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第二十七話 義妹の断罪
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第二十七話 義妹の断罪
夜会の翌日、王都の空気は目に見えぬ熱を帯びていた。
騒ぎ立てる声があるわけではない。
誰かが広場で叫んでいるわけでもない。
けれど貴族たちの屋敷では朝の茶が出されるたび、仕立て屋の待合では針仕事の手が止まるたび、馬車の中で母娘が向かい合うたび、同じ話題が静かに口にされていた。
王妃主催の夜会。
東部侯夫人の一言。
南方伯夫人の静かな追認。
そして、舞踏会の夜より前から、フェルベルク家の義妹が少しずつ姉の評判を削っていたらしいという噂。
最初は仄めかしだったものが、今朝にはもう“噂”として十分な形を持っていた。
そしてその噂は、当然のようにフェルベルク侯爵邸にも押し寄せる。
朝から、屋敷の空気はひどく重かった。
使用人たちは足音を殺して行き交い、執事は平静を装いながらも何度も玄関と応接間を往復している。届く手紙の数も多い。どれも表向きは丁寧な文面だが、内容は確認、問い合わせ、あるいは慎重な距離の取り直しばかりだ。
エレノアは自室の窓辺でその気配を聞きながら、静かに指先を組んでいた。
昨夜の夜会で、一つの流れは変わった。
完全に終わったわけではない。
だが少なくとも、もう“可哀想な義妹と冷たい姉”の物語だけでは押し切れなくなった。
ならば次に来るのは、当然、家の中の混乱だ。
ノックのあと、執事が入ってくる。
「お嬢様」
「どうしたの」
「旦那様が、奥様とミレイユ様を大応接間へお呼びです」
やはり、と思う。
「私も?」
「はい。……できれば、ご同席いただきたいと」
エレノアは少しだけ息をついた。
父はまだ、自分を“いてくれると話が進む者”として使おうとしているのかもしれない。
だが、それでもいい。
もう以前のように、都合よく事態を丸めるためには動かないのだから。
「分かったわ」
大応接間へ入ると、すでに侯爵とヴィオラ、そしてミレイユがいた。
侯爵は立ったまま、机の前で何通もの手紙を手にしている。
ヴィオラは顔色が悪く、今にも座り込んでしまいそうなほど力を失っていた。
そしてミレイユは、いつになくきちんと装っているのに、その装いの整い方がかえって痛々しかった。
頬は青ざめ、唇には色がなく、目元には一晩泣いた痕がある。
けれどその奥には、まだどこか“自分だけが責められている”という不満が消えていないのも分かった。
「来たか」
侯爵が低く言う。
エレノアは一礼し、促された席へ着いた。
しばらく沈黙が落ちる。
その沈黙を破ったのは侯爵だった。
「今朝だけで、交易祭に関わる家から七通、問い合わせが来た」
手紙を机へ置く。
「内容はどれも似たようなものだ。“最近の噂は事実か”“フェルベルク家として見解はあるのか”“今後の共同席や挨拶順に影響は出るのか”――そういうものばかりだ」
ヴィオラがかすれた声を出す。
「そんな……たった一晩で……」
「たった一晩ではない!」
侯爵の怒声が飛ぶ。
「ずっと積もっていたものが、昨夜ようやく形になっただけだ!」
その言葉に、ヴィオラはまた口をつぐんだ。
正論だからだ。
侯爵は次に、ミレイユへ視線を向ける。
「お前は、何を言うべきか分かっているな」
ミレイユの肩がびくりと震える。
分かっているな――それは謝罪しろという意味だ。
しかも、ただ泣いて謝るのではなく、自分が何をしたのか理解したうえで。
だがミレイユは、唇を噛んだままうつむいていた。
侯爵の眉間に深いしわが寄る。
「ミレイユ」
「……私は」
ようやく出た声は、弱々しかった。
「私は、そこまで大ごとになるとは……」
その瞬間、侯爵の顔から感情が消えた。
怒りではない。
失望のほうだ。
「まだ、そんなことを言うのか」
低い声だった。
その静けさのほうが、かえって恐ろしい。
「お前はまだ、“大ごとになったこと”だけを問題だと思っているのか」
ミレイユが顔を上げる。
その目には涙が溜まっている。
だが、エレノアにはそれがもはや武器にならないと分かった。
今ここに必要なのは涙ではなく、理解だからだ。
「だって……」
ミレイユは震える声で言う。
「最初から、そんなふうに言われていたら、私だって……」
「誰にだ」
侯爵が問い返す。
「誰が、お前に何を言っていなかったというのだ」
ミレイユは詰まる。
言えるはずがない。
王宮での席順も、夫人たちの機嫌も、招待状の順番も、ずっと以前からエレノアが見ていたことなのだから。
しかも最近は、それを見られないまま隣に立ったせいで、自分の空虚さがむき出しになっている。
「私はただ……」
またその言葉だ。
ただ。
欲しかっただけ。
知らなかっただけ。
そこまでとは思わなかっただけ。
けれど、もう“だけ”では済まない段階だった。
侯爵は静かに紙束を取り上げた。
マリアンヌとベルタが持ち出したもの。
断りの返事の控え。
指示の覚書。
当時の侍女の証言。
「これは何だ」
ミレイユの顔から血の気が引く。
「……」
「答えろ」
「……お母様が」
思わず出たのだろう。
ヴィオラがはっと顔を上げる。
「ミレイユ!」
だがもう遅い。
ミレイユは、自分を守るために真っ先に母を差し出したのだ。
その事実が、部屋の空気をまた一段冷やす。
「お母様が、少しならいいと……」
ヴィオラが真っ青になって首を振る。
「違うわ! 私はそんなつもりじゃ――」
「でも止めなかったでしょう!」
ミレイユが叫ぶ。
「お母様だって、お姉様ばかりなのが面白くなかったじゃない! だから……!」
言いかけて、自分で口を押さえる。
まただ。
また、余計な本音が飛び出した。
ヴィオラの顔がみるみる歪む。
侯爵はそのやり取りを見て、とうとう紙束を机へ投げた。
「見苦しい」
たった一言。
だが、その一言で十分だった。
ミレイユは完全に青ざめた。
侯爵が言う。
「お前は、自分のしたことを分かっていない。母を庇うこともできず、自分を守るために責任を押しつけ、しかもまだ“お姉様ばかりだった”と恨み言を言う」
ミレイユの目から大粒の涙がこぼれる。
「お父様……私は……」
「黙れ」
侯爵の声は静かだった。
それが、むしろ決定的だった。
「欲しかったのなら、自分で得る努力をすべきだった。招かれたければ、人との関係を築けばよかった。王太子の隣に立ちたかったのなら、その立場に見合うだけの中身を備えるべきだった」
ミレイユは、まるで殴られたような顔をした。
たぶん初めてなのだろう。
父にここまで真正面から、自分の中身の空虚さを突きつけられるのは。
侯爵は続ける。
「だが、お前はそうしなかった。姉の物を削り、姉の評判を歪め、泣けば誰かが庇うと思っていた」
ミレイユは唇を震わせる。
「私は……そんな……」
「そうだ」
侯爵は容赦しなかった。
「そしてその結果が、今の侯爵家だ」
部屋の中の空気が重く落ちる。
今の侯爵家。
王宮との距離。
交易祭の共同席再考。
後援先からの苦言。
そして“長女を削って義妹を押し上げた家”という新たな噂。
全部が、目の前の少女の浅い欲と、それを止めなかった大人たちの甘さから来ている。
ヴィオラが泣き出した。
「お願い、そんなふうに責めないで……!」
侯爵は妻を見た。
その視線には、もはや情よりも呆れが強かった。
「お前も同罪だ」
ヴィオラが息を呑む。
「ミレイユの嫉妬を“可哀想”で包み、長女の立場を削ることを見過ごした。結果、娘を守るどころか、ここまで醜くした」
その言葉は残酷だった。
だが、誰も否定できない。
エレノアはその光景を、ひどく遠いもののように見ていた。
昔の自分なら、ここで少しは心がざわついたかもしれない。
家族が壊れていくように見えて、胸が痛んだかもしれない。
けれど今は違う。
これは突然壊れたのではない。
もともと歪んでいたものが、ようやく表へ出ただけだ。
そう分かっているからだろう。
侯爵は深く息を吐き、ミレイユへ最後のように言った。
「しばらく王宮への出入りは禁じる」
ミレイユが顔を上げる。
「そんな……!」
「今のお前を外へ出せば、さらに家が傷む」
「でも、殿下が……」
「殿下の隣に立つ資格があると、本気でまだ思っているのか」
その言葉で、ミレイユの顔が崩れた。
とうとう座り込むようにして泣き出す。
だが、その涙を拾う者は誰もいない。
もう誰も、“可哀想な義妹”とは見ていなかった。
そのとき、侯爵の視線がエレノアへ向いた。
「……お前は何か言うことはあるか」
不思議な問いだった。
許しを請えという意味ではない。
むしろ、長女として何か最終的な判断を促すような響きがあった。
エレノアはしばらく沈黙し、やがて静かに口を開いた。
「一つだけ」
全員がこちらを見る。
「ミレイユ」
名を呼ばれ、義妹が涙に濡れた目を上げた。
「あなたが欲しかったものは、もう分かっています」
声は穏やかだった。
だが穏やかであるぶん、よく届く。
「でも、欲しかったことと、奪っていいことは違う」
ミレイユの肩が震える。
「あなたはずっと、それを履き違えていたのよ」
その一言に、ミレイユは何か言い返しかけた。
けれど出てこない。
たぶん、自分でももう分かっているのだ。
分かっているからこそ苦しいのだろう。
エレノアは続ける。
「そして今、あなたが失っているのは、たぶん殿下の隣の席だけではないわ」
ミレイユの目が揺れる。
「何を……」
「周りが“少しくらいなら”と許してくれる時期よ」
それは厳しい言葉だった。
だが、もうそれを曖昧にしてやるつもりはなかった。
ミレイユは泣き声をこらえるように口を押さえた。
たしかにそうだ。
今までは、可愛いから。若いから。傷ついているように見えるから。
そういう理由で、少しの我がままや浅さは許されてきた。
けれどもう違う。
今はその浅さが“家を壊すもの”として見えてしまった。
それはもう、元には戻らない。
侯爵は重く目を閉じた。
「……下がらせろ」
今度はヴィオラが立ち上がり、半ば抱えるようにしてミレイユを連れていく。
ミレイユは途中で一度だけ振り返ったが、そこにあったのは憎しみより、むしろ呆然とした空虚さだった。
扉が閉まる。
長い沈黙。
やがて侯爵が低く言った。
「……断罪、か」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
けれどエレノアには、父がようやく理解し始めたのだと分かった。
これはもう、叱って終わる話ではない。
家の内側の軽い嫉妬が、公的な信用の失墜という形で返ってきた。
その意味で、今のミレイユはすでに断罪されているのだと。
エレノアは静かに立ち上がった。
「失礼いたします」
侯爵は止めなかった。
止める言葉も、もうなかったのだろう。
廊下へ出ると、夕方の空気が少しだけ冷たかった。
エレノアは窓辺で足を止める。
義妹の断罪。
そんな大仰な言葉を使わなくても、現実はもう動いている。
王宮での立場。
社交界での印象。
家の中での甘さ。
そのすべてが、一度に彼女へ返り始めている。
そしてその返り方は、思っていた以上に容赦がなかった。
けれど、それでいいのだと思う。
誰かが泣けば曖昧に流れ、可哀想に見えれば責任が薄まり、欲しかっただけで済まされる。
そんな場所に戻してしまえば、また同じことの繰り返しになる。
だからもう、戻せない。
戻さない。
エレノアはそっと目を閉じた。
胸の内は不思議なほど静かだった。
復讐の甘さとも、勝利の高揚とも違う。
ただ、ようやく本来あるべきところへ物事が落ち始めた、そんな感覚だけがそこにあった。
夜会の翌日、王都の空気は目に見えぬ熱を帯びていた。
騒ぎ立てる声があるわけではない。
誰かが広場で叫んでいるわけでもない。
けれど貴族たちの屋敷では朝の茶が出されるたび、仕立て屋の待合では針仕事の手が止まるたび、馬車の中で母娘が向かい合うたび、同じ話題が静かに口にされていた。
王妃主催の夜会。
東部侯夫人の一言。
南方伯夫人の静かな追認。
そして、舞踏会の夜より前から、フェルベルク家の義妹が少しずつ姉の評判を削っていたらしいという噂。
最初は仄めかしだったものが、今朝にはもう“噂”として十分な形を持っていた。
そしてその噂は、当然のようにフェルベルク侯爵邸にも押し寄せる。
朝から、屋敷の空気はひどく重かった。
使用人たちは足音を殺して行き交い、執事は平静を装いながらも何度も玄関と応接間を往復している。届く手紙の数も多い。どれも表向きは丁寧な文面だが、内容は確認、問い合わせ、あるいは慎重な距離の取り直しばかりだ。
エレノアは自室の窓辺でその気配を聞きながら、静かに指先を組んでいた。
昨夜の夜会で、一つの流れは変わった。
完全に終わったわけではない。
だが少なくとも、もう“可哀想な義妹と冷たい姉”の物語だけでは押し切れなくなった。
ならば次に来るのは、当然、家の中の混乱だ。
ノックのあと、執事が入ってくる。
「お嬢様」
「どうしたの」
「旦那様が、奥様とミレイユ様を大応接間へお呼びです」
やはり、と思う。
「私も?」
「はい。……できれば、ご同席いただきたいと」
エレノアは少しだけ息をついた。
父はまだ、自分を“いてくれると話が進む者”として使おうとしているのかもしれない。
だが、それでもいい。
もう以前のように、都合よく事態を丸めるためには動かないのだから。
「分かったわ」
大応接間へ入ると、すでに侯爵とヴィオラ、そしてミレイユがいた。
侯爵は立ったまま、机の前で何通もの手紙を手にしている。
ヴィオラは顔色が悪く、今にも座り込んでしまいそうなほど力を失っていた。
そしてミレイユは、いつになくきちんと装っているのに、その装いの整い方がかえって痛々しかった。
頬は青ざめ、唇には色がなく、目元には一晩泣いた痕がある。
けれどその奥には、まだどこか“自分だけが責められている”という不満が消えていないのも分かった。
「来たか」
侯爵が低く言う。
エレノアは一礼し、促された席へ着いた。
しばらく沈黙が落ちる。
その沈黙を破ったのは侯爵だった。
「今朝だけで、交易祭に関わる家から七通、問い合わせが来た」
手紙を机へ置く。
「内容はどれも似たようなものだ。“最近の噂は事実か”“フェルベルク家として見解はあるのか”“今後の共同席や挨拶順に影響は出るのか”――そういうものばかりだ」
ヴィオラがかすれた声を出す。
「そんな……たった一晩で……」
「たった一晩ではない!」
侯爵の怒声が飛ぶ。
「ずっと積もっていたものが、昨夜ようやく形になっただけだ!」
その言葉に、ヴィオラはまた口をつぐんだ。
正論だからだ。
侯爵は次に、ミレイユへ視線を向ける。
「お前は、何を言うべきか分かっているな」
ミレイユの肩がびくりと震える。
分かっているな――それは謝罪しろという意味だ。
しかも、ただ泣いて謝るのではなく、自分が何をしたのか理解したうえで。
だがミレイユは、唇を噛んだままうつむいていた。
侯爵の眉間に深いしわが寄る。
「ミレイユ」
「……私は」
ようやく出た声は、弱々しかった。
「私は、そこまで大ごとになるとは……」
その瞬間、侯爵の顔から感情が消えた。
怒りではない。
失望のほうだ。
「まだ、そんなことを言うのか」
低い声だった。
その静けさのほうが、かえって恐ろしい。
「お前はまだ、“大ごとになったこと”だけを問題だと思っているのか」
ミレイユが顔を上げる。
その目には涙が溜まっている。
だが、エレノアにはそれがもはや武器にならないと分かった。
今ここに必要なのは涙ではなく、理解だからだ。
「だって……」
ミレイユは震える声で言う。
「最初から、そんなふうに言われていたら、私だって……」
「誰にだ」
侯爵が問い返す。
「誰が、お前に何を言っていなかったというのだ」
ミレイユは詰まる。
言えるはずがない。
王宮での席順も、夫人たちの機嫌も、招待状の順番も、ずっと以前からエレノアが見ていたことなのだから。
しかも最近は、それを見られないまま隣に立ったせいで、自分の空虚さがむき出しになっている。
「私はただ……」
またその言葉だ。
ただ。
欲しかっただけ。
知らなかっただけ。
そこまでとは思わなかっただけ。
けれど、もう“だけ”では済まない段階だった。
侯爵は静かに紙束を取り上げた。
マリアンヌとベルタが持ち出したもの。
断りの返事の控え。
指示の覚書。
当時の侍女の証言。
「これは何だ」
ミレイユの顔から血の気が引く。
「……」
「答えろ」
「……お母様が」
思わず出たのだろう。
ヴィオラがはっと顔を上げる。
「ミレイユ!」
だがもう遅い。
ミレイユは、自分を守るために真っ先に母を差し出したのだ。
その事実が、部屋の空気をまた一段冷やす。
「お母様が、少しならいいと……」
ヴィオラが真っ青になって首を振る。
「違うわ! 私はそんなつもりじゃ――」
「でも止めなかったでしょう!」
ミレイユが叫ぶ。
「お母様だって、お姉様ばかりなのが面白くなかったじゃない! だから……!」
言いかけて、自分で口を押さえる。
まただ。
また、余計な本音が飛び出した。
ヴィオラの顔がみるみる歪む。
侯爵はそのやり取りを見て、とうとう紙束を机へ投げた。
「見苦しい」
たった一言。
だが、その一言で十分だった。
ミレイユは完全に青ざめた。
侯爵が言う。
「お前は、自分のしたことを分かっていない。母を庇うこともできず、自分を守るために責任を押しつけ、しかもまだ“お姉様ばかりだった”と恨み言を言う」
ミレイユの目から大粒の涙がこぼれる。
「お父様……私は……」
「黙れ」
侯爵の声は静かだった。
それが、むしろ決定的だった。
「欲しかったのなら、自分で得る努力をすべきだった。招かれたければ、人との関係を築けばよかった。王太子の隣に立ちたかったのなら、その立場に見合うだけの中身を備えるべきだった」
ミレイユは、まるで殴られたような顔をした。
たぶん初めてなのだろう。
父にここまで真正面から、自分の中身の空虚さを突きつけられるのは。
侯爵は続ける。
「だが、お前はそうしなかった。姉の物を削り、姉の評判を歪め、泣けば誰かが庇うと思っていた」
ミレイユは唇を震わせる。
「私は……そんな……」
「そうだ」
侯爵は容赦しなかった。
「そしてその結果が、今の侯爵家だ」
部屋の中の空気が重く落ちる。
今の侯爵家。
王宮との距離。
交易祭の共同席再考。
後援先からの苦言。
そして“長女を削って義妹を押し上げた家”という新たな噂。
全部が、目の前の少女の浅い欲と、それを止めなかった大人たちの甘さから来ている。
ヴィオラが泣き出した。
「お願い、そんなふうに責めないで……!」
侯爵は妻を見た。
その視線には、もはや情よりも呆れが強かった。
「お前も同罪だ」
ヴィオラが息を呑む。
「ミレイユの嫉妬を“可哀想”で包み、長女の立場を削ることを見過ごした。結果、娘を守るどころか、ここまで醜くした」
その言葉は残酷だった。
だが、誰も否定できない。
エレノアはその光景を、ひどく遠いもののように見ていた。
昔の自分なら、ここで少しは心がざわついたかもしれない。
家族が壊れていくように見えて、胸が痛んだかもしれない。
けれど今は違う。
これは突然壊れたのではない。
もともと歪んでいたものが、ようやく表へ出ただけだ。
そう分かっているからだろう。
侯爵は深く息を吐き、ミレイユへ最後のように言った。
「しばらく王宮への出入りは禁じる」
ミレイユが顔を上げる。
「そんな……!」
「今のお前を外へ出せば、さらに家が傷む」
「でも、殿下が……」
「殿下の隣に立つ資格があると、本気でまだ思っているのか」
その言葉で、ミレイユの顔が崩れた。
とうとう座り込むようにして泣き出す。
だが、その涙を拾う者は誰もいない。
もう誰も、“可哀想な義妹”とは見ていなかった。
そのとき、侯爵の視線がエレノアへ向いた。
「……お前は何か言うことはあるか」
不思議な問いだった。
許しを請えという意味ではない。
むしろ、長女として何か最終的な判断を促すような響きがあった。
エレノアはしばらく沈黙し、やがて静かに口を開いた。
「一つだけ」
全員がこちらを見る。
「ミレイユ」
名を呼ばれ、義妹が涙に濡れた目を上げた。
「あなたが欲しかったものは、もう分かっています」
声は穏やかだった。
だが穏やかであるぶん、よく届く。
「でも、欲しかったことと、奪っていいことは違う」
ミレイユの肩が震える。
「あなたはずっと、それを履き違えていたのよ」
その一言に、ミレイユは何か言い返しかけた。
けれど出てこない。
たぶん、自分でももう分かっているのだ。
分かっているからこそ苦しいのだろう。
エレノアは続ける。
「そして今、あなたが失っているのは、たぶん殿下の隣の席だけではないわ」
ミレイユの目が揺れる。
「何を……」
「周りが“少しくらいなら”と許してくれる時期よ」
それは厳しい言葉だった。
だが、もうそれを曖昧にしてやるつもりはなかった。
ミレイユは泣き声をこらえるように口を押さえた。
たしかにそうだ。
今までは、可愛いから。若いから。傷ついているように見えるから。
そういう理由で、少しの我がままや浅さは許されてきた。
けれどもう違う。
今はその浅さが“家を壊すもの”として見えてしまった。
それはもう、元には戻らない。
侯爵は重く目を閉じた。
「……下がらせろ」
今度はヴィオラが立ち上がり、半ば抱えるようにしてミレイユを連れていく。
ミレイユは途中で一度だけ振り返ったが、そこにあったのは憎しみより、むしろ呆然とした空虚さだった。
扉が閉まる。
長い沈黙。
やがて侯爵が低く言った。
「……断罪、か」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
けれどエレノアには、父がようやく理解し始めたのだと分かった。
これはもう、叱って終わる話ではない。
家の内側の軽い嫉妬が、公的な信用の失墜という形で返ってきた。
その意味で、今のミレイユはすでに断罪されているのだと。
エレノアは静かに立ち上がった。
「失礼いたします」
侯爵は止めなかった。
止める言葉も、もうなかったのだろう。
廊下へ出ると、夕方の空気が少しだけ冷たかった。
エレノアは窓辺で足を止める。
義妹の断罪。
そんな大仰な言葉を使わなくても、現実はもう動いている。
王宮での立場。
社交界での印象。
家の中での甘さ。
そのすべてが、一度に彼女へ返り始めている。
そしてその返り方は、思っていた以上に容赦がなかった。
けれど、それでいいのだと思う。
誰かが泣けば曖昧に流れ、可哀想に見えれば責任が薄まり、欲しかっただけで済まされる。
そんな場所に戻してしまえば、また同じことの繰り返しになる。
だからもう、戻せない。
戻さない。
エレノアはそっと目を閉じた。
胸の内は不思議なほど静かだった。
復讐の甘さとも、勝利の高揚とも違う。
ただ、ようやく本来あるべきところへ物事が落ち始めた、そんな感覚だけがそこにあった。
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セリーナは結婚式の前日に婚約者に「他に愛する人がいる」と告げられた。うすうす気づいていたがその言葉に深く傷つく。それでも彼が好きで結婚を止めたいとは思わなかった。(身勝手な言い分が出てきます。不快な気持ちになりそうでしたらブラウザバックでお願いします。)矛盾や違和感はスルーしてお読みいただけると助かります。
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