婚約破棄されたので、もう私が支えるのはやめます

ふわふわ

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第三十二話 私の選ぶ未来

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第三十二話 私の選ぶ未来

交易祭の当日、王都は朝から晴れていた。

雲ひとつない空の下、王宮前の広場には各地から運ばれた品々が整然と並び、色とりどりの天幕が風に揺れている。南方の香辛料、北部の織物、東部の金属細工、西の葡萄酒。人の声も馬のいななきも賑やかで、遠目にはまさに祝祭そのものだった。

けれど、その祝祭の裏で動く空気が、以前とは大きく違っていることを知る者は多い。

誰がどこへ立つのか。
誰が誰と挨拶を交わすのか。
どの家がどの顔ぶれと同席し、誰が自然と輪の外へ押し出されるのか。

そういう目に見えない流れこそが、今日の本当の見どころだった。

クラウゼン公爵家の控えの間で、エレノアは最後の確認書に目を通していた。

交易祭に伴う昼餐の席順。
視察順の調整。
南方伯家と東部侯家の導線。
そして、王妃側から回ってきた最終の文言修正。

補助室で積み上げてきたものが、今日ようやく表へ出る。

「問題はありませんか」

後ろからレオンハルトの声がする。

振り向くと、彼もすでに外向きの礼装に身を整えていた。いつも通り簡素だが、だからこそ揺るがない格がある。

「ええ」

エレノアは最後の紙を閉じる。

「これで整っています」

「なら十分です」

たったそれだけのやり取りなのに、胸の内が静かに落ち着く。

今日一日で何かを劇的にひっくり返す必要はない。
もう流れはできている。
あとは、それがそのまま形になるのを見届ければいい。

控えの間を出る前、レオンハルトがふとエレノアを見た。

「緊張していますか」

「少しだけ」

正直に答えると、彼はごく小さく頷く。

「それでいいでしょう」

「公爵様は?」

「していないと言えば嘘になります」

その返答が少し意外で、エレノアは目を瞬いた。

するとレオンハルトは淡々と続ける。

「今日のあなたは、侯爵家の娘でも、元婚約者でもなく、私の補佐として立つのです。見ている者は多いでしょう」

その言い方に、エレノアはゆっくり息を吸った。

私の補佐として立つ。

もうそれが自然に胸へ落ちるようになっている。
避難先でも、仮の肩書きでもない。
自分で選んで、今ここにいるのだと分かるからだ。

「でしたら、なおさら失敗できませんわね」

そう返すと、レオンハルトはほんのわずかに目元をやわらげた。

「失敗しないことより、崩れないことです」

その一言が、なぜか強く残る。

崩れないこと。

昔の自分は、失敗しないことばかり考えていた。
誰にも責められないように。
誰の機嫌も損ねないように。
完璧に見えるように。

けれど今、必要なのはそこではない。
自分の立ち位置を見失わないこと。
誰かの感情に巻き込まれて崩れないこと。
そのほうがずっと大事なのだと、ようやく分かる。

交易祭の場に姿を見せると、すぐにいくつもの視線が向いた。

王妃セシリアは中央に近い位置で、王家側の顔として堂々と立っている。
その少し後ろに、王妃付きの女官たち。
さらに南方伯家、東部侯家、各有力家の面々。

王太子アルヴィスもいた。
けれどその立ち位置は、以前とは明らかに違う。

中央ではない。
王妃のすぐそばでもない。
王家の一員としての体裁は保たれているが、核心の流れからは半歩外されている位置だ。

そしてミレイユは、さらにその後ろだった。

飾り立ててはいる。
けれど、もはや“王太子妃候補”として皆の視線を集める位置にはいない。
ただ、王太子の近くに立たされている娘の一人。
それが今の彼女の見え方だった。

ミレイユも、それを理解しているのだろう。
表情は硬く、笑みも薄い。
以前のように可憐さで押し切れると思っていない顔だ。

エレノアはその姿を見ても、胸が騒ぐことはなかった。

憎しみもない。
勝ち誇りもない。
ただ、ここまで来たのだなという静かな実感だけがあった。

王妃がまず南方伯夫人へ歩み寄り、穏やかに言葉を交わす。
そのあと自然な流れで東部侯家へ話を振り、さらにレオンハルトが加わる。

その輪へ、エレノアもごく自然に入った。

無理がない。
ぎこちなさもない。
それは、今日までに整えられてきた席順と導線と、そして自分自身の立ち位置の結果だった。

「エレノア嬢」

南方伯夫人が静かに微笑む。

「今回の導線、とても助かりましたわ」

公の場で、それを言うのかと何人かが驚いた顔をする。

だが夫人は構わない。

「人を立てる順が自然ですと、こちらも余計な構えをせずに済みますもの」

東部侯夫人も扇の陰で笑う。

「本当に。最近は“その自然さ”がどれほど貴重か、よく分かりますわ」

その一言が、少し離れた場所にいるアルヴィスとミレイユへも十分届いたはずだった。

自然さ。
立てる順。
余計な構えをせずに済む。

どれも一見すれば穏やかな言葉だ。
けれど、その裏には明らかな比較がある。

かつてそれを整えていた娘。
それを失って乱れた王太子側。
そして今、その娘が別の場所で同じ力を見せている現実。

アルヴィスの顔がかすかに強張る。

ミレイユは俯いた。

エレノアは礼を尽くして応じる。

「お役に立てたのなら何よりです」

昔なら、この場面では“もったいないお言葉です”で終えていただろう。
でも今は違う。
役に立ったなら、その事実を淡々と受け取ればいい。

それが、今の自分の立ち方だった。

祭りはその後も大きな滞りなく進んだ。

南方伯家と東部侯家は必要以上にぶつからず。
王妃側の輪は穏やかに動き。
商会の視察順も混乱せず。
来賓席では誰も露骨な不満を見せない。

つまり、成功だ。

派手な見せ場はない。
だがそれこそが、この手の場における最高の結果だった。

一方で、その“何も起きなさ”が最も鋭く突きつける事実もある。

王太子が前へ出なくても回る。
ミレイユが笑っていなくても支障はない。
そして、エレノアがいるときだけ、この“何も起きない”がひどく上質に整う。

その現実は、声に出されなくても十分に残酷だった。

昼過ぎ、視察の合間に短い休憩が入った。

中庭の一角で、エレノアはようやく一息つく。

遠くでは祭りのざわめき。
近くでは噴水の水音。
空は高く、明るい。

「疲れましたか」

隣に立ったレオンハルトが低く問う。

「少しだけ」

エレノアは正直に言う。

「でも、以前のような疲れ方ではありません」

「どう違いますか」

少し考えてから答える。

「終わってほしい疲れではなく、終わったあとに残る疲れです」

レオンハルトがわずかに首を傾ける。

「それはいい意味で?」

「ええ」

エレノアは微笑んだ。

「やるべきことをやったあとの疲れですもの」

レオンハルトはそれを聞いて、静かに頷く。

「それなら何よりです」

また、たったそれだけ。

けれど、それだけで十分だった。

少しの沈黙のあと、エレノアは自分でも驚くほど自然に言葉を口にしていた。

「公爵様」

「はい」

「私、今日でよく分かりました」

「何がです」

エレノアは中庭の光を見ながら、ゆっくりと言う。

「私はもう、誰かに選ばれるために立っていたくないのです」

レオンハルトは黙って聞いている。

「王太子に選ばれることも、家に必要とされることも、社交界に都合よく扱われることも……もう、それが私の価値ではありません」

言葉にしながら、胸の内が静かに定まっていく。

「私は、自分で選んだ場所で、自分の役目を果たしたい」

そこで初めて、レオンハルトが真正面からエレノアを見た。

その視線は静かで、けれど少しだけ熱を持っていた。

「ええ」

低い声が返る。

「それがあなたに一番似合います」

その一言に、胸の奥がやわらかく熱くなる。

似合う。
そう言われたことは、今までにもあったかもしれない。
綺麗なドレスが似合う。
王太子の隣が似合う。
侯爵令嬢らしい振る舞いが似合う。

けれど今、言われたそれは全然違う。

自分で選んだ場所で立つこと。
それが似合う、と。

それはたぶん、今まで誰もくれなかった言葉だった。

交易祭の最後、王妃は公の場で短い総括を述べた。

感謝。
各家への労い。
今年も無事に整ったことへの祝辞。

その中で王妃は、ほんの一瞬だけ、しかしはっきりとこう言った。

「人の集う場は、表から見える華やかさだけでは成り立ちません。見えぬところで支え、整える手があってこそ、はじめて穏やかに回るのです」

広場の空気がわずかに変わる。

誰も名指しはしない。
だが、誰のことか分からない者もいなかった。

エレノアは静かにその言葉を聞いた。

舞踏会の夜、何も言い返さずに去った自分。
そのあと王宮が崩れ、侯爵家が軋み、義妹の本性が露わになり、王太子が失墜し始めた。
そして今、自分は別の場所で、別の立場で、同じ“見えぬ手”を今度はきちんと自分の価値として扱われながら使っている。

それで十分だった。

祭りが終わり、夕方の公爵家の馬車に揺られながら、エレノアは窓の外に流れる王都の街を見ていた。

遠ざかる王宮。
賑わいを残した広場。
淡く染まり始めた空。

隣にはレオンハルトがいる。
けれど沈黙は気まずくない。
むしろ、今の自分に必要な余白をそのまま許してくれる沈黙だった。

やがてエレノアは小さく息を吐き、窓の外から視線を戻した。

「公爵様」

「はい」

「私、これから先も、自分で選んでいきたいと思います」

レオンハルトはわずかに目を細める。

「ええ」

「ここで働くことも」

そこで少しだけ言葉を切る。

それでも、今ならちゃんと言えた。

「……あなたの隣に立つことも」

馬車の中に、静かな沈黙が落ちる。

レオンハルトはすぐには返さなかった。
いつものように、軽く扱わないための間なのだろう。

やがて彼は低く、はっきりと言った。

「それを聞けて、嬉しい」

飾らない言い方だった。

けれど、そのぶん真っ直ぐだった。

エレノアは目を伏せ、少しだけ笑う。

胸の内に広がるのは、もう不安ではない。
喪失でも、過去への未練でもない。

自分で選び取った未来が、確かにここから始まるのだという静かな確信だった。

かつて王太子に選ばれた令嬢として生きていた娘は、もういない。
今いるのは、自分の価値を知り、自分の足で立ち、自分で未来を選ぶ女だ。

窓の外、夕空はやわらかく暮れていく。

その光の中で、エレノアはそっと胸の内で呟いた。

これが、私の選ぶ未来。
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