前に出るようで、落ち着かなかったはずだ。
けれど今は、少しだけ違う。
そう見えるだけのことを、自分はたしかにやってきたのだと、ようやく受け入れ始めている。
小さく息を吐く。
そして、自然に口元がほころんだ。
今日の仕事は、ちゃんと自分のものだった。
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