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第三十三話 元王太子の末路
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第三十三話 元王太子の末路
交易祭が無事に終わってから、王都の空気は一見すると落ち着きを取り戻したように見えた。
広場の天幕は片づけられ、商人たちはそれぞれの成果を抱えて帰路につき、王宮もまた次の行事へ向けて表向きは整い始める。祝祭の熱が引いたあとの街は、むしろ以前より静かですらあった。
けれど、その静けさの下では、目に見えない線引きがはっきり進んでいた。
誰を信用するか。
誰へ話を通すか。
どの家とどの程度まで深く関わるか。
その再整理が、交易祭を境に一気に進んだのだ。
そして、その中で最も冷たく扱われ始めたのが、王太子アルヴィスだった。
最初にそれを痛感したのは、交易祭の翌々日に開かれた小規模な政策確認の席だった。
王宮内の奥まった会議室。
王妃付きの女官、財務方の書記官、東部侯家の代理人、北部修道院側の連絡係――。
顔ぶれは多くないが、今後の予算と後援先を左右するには十分に重要な場である。
アルヴィスは当然のようにその席へ向かった。
王太子である以上、いまだ自分が中心だと思っていた。
少なくとも、そう扱われるべきだと。
だが会議室へ入った瞬間、彼は違和感に気づく。
机の配置が妙だった。
王太子用の中央席がない。
代わりに、正面の最上席には王妃セシリアの名札。
その左右に財務方と王妃付き女官。
侯家の代理人は少し控えた位置。
そして一番端に、申し訳程度のような空席が一つ。
「……これは何だ」
アルヴィスの声に、室内の空気がわずかに止まる。
最年長の書記官が一礼した。
「本日の確認は、王妃殿下主導の予備調整にございますので」
「だから何だ」
「殿下には、必要に応じてご意見を賜る形で」
ご意見を賜る。
つまり、主導ではない。
決定でもない。
ただ“必要に応じて口を出せる立場”へ落とされたということだ。
アルヴィスの顔が一瞬で険しくなる。
「私は王太子だぞ」
「承知しております」
またそれだ。
承知している。
だが、任せるとは言っていない。
その礼儀正しい線引きが、今のアルヴィスには何より屈辱だった。
「母上はどこにおられる」
「間もなくお越しになります」
書記官は顔も上げずに答える。
アルヴィスはしばらくその場に立ち尽くしたが、今さら席を蹴るわけにもいかず、結局一番端の席へ腰を下ろした。
その時点で、負けたようなものだった。
王妃セシリアは数分後に入室した。
誰もがすぐに立ち上がり、頭を下げる。
アルヴィスも同じように立たざるを得ない。
王妃は息子を一瞥し、それ以上何も言わずに最上席へ座った。
「始めましょう」
その一言で、会議はアルヴィスの存在を軸にせず進み始めた。
北部修道院への後援の配分。
東部の交易路整備に伴う予算再計算。
南方からの香辛料運搬に関わる関税の扱い。
どれも以前なら“王太子へ先に話を通すべき案件”として持ち込まれていたものだ。
だが今は違う。
王妃が聞き、財務が答え、女官が確認し、侯家の代理人が意見を差し挟む。
アルヴィスが口を開く余地はある。
だが、彼が開かなくても話は滞りなく進む。
それが何より残酷だった。
「その配分は少なすぎるだろう」
途中でアルヴィスが口を挟む。
北部修道院への後援額の話だった。
すぐに財務書記官が答える。
「いえ、前年と同額でございます」
「なら、なぜ問題になる」
王妃付き女官が淡々と返す。
「昨年は臨時の追加支援がございましたので、実質的には減額に見えます」
「そんなもの、説明すれば済む話だろう」
会議室の空気が少しだけ冷える。
説明すれば済む。
そういう段階は、もう過ぎているのだ。
女官は一礼した。
「説明の前に、不快にさせないのが最善かと」
アルヴィスの眉が吊り上がる。
「またその話か」
王妃がそこで初めて口を開いた。
「またその話よ」
低いが、よく通る声だった。
「あなたが何度軽んじても、必要なものは必要なのです」
会議室の空気がさらに張る。
アルヴィスは唇を噛んだ。
反論したい。
だがここで反論すれば、また“分かっていない王太子”を皆の前で重ねるだけだ。
だから彼は黙った。
そして、その黙り方さえ以前とは違っていた。
昔なら、彼が不機嫌に黙れば、誰かが気を利かせて話を整えた。
今は誰もそれをしない。
ただ、“黙ったから進めましょう”という空気で流れていく。
王太子の不機嫌すら、もう会議を止める力を持っていない。
それが、失墜だった。
会議を終えて回廊へ出たとき、アルヴィスの胸には怒りとも焦燥ともつかないものが渦巻いていた。
どうしてこうなった。
何度考えても、その問いへ戻る。
最初は簡単だったはずだ。
エレノアは冷たく、息が詰まり、ミレイユは可憐だった。
だから切って、選び直した。
そのはずなのに、今は自分のまわりに何が残っている。
冷えた視線。
王妃の静かな管理。
側近たちの礼儀正しい諫言。
そして、自分が関わるたびに空気が悪くなるという現実。
「殿下」
声をかけてきたのは、若い侍従だった。
「何だ」
苛立ったまま返すと、侍従は一瞬だけ躊躇した。
「フェルベルク家より、ご返答が届いております」
アルヴィスの足が止まる。
「……何の」
「先日、ミレイユ様にお届けした贈り物についてです」
贈り物。
思い出して、アルヴィスの顔がさらに険しくなる。
交易祭の後、気まずさを埋めるために、彼はミレイユへ高価な首飾りを贈っていた。
本心からというより、泣かれたり騒がれたりするのが面倒だったからだ。
だが、その返答がフェルベルク家から来るとはどういうことだ。
侍従が差し出した封書を開く。
中の文面は、ひどく丁寧だった。
――王太子殿下よりお贈りいただいた品について、フェルベルク侯爵家としては、現時点でミレイユ・フェルベルク嬢が公的な立場にあると認めがたく、私的な高価贈答の受領は慎ませたく存じます。
――つきましては、品はそのままお返しいたします。
――今後は家を通さぬ贈答はご遠慮願えれば幸いです。
アルヴィスはしばし、その文面を読んだまま動かなかった。
返された。
しかも、家として。
つまりフェルベルク侯爵家はもう、ミレイユと王太子の関係すら“無条件に良し”とは言えないと判断し始めているのだ。
それはミレイユの立場を守るのではなく、家としてこれ以上王太子側に巻き込まれぬよう距離を取り始めたことを意味する。
どこまで落ちれば気が済むのだ、とアルヴィスは思った。
王宮で外され。
有力家から距離を置かれ。
ついには義妹の実家からすら、贈り物を返される。
そこまで来てようやく、彼はひどく浅いところで理解する。
自分は今、皆に“避けられる側”へ回り始めているのだと。
その日の夕方、侯爵邸ではミレイユもまた別の屈辱を味わっていた。
返された首飾りは、侯爵家を経由して本人のもとへ届いた。
ヴィオラは泣きそうな顔で「今は仕方ないのよ」と言ったが、ミレイユにはその言葉がまるで入らなかった。
返された。
王太子からもらったものを、家が勝手に返した。
それはつまり、自分がもう“王太子妃候補として守る価値のある娘”ではないと家からも見られ始めたということだ。
「どうして……」
首飾りの箱を握ったまま、ミレイユは震える声で言う。
「どうして私ばかり、こんな……」
ヴィオラは娘の肩に手を置こうとしたが、ミレイユはその手を振り払った。
「お母様のせいよ!」
ヴィオラが凍りつく。
「あなたが少しならいいって言ったんじゃない!」
「ミレイユ……」
「お姉様のものを欲しがっても、可哀想だからって!」
その叫びは、半分は本音で、半分は責任転嫁だった。
だがヴィオラには言い返す力がない。
実際、自分が甘やかしたのも事実だからだ。
「私は、ただ……」
「欲しかっただけでしょう!」
ミレイユは自分でそう言って、そしてはっと息を止めた。
まただ。
また、そこへ戻る。
欲しかっただけ。
その言葉はもう、以前のように自分を正当化してくれない。
むしろ、自分の浅さと空っぽさをそのまま映す鏡になってしまっている。
ヴィオラは顔を覆い、ミレイユはその場に立ち尽くす。
二人とも、もう以前の場所へは戻れないのだと、ようやく少しずつ分かり始めていた。
一方、クラウゼン公爵家の補助室では、エレノアがその日の帳簿整理を終えようとしていた。
夕方の光が机の端に長く伸びている。
静かな部屋。
紙の匂い。
必要なものだけがある整った空間。
そこへ家令が一通の文書を持ってくる。
「旦那様、王宮側より本日の会議要旨が届いております」
レオンハルトが受け取り、ざっと目を通したあと、そのままエレノアへ渡した。
エレノアも一読し、静かに息を吐く。
「……本当に外され始めましたわね」
「ええ」
レオンハルトは短く答える。
「王妃殿下は、もう“殿下の機嫌”より“王宮が機能すること”を優先なさっている」
エレノアは紙を閉じた。
王妃は容赦がない。
だがそれは、決して冷酷だからではない。
本来の優先順位をようやく正しい位置へ戻しただけだ。
そしてその結果、王太子は静かに沈み始めている。
「これが、元の位置に戻るということなのでしょうね」
ぽつりとそう言うと、レオンハルトが視線を向ける。
「どういう意味で」
「王太子という肩書きがあれば、誰もが自然と従うと思っていた場所から、実際に何ができるかで測られる位置へ戻るという意味です」
レオンハルトは少しだけ目を細めた。
「厳しい言い方ですね」
「事実ですわ」
エレノアは穏やかに返した。
「そして、それはたぶん……私にも同じことでした」
「あなたにも?」
「以前の私は、王太子妃候補という立場で見られていた部分も多かったですもの。でも今は違う。肩書きではなく、実際に何を整えられるかで見られている」
その言葉を口にして、自分でもはっきり分かる。
だからこそ、今の自分の立ち位置は前よりずっと軽いのだ。
肩書きにぶら下がっていない。
誰かに選ばれたことで保たれているわけでもない。
自分で働き、自分で積んだものの上に立っている。
それは怖くもあるが、同時にひどく自由でもあった。
レオンハルトは静かに頷いた。
「それを理解しているから、今のあなたは強いのでしょう」
強い。
そう言われて、エレノアは少しだけ目を伏せる。
昔の自分なら、その言葉を受け取るのが怖かったかもしれない。
強いと言われれば、もっと耐えろという意味に聞こえたからだ。
けれど今は違う。
今の強さは、我慢ではなく、選ぶことから来ている。
その違いを、自分でももう分かっていた。
窓の外は少しずつ夜へ移っていく。
王太子の失墜。
義妹の断罪。
侯爵家の崩壊。
それらはどれも、もう始まっている。
そしてその始まりは、思った以上に静かで、思った以上に残酷だった。
誰も大声では断罪しない。
剣も振るわれない。
血も流れない。
ただ、必要な場から外される。
信頼を失う。
気づけば自分だけが中心から外にいる。
それこそが、貴族社会における本当の末路なのだ。
エレノアはそっと窓辺へ視線を向けた。
遠く、夕闇に沈む王都。
そのどこかで、アルヴィスはまだ自分の失墜に抗おうとしているのかもしれない。
ミレイユもまた、どうして自分ばかりと泣いているのかもしれない。
けれど、もう流れは変わらない。
誰かが支えてくれる時期は終わった。
誰かが“少しくらいなら”と見逃してくれる立場も、もう戻らない。
それが彼らの末路であり、ざまあの正体だった。
そしてエレノア自身は、そこへ引きずられることなく、今ここに立っている。
その事実が、今日の夕暮れの中で何より静かに、何より強く胸へ満ちていた。
交易祭が無事に終わってから、王都の空気は一見すると落ち着きを取り戻したように見えた。
広場の天幕は片づけられ、商人たちはそれぞれの成果を抱えて帰路につき、王宮もまた次の行事へ向けて表向きは整い始める。祝祭の熱が引いたあとの街は、むしろ以前より静かですらあった。
けれど、その静けさの下では、目に見えない線引きがはっきり進んでいた。
誰を信用するか。
誰へ話を通すか。
どの家とどの程度まで深く関わるか。
その再整理が、交易祭を境に一気に進んだのだ。
そして、その中で最も冷たく扱われ始めたのが、王太子アルヴィスだった。
最初にそれを痛感したのは、交易祭の翌々日に開かれた小規模な政策確認の席だった。
王宮内の奥まった会議室。
王妃付きの女官、財務方の書記官、東部侯家の代理人、北部修道院側の連絡係――。
顔ぶれは多くないが、今後の予算と後援先を左右するには十分に重要な場である。
アルヴィスは当然のようにその席へ向かった。
王太子である以上、いまだ自分が中心だと思っていた。
少なくとも、そう扱われるべきだと。
だが会議室へ入った瞬間、彼は違和感に気づく。
机の配置が妙だった。
王太子用の中央席がない。
代わりに、正面の最上席には王妃セシリアの名札。
その左右に財務方と王妃付き女官。
侯家の代理人は少し控えた位置。
そして一番端に、申し訳程度のような空席が一つ。
「……これは何だ」
アルヴィスの声に、室内の空気がわずかに止まる。
最年長の書記官が一礼した。
「本日の確認は、王妃殿下主導の予備調整にございますので」
「だから何だ」
「殿下には、必要に応じてご意見を賜る形で」
ご意見を賜る。
つまり、主導ではない。
決定でもない。
ただ“必要に応じて口を出せる立場”へ落とされたということだ。
アルヴィスの顔が一瞬で険しくなる。
「私は王太子だぞ」
「承知しております」
またそれだ。
承知している。
だが、任せるとは言っていない。
その礼儀正しい線引きが、今のアルヴィスには何より屈辱だった。
「母上はどこにおられる」
「間もなくお越しになります」
書記官は顔も上げずに答える。
アルヴィスはしばらくその場に立ち尽くしたが、今さら席を蹴るわけにもいかず、結局一番端の席へ腰を下ろした。
その時点で、負けたようなものだった。
王妃セシリアは数分後に入室した。
誰もがすぐに立ち上がり、頭を下げる。
アルヴィスも同じように立たざるを得ない。
王妃は息子を一瞥し、それ以上何も言わずに最上席へ座った。
「始めましょう」
その一言で、会議はアルヴィスの存在を軸にせず進み始めた。
北部修道院への後援の配分。
東部の交易路整備に伴う予算再計算。
南方からの香辛料運搬に関わる関税の扱い。
どれも以前なら“王太子へ先に話を通すべき案件”として持ち込まれていたものだ。
だが今は違う。
王妃が聞き、財務が答え、女官が確認し、侯家の代理人が意見を差し挟む。
アルヴィスが口を開く余地はある。
だが、彼が開かなくても話は滞りなく進む。
それが何より残酷だった。
「その配分は少なすぎるだろう」
途中でアルヴィスが口を挟む。
北部修道院への後援額の話だった。
すぐに財務書記官が答える。
「いえ、前年と同額でございます」
「なら、なぜ問題になる」
王妃付き女官が淡々と返す。
「昨年は臨時の追加支援がございましたので、実質的には減額に見えます」
「そんなもの、説明すれば済む話だろう」
会議室の空気が少しだけ冷える。
説明すれば済む。
そういう段階は、もう過ぎているのだ。
女官は一礼した。
「説明の前に、不快にさせないのが最善かと」
アルヴィスの眉が吊り上がる。
「またその話か」
王妃がそこで初めて口を開いた。
「またその話よ」
低いが、よく通る声だった。
「あなたが何度軽んじても、必要なものは必要なのです」
会議室の空気がさらに張る。
アルヴィスは唇を噛んだ。
反論したい。
だがここで反論すれば、また“分かっていない王太子”を皆の前で重ねるだけだ。
だから彼は黙った。
そして、その黙り方さえ以前とは違っていた。
昔なら、彼が不機嫌に黙れば、誰かが気を利かせて話を整えた。
今は誰もそれをしない。
ただ、“黙ったから進めましょう”という空気で流れていく。
王太子の不機嫌すら、もう会議を止める力を持っていない。
それが、失墜だった。
会議を終えて回廊へ出たとき、アルヴィスの胸には怒りとも焦燥ともつかないものが渦巻いていた。
どうしてこうなった。
何度考えても、その問いへ戻る。
最初は簡単だったはずだ。
エレノアは冷たく、息が詰まり、ミレイユは可憐だった。
だから切って、選び直した。
そのはずなのに、今は自分のまわりに何が残っている。
冷えた視線。
王妃の静かな管理。
側近たちの礼儀正しい諫言。
そして、自分が関わるたびに空気が悪くなるという現実。
「殿下」
声をかけてきたのは、若い侍従だった。
「何だ」
苛立ったまま返すと、侍従は一瞬だけ躊躇した。
「フェルベルク家より、ご返答が届いております」
アルヴィスの足が止まる。
「……何の」
「先日、ミレイユ様にお届けした贈り物についてです」
贈り物。
思い出して、アルヴィスの顔がさらに険しくなる。
交易祭の後、気まずさを埋めるために、彼はミレイユへ高価な首飾りを贈っていた。
本心からというより、泣かれたり騒がれたりするのが面倒だったからだ。
だが、その返答がフェルベルク家から来るとはどういうことだ。
侍従が差し出した封書を開く。
中の文面は、ひどく丁寧だった。
――王太子殿下よりお贈りいただいた品について、フェルベルク侯爵家としては、現時点でミレイユ・フェルベルク嬢が公的な立場にあると認めがたく、私的な高価贈答の受領は慎ませたく存じます。
――つきましては、品はそのままお返しいたします。
――今後は家を通さぬ贈答はご遠慮願えれば幸いです。
アルヴィスはしばし、その文面を読んだまま動かなかった。
返された。
しかも、家として。
つまりフェルベルク侯爵家はもう、ミレイユと王太子の関係すら“無条件に良し”とは言えないと判断し始めているのだ。
それはミレイユの立場を守るのではなく、家としてこれ以上王太子側に巻き込まれぬよう距離を取り始めたことを意味する。
どこまで落ちれば気が済むのだ、とアルヴィスは思った。
王宮で外され。
有力家から距離を置かれ。
ついには義妹の実家からすら、贈り物を返される。
そこまで来てようやく、彼はひどく浅いところで理解する。
自分は今、皆に“避けられる側”へ回り始めているのだと。
その日の夕方、侯爵邸ではミレイユもまた別の屈辱を味わっていた。
返された首飾りは、侯爵家を経由して本人のもとへ届いた。
ヴィオラは泣きそうな顔で「今は仕方ないのよ」と言ったが、ミレイユにはその言葉がまるで入らなかった。
返された。
王太子からもらったものを、家が勝手に返した。
それはつまり、自分がもう“王太子妃候補として守る価値のある娘”ではないと家からも見られ始めたということだ。
「どうして……」
首飾りの箱を握ったまま、ミレイユは震える声で言う。
「どうして私ばかり、こんな……」
ヴィオラは娘の肩に手を置こうとしたが、ミレイユはその手を振り払った。
「お母様のせいよ!」
ヴィオラが凍りつく。
「あなたが少しならいいって言ったんじゃない!」
「ミレイユ……」
「お姉様のものを欲しがっても、可哀想だからって!」
その叫びは、半分は本音で、半分は責任転嫁だった。
だがヴィオラには言い返す力がない。
実際、自分が甘やかしたのも事実だからだ。
「私は、ただ……」
「欲しかっただけでしょう!」
ミレイユは自分でそう言って、そしてはっと息を止めた。
まただ。
また、そこへ戻る。
欲しかっただけ。
その言葉はもう、以前のように自分を正当化してくれない。
むしろ、自分の浅さと空っぽさをそのまま映す鏡になってしまっている。
ヴィオラは顔を覆い、ミレイユはその場に立ち尽くす。
二人とも、もう以前の場所へは戻れないのだと、ようやく少しずつ分かり始めていた。
一方、クラウゼン公爵家の補助室では、エレノアがその日の帳簿整理を終えようとしていた。
夕方の光が机の端に長く伸びている。
静かな部屋。
紙の匂い。
必要なものだけがある整った空間。
そこへ家令が一通の文書を持ってくる。
「旦那様、王宮側より本日の会議要旨が届いております」
レオンハルトが受け取り、ざっと目を通したあと、そのままエレノアへ渡した。
エレノアも一読し、静かに息を吐く。
「……本当に外され始めましたわね」
「ええ」
レオンハルトは短く答える。
「王妃殿下は、もう“殿下の機嫌”より“王宮が機能すること”を優先なさっている」
エレノアは紙を閉じた。
王妃は容赦がない。
だがそれは、決して冷酷だからではない。
本来の優先順位をようやく正しい位置へ戻しただけだ。
そしてその結果、王太子は静かに沈み始めている。
「これが、元の位置に戻るということなのでしょうね」
ぽつりとそう言うと、レオンハルトが視線を向ける。
「どういう意味で」
「王太子という肩書きがあれば、誰もが自然と従うと思っていた場所から、実際に何ができるかで測られる位置へ戻るという意味です」
レオンハルトは少しだけ目を細めた。
「厳しい言い方ですね」
「事実ですわ」
エレノアは穏やかに返した。
「そして、それはたぶん……私にも同じことでした」
「あなたにも?」
「以前の私は、王太子妃候補という立場で見られていた部分も多かったですもの。でも今は違う。肩書きではなく、実際に何を整えられるかで見られている」
その言葉を口にして、自分でもはっきり分かる。
だからこそ、今の自分の立ち位置は前よりずっと軽いのだ。
肩書きにぶら下がっていない。
誰かに選ばれたことで保たれているわけでもない。
自分で働き、自分で積んだものの上に立っている。
それは怖くもあるが、同時にひどく自由でもあった。
レオンハルトは静かに頷いた。
「それを理解しているから、今のあなたは強いのでしょう」
強い。
そう言われて、エレノアは少しだけ目を伏せる。
昔の自分なら、その言葉を受け取るのが怖かったかもしれない。
強いと言われれば、もっと耐えろという意味に聞こえたからだ。
けれど今は違う。
今の強さは、我慢ではなく、選ぶことから来ている。
その違いを、自分でももう分かっていた。
窓の外は少しずつ夜へ移っていく。
王太子の失墜。
義妹の断罪。
侯爵家の崩壊。
それらはどれも、もう始まっている。
そしてその始まりは、思った以上に静かで、思った以上に残酷だった。
誰も大声では断罪しない。
剣も振るわれない。
血も流れない。
ただ、必要な場から外される。
信頼を失う。
気づけば自分だけが中心から外にいる。
それこそが、貴族社会における本当の末路なのだ。
エレノアはそっと窓辺へ視線を向けた。
遠く、夕闇に沈む王都。
そのどこかで、アルヴィスはまだ自分の失墜に抗おうとしているのかもしれない。
ミレイユもまた、どうして自分ばかりと泣いているのかもしれない。
けれど、もう流れは変わらない。
誰かが支えてくれる時期は終わった。
誰かが“少しくらいなら”と見逃してくれる立場も、もう戻らない。
それが彼らの末路であり、ざまあの正体だった。
そしてエレノア自身は、そこへ引きずられることなく、今ここに立っている。
その事実が、今日の夕暮れの中で何より静かに、何より強く胸へ満ちていた。
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セリーナは結婚式の前日に婚約者に「他に愛する人がいる」と告げられた。うすうす気づいていたがその言葉に深く傷つく。それでも彼が好きで結婚を止めたいとは思わなかった。(身勝手な言い分が出てきます。不快な気持ちになりそうでしたらブラウザバックでお願いします。)矛盾や違和感はスルーしてお読みいただけると助かります。
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