婆になる前に、嫁に行きます ――私が下賜を受け入れた理由――

ふわふわ

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第15話 侯爵夫人として扱われる日

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第15話 侯爵夫人として扱われる日

アークトゥルス侯爵の不在が長期化するにつれ、
屋敷の中でタニアの呼ばれ方が、いつの間にか変わっていた。

「奥様」
「ご判断を仰ぎます」
「こちらにご署名を」

その言葉に、誰も違和感を覚えなくなっている。

正式な婚礼はない。
だが、役割はすでに定まっていた。

その日、屋敷に招かれたのは、近隣領主の使者だった。
名目は、境界の水利に関する確認。

本来なら、侯爵本人が応じる案件だ。

応接室に通された使者は、
室内を見回し、タニアに視線を向けた。

「……失礼ながら、
侯爵様はご不在と伺っておりますが」

「はい。現在、戦場にございます」

「では、こちらの件は――」

「私が承ります」

迷いのない声だった。

使者は一瞬、戸惑ったが、
すぐに姿勢を正す。

「承知いたしました。
では、侯爵夫人様」

その呼び方に、
室内の空気が微かに動いた。

タニアは、訂正しなかった。

否定する理由が、
もはやなかったからだ。

交渉は、滞りなく進んだ。

相手の要求は、
決して無理なものではない。

だが、
一部に曖昧な表現が含まれている。

「こちらの条文ですが、
解釈の余地がございますね」

タニアは、静かに指摘する。

「将来、争いの種になりかねません。
この表現に改めましょう」

提示された修正案に、
使者は目を見張った。

実務を知っている者の言葉だ。

「……失礼ながら、
よくご存じで」

「必要だっただけです」

それ以上、語らない。

交渉は成立し、
使者は深く頭を下げて去っていった。

その背中を見送りながら、
侍女長が小さく息を吐く。

「皆、
もう疑っておりません」

「何を、ですか」

「奥様が、
この屋敷の女主人であることを」

タニアは、少しだけ視線を落とす。

嬉しくはない。
だが、不快でもない。

それは、
生き残りの証だからだ。

午後、
使用人の配置替えが滞りなく行われる。

不満の声は、
ほとんど上がらなかった。

理由は明白だ。

――決定が、公平だから。

えこひいきはしない。
感情で切らない。
実績と記録だけを見る。

それを、
皆が理解している。

夕刻、
帳簿を整理し終えたタニアは、
一通の報告書を封に入れた。

アークへの報告。

内容は簡潔だ。

屋敷は安定している。
問題は管理下にある。
判断に迷う点はない。

それだけ。

自分がどれほど働いたかは、
書かない。

評価は、
受けるものではなく、
結果で示すものだ。

夜、
屋敷の灯りが落ちた後、
タニアは一人、庭に出た。

風が、
少し冷たい。

空を見上げる。

後宮にいた頃、
空はいつも遠かった。

高い塀の向こうにあり、
自分とは関係のないものだった。

今は違う。

ここでは、
空はただの空だ。

生きている場所の、
上にあるもの。

「……悪くない」

小さく呟き、
タニアは微笑まなかった。

満足はしていない。
だが、後悔もしていない。

婆になる前に、
行き先を選んだ。

その判断は、
今のところ、
間違っていない。

アークが戻ったとき、
彼は何を思うだろうか。

だが、
その答えを恐れる必要はない。

なぜなら――

彼女はもう、
捨てられる側ではない
のだから。
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