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第二十九話 父の後悔
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第二十九話 父の後悔
フェルベルク侯爵が初めて一人になったのは、その日の深夜だった。
屋敷の灯りは大半が落ち、廊下を行く使用人の気配も途絶えつつある。
書斎の机には未処理の手紙がまだ何通も残っていたが、侯爵はそれに手を伸ばす気になれなかった。
南方伯家からの距離。
交易祭の共同席再考。
王妃の実家筋からの苦言。
そして、ミレイユの浅はかな告白と、ヴィオラの黙認。
ひとつずつでも胃が重くなる話ばかりなのに、それが今は全部つながって見える。
侯爵はゆっくりと椅子へ深く沈み込んだ。
書斎は静かだった。
だが、その静けさがかえって耳に痛い。
この部屋で自分は何度、エレノアの話を聞き流してきただろう。
南方伯家は形式に厳しいと。
後援先には金額以上に“下げてはいけない先”があると。
誰を先に立てるかで空気が変わると。
ミレイユの振る舞いに少し違和感があると。
そのたびに、自分はどう返した。
細かい。
神経質だ。
王太子妃候補として視野が狭くなっている。
姉なら少しは譲れ。
……譲れ。
その言葉が、今さらひどく醜く聞こえる。
「何を譲らせていたのだ、私は……」
誰に聞かせるでもなく呟く。
小物の一つや二つではない。
茶会の招待。
評判。
立場。
婚約者。
そして最後には、自分が黙って整えてきた仕事と、その成果まで。
長女は、ずっと“譲る側”に置かれていたのだ。
その異常さに、父である自分だけが気づかなかった。
いや、気づこうとしなかったのだろう。
都合がよかったからだ。
エレノアは有能だった。
王太子の隣に立っていても見苦しくない。
社交界で失言せず、必要なところではむしろ先回りして整える。
家の名を傷つけず、黙って働く。
そんな娘がいるなら、多少の不満は見ないふりをしたほうが楽だった。
そしてその一方で、後妻の娘であるミレイユは可憐で、扱いやすく、泣けば周囲が庇う。
少しぐらいわがままでも、可愛いほうを優先してやれば家庭の空気が丸く収まるような気がした。
そう思っていた。
結果はどうだ。
丸く収まるどころか、家ごと腐らせた。
侯爵は目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、幼い頃のエレノアだった。
まだ母を亡くして間もない頃。
小さな背筋をまっすぐ伸ばし、泣きたいのをこらえた顔で「大丈夫です」と答えていた娘。
その時でさえ、たぶんあの子は“大丈夫ではなかった”のだろう。
だが自分は、その我慢のよさを見て“しっかりしている”で済ませた。
それが最初の間違いだったのかもしれない。
大丈夫だと言う子を、本当に大丈夫だと扱った。
泣かない子を、傷つかない子だと決めつけた。
できる子を、もっとできて当然だと思った。
その積み重ねが、今のこれだ。
扉の向こうで、控えめなノックがした。
「旦那様」
執事の声だった。
侯爵は目を開ける。
「何だ」
「お休みになられませんか」
「……まだだ」
執事は一瞬黙ったあと、低く言った。
「お嬢様は、先ほどお休みになられました」
侯爵の指先が少しだけ動く。
エレノアのことだと、すぐに分かった。
「そうか」
「本日はお疲れのご様子でしたが、取り乱されることなく」
執事のその報告は、何気ないようでいて、侯爵には妙に刺さった。
取り乱さない。
それは昔からだ。
だからこそ、自分はずっと“まだ大丈夫だ”と思っていた。
だが本当は違ったのだろう。
取り乱さないことは、平気であることと同じではない。
「……入れ」
そう言うと、執事が静かに中へ入ってくる。
年を重ねた顔には、主人の荒れた空気に慣れた落ち着きがある。
だが今夜の侯爵は、その落ち着きが逆に痛かった。
「何か用か」
侯爵が問うと、執事は少しだけ逡巡してから答えた。
「差し出がましいことを申し上げてもよろしければ」
「何だ」
「旦那様は、ようやくお嬢様が何をなさっていたかをご覧になったのかと」
直球だった。
侯爵は思わず顔をしかめる。
「責めるのか」
「責めるつもりはございません」
執事は淡々と言う。
「ですが、屋敷の者どもは以前から、ある程度は見ておりました」
侯爵は黙る。
以前、同じようなことをエレノアにも言われた記憶がある。
“使用人たちは見ている”。
その意味を、自分はちゃんと受け取らなかった。
執事は続ける。
「お嬢様が王宮や侯爵家のために、どれだけ細かなところを整えてこられたか。ミレイユ様や奥様の機嫌が悪い日ほど、誰が余計な衝突を避けるよう配っておられたか。旦那様がご存じないところで、どれだけ招待や返書を整えておられたか」
一つ一つが、侯爵の胸へ鈍く落ちていく。
「……なら、なぜ言わなかった」
思わずそう漏らすと、執事の目がほんの少しだけ伏せられた。
「言える空気ではなかったからにございます」
侯爵はその返答に、何も言えなくなった。
そうだろう。
自分自身が聞かなかったのだ。
長女の訴えも、使用人の気配も、すべて“神経質”“余計なこと”で片づけていたのだから。
そんな主人に、誰が本音を言う。
執事はそれ以上責めず、一礼した。
「失礼いたします」
扉が閉じる。
再び一人になると、書斎の空気が先ほどよりさらに重く感じられた。
後悔。
そんな言葉では足りない気がした。
侯爵は今、自分が“見るべきものを見ず、守るべきものを守らず、都合のいいほうへ流れ続けた男”だと初めて思い知っている。
そしてそのツケを払っているのは、家だけではない。
一番大きく失ったのは、自分と長女の間に残っていたかもしれない何かだったのではないか。
もし、あの舞踏会の前に一度でもきちんと向き合っていれば。
もし、ミレイユの嫉妬を“可哀想”で済ませなければ。
もし、長女の違和感を一度でも真面目に聞いていれば。
今さらそんな“もし”を数えても、何にもならない。
だが、今夜はそれしかできなかった。
一方その頃、エレノアは自室の窓辺に立って、夜の庭を見下ろしていた。
今日は少し疲れた。
マリアンヌとベルタの証言。
ミレイユの醜い本音。
侯爵家の中で、ようやく隠しきれなくなった歪み。
どれも予想していたことではあったが、実際に言葉と形を持って目の前へ出されると、やはり心は削られる。
ただ、それでも思う。
もう昔のようには傷つかない。
痛みはある。
けれど、その痛みが自分の足を止めることはない。
なぜなら、今はもう“あの家の中だけが世界ではない”と知っているからだ。
机の上には、今日公爵家から預かった資料が整然と置かれている。
明日の午前、補助室で続きを見る予定のものだ。
それを見た瞬間、不思議と呼吸が落ち着く。
新しい居場所。
新しい役目。
そして、自分の判断で関わると決めた仕事。
あの書斎で父が何を悔やんでいようと、そこへ戻ってすべてを整えてやる気はない。
それは冷たさではなく、ようやく覚えた線引きだった。
ノックのあと、侍女が温かな茶を運んでくる。
「お疲れでございましょう」
「ええ。でも大丈夫よ」
自然にそう答えてから、エレノアはふと少しだけ口元をやわらげた。
昔なら、“大丈夫”の一言はただの癖だった。
けれど今は少し違う。
本当に、以前よりは大丈夫なのだ。
支える場所があり、逃げ込めるわけではなくても、少なくとも自分の価値をそのまま置ける場所がある。
「旦那様も、今日はずいぶんお疲れのご様子でした」
侍女がぽつりと言った。
エレノアは茶器に指を添えたまま、少しだけ目を伏せる。
「……そう」
それだけ。
同情はしなかった。
けれど全く何も感じないわけでもない。
父はようやく、自分が何を見落としていたのかに気づき始めたのだろう。
それが後悔なのだとしても、遅すぎる。
それでも、気づかないままでいられるよりはましなのかもしれない。
侍女が下がったあと、エレノアは小さく息を吐く。
父の後悔は、きっと本物だ。
だが本物だからといって、失われたものが戻るわけではない。
信頼も。
親しさも。
“この人は私を守ってくれるかもしれない”という、ほんのわずかな期待も。
もう戻らない。
そしてたぶん、父自身もそのことに気づき始めている。
窓の外の夜は深い。
けれど、エレノアの胸の内は奇妙なほど静かだった。
誰かの後悔に付き合って自分まで立ち止まる必要はない。
それがようやく、骨の髄まで分かってきたからだ。
侯爵邸のどこかで、父はまだ眠れずにいるのだろう。
その想像はできた。
だが今夜、エレノアが抱くのは憐れみではなく、ただ一つの冷静な実感だけだった。
遅すぎたのだ、と。
フェルベルク侯爵が初めて一人になったのは、その日の深夜だった。
屋敷の灯りは大半が落ち、廊下を行く使用人の気配も途絶えつつある。
書斎の机には未処理の手紙がまだ何通も残っていたが、侯爵はそれに手を伸ばす気になれなかった。
南方伯家からの距離。
交易祭の共同席再考。
王妃の実家筋からの苦言。
そして、ミレイユの浅はかな告白と、ヴィオラの黙認。
ひとつずつでも胃が重くなる話ばかりなのに、それが今は全部つながって見える。
侯爵はゆっくりと椅子へ深く沈み込んだ。
書斎は静かだった。
だが、その静けさがかえって耳に痛い。
この部屋で自分は何度、エレノアの話を聞き流してきただろう。
南方伯家は形式に厳しいと。
後援先には金額以上に“下げてはいけない先”があると。
誰を先に立てるかで空気が変わると。
ミレイユの振る舞いに少し違和感があると。
そのたびに、自分はどう返した。
細かい。
神経質だ。
王太子妃候補として視野が狭くなっている。
姉なら少しは譲れ。
……譲れ。
その言葉が、今さらひどく醜く聞こえる。
「何を譲らせていたのだ、私は……」
誰に聞かせるでもなく呟く。
小物の一つや二つではない。
茶会の招待。
評判。
立場。
婚約者。
そして最後には、自分が黙って整えてきた仕事と、その成果まで。
長女は、ずっと“譲る側”に置かれていたのだ。
その異常さに、父である自分だけが気づかなかった。
いや、気づこうとしなかったのだろう。
都合がよかったからだ。
エレノアは有能だった。
王太子の隣に立っていても見苦しくない。
社交界で失言せず、必要なところではむしろ先回りして整える。
家の名を傷つけず、黙って働く。
そんな娘がいるなら、多少の不満は見ないふりをしたほうが楽だった。
そしてその一方で、後妻の娘であるミレイユは可憐で、扱いやすく、泣けば周囲が庇う。
少しぐらいわがままでも、可愛いほうを優先してやれば家庭の空気が丸く収まるような気がした。
そう思っていた。
結果はどうだ。
丸く収まるどころか、家ごと腐らせた。
侯爵は目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、幼い頃のエレノアだった。
まだ母を亡くして間もない頃。
小さな背筋をまっすぐ伸ばし、泣きたいのをこらえた顔で「大丈夫です」と答えていた娘。
その時でさえ、たぶんあの子は“大丈夫ではなかった”のだろう。
だが自分は、その我慢のよさを見て“しっかりしている”で済ませた。
それが最初の間違いだったのかもしれない。
大丈夫だと言う子を、本当に大丈夫だと扱った。
泣かない子を、傷つかない子だと決めつけた。
できる子を、もっとできて当然だと思った。
その積み重ねが、今のこれだ。
扉の向こうで、控えめなノックがした。
「旦那様」
執事の声だった。
侯爵は目を開ける。
「何だ」
「お休みになられませんか」
「……まだだ」
執事は一瞬黙ったあと、低く言った。
「お嬢様は、先ほどお休みになられました」
侯爵の指先が少しだけ動く。
エレノアのことだと、すぐに分かった。
「そうか」
「本日はお疲れのご様子でしたが、取り乱されることなく」
執事のその報告は、何気ないようでいて、侯爵には妙に刺さった。
取り乱さない。
それは昔からだ。
だからこそ、自分はずっと“まだ大丈夫だ”と思っていた。
だが本当は違ったのだろう。
取り乱さないことは、平気であることと同じではない。
「……入れ」
そう言うと、執事が静かに中へ入ってくる。
年を重ねた顔には、主人の荒れた空気に慣れた落ち着きがある。
だが今夜の侯爵は、その落ち着きが逆に痛かった。
「何か用か」
侯爵が問うと、執事は少しだけ逡巡してから答えた。
「差し出がましいことを申し上げてもよろしければ」
「何だ」
「旦那様は、ようやくお嬢様が何をなさっていたかをご覧になったのかと」
直球だった。
侯爵は思わず顔をしかめる。
「責めるのか」
「責めるつもりはございません」
執事は淡々と言う。
「ですが、屋敷の者どもは以前から、ある程度は見ておりました」
侯爵は黙る。
以前、同じようなことをエレノアにも言われた記憶がある。
“使用人たちは見ている”。
その意味を、自分はちゃんと受け取らなかった。
執事は続ける。
「お嬢様が王宮や侯爵家のために、どれだけ細かなところを整えてこられたか。ミレイユ様や奥様の機嫌が悪い日ほど、誰が余計な衝突を避けるよう配っておられたか。旦那様がご存じないところで、どれだけ招待や返書を整えておられたか」
一つ一つが、侯爵の胸へ鈍く落ちていく。
「……なら、なぜ言わなかった」
思わずそう漏らすと、執事の目がほんの少しだけ伏せられた。
「言える空気ではなかったからにございます」
侯爵はその返答に、何も言えなくなった。
そうだろう。
自分自身が聞かなかったのだ。
長女の訴えも、使用人の気配も、すべて“神経質”“余計なこと”で片づけていたのだから。
そんな主人に、誰が本音を言う。
執事はそれ以上責めず、一礼した。
「失礼いたします」
扉が閉じる。
再び一人になると、書斎の空気が先ほどよりさらに重く感じられた。
後悔。
そんな言葉では足りない気がした。
侯爵は今、自分が“見るべきものを見ず、守るべきものを守らず、都合のいいほうへ流れ続けた男”だと初めて思い知っている。
そしてそのツケを払っているのは、家だけではない。
一番大きく失ったのは、自分と長女の間に残っていたかもしれない何かだったのではないか。
もし、あの舞踏会の前に一度でもきちんと向き合っていれば。
もし、ミレイユの嫉妬を“可哀想”で済ませなければ。
もし、長女の違和感を一度でも真面目に聞いていれば。
今さらそんな“もし”を数えても、何にもならない。
だが、今夜はそれしかできなかった。
一方その頃、エレノアは自室の窓辺に立って、夜の庭を見下ろしていた。
今日は少し疲れた。
マリアンヌとベルタの証言。
ミレイユの醜い本音。
侯爵家の中で、ようやく隠しきれなくなった歪み。
どれも予想していたことではあったが、実際に言葉と形を持って目の前へ出されると、やはり心は削られる。
ただ、それでも思う。
もう昔のようには傷つかない。
痛みはある。
けれど、その痛みが自分の足を止めることはない。
なぜなら、今はもう“あの家の中だけが世界ではない”と知っているからだ。
机の上には、今日公爵家から預かった資料が整然と置かれている。
明日の午前、補助室で続きを見る予定のものだ。
それを見た瞬間、不思議と呼吸が落ち着く。
新しい居場所。
新しい役目。
そして、自分の判断で関わると決めた仕事。
あの書斎で父が何を悔やんでいようと、そこへ戻ってすべてを整えてやる気はない。
それは冷たさではなく、ようやく覚えた線引きだった。
ノックのあと、侍女が温かな茶を運んでくる。
「お疲れでございましょう」
「ええ。でも大丈夫よ」
自然にそう答えてから、エレノアはふと少しだけ口元をやわらげた。
昔なら、“大丈夫”の一言はただの癖だった。
けれど今は少し違う。
本当に、以前よりは大丈夫なのだ。
支える場所があり、逃げ込めるわけではなくても、少なくとも自分の価値をそのまま置ける場所がある。
「旦那様も、今日はずいぶんお疲れのご様子でした」
侍女がぽつりと言った。
エレノアは茶器に指を添えたまま、少しだけ目を伏せる。
「……そう」
それだけ。
同情はしなかった。
けれど全く何も感じないわけでもない。
父はようやく、自分が何を見落としていたのかに気づき始めたのだろう。
それが後悔なのだとしても、遅すぎる。
それでも、気づかないままでいられるよりはましなのかもしれない。
侍女が下がったあと、エレノアは小さく息を吐く。
父の後悔は、きっと本物だ。
だが本物だからといって、失われたものが戻るわけではない。
信頼も。
親しさも。
“この人は私を守ってくれるかもしれない”という、ほんのわずかな期待も。
もう戻らない。
そしてたぶん、父自身もそのことに気づき始めている。
窓の外の夜は深い。
けれど、エレノアの胸の内は奇妙なほど静かだった。
誰かの後悔に付き合って自分まで立ち止まる必要はない。
それがようやく、骨の髄まで分かってきたからだ。
侯爵邸のどこかで、父はまだ眠れずにいるのだろう。
その想像はできた。
だが今夜、エレノアが抱くのは憐れみではなく、ただ一つの冷静な実感だけだった。
遅すぎたのだ、と。
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