16 / 39
第16話 戻らぬ主、揺れる屋敷
しおりを挟む
第16話 戻らぬ主、揺れる屋敷
アークトゥルス侯爵の帰還予定日は、
いつの間にか帳簿から消えていた。
戦場から届く報せは断片的で、
勝敗も、損害も、詳細は伏せられている。
「まだ……戻られないのですか」
侍女の問いに、
タニアは首を横に振った。
「戦は、生き物です。
予定通りに終わる方が、稀でしょう」
それは、
自分に言い聞かせる言葉でもあった。
主が不在の期間が延びるほど、
屋敷の中には、別の空気が生まれる。
不満ではない。
不安だ。
――このまま、
戻らなかったら?
誰も口には出さない。
だが、
その問いは確実に広がっていた。
ある夜、
タニアは帳簿を確認していて、
小さな異変に気づく。
支出は問題ない。
収入も、安定している。
だが、
一部の取引先が、様子見を始めている。
支払いが遅れる。
返事が鈍る。
それは、
屋敷の女主人が“正式ではない”
という認識の表れだった。
――試されている。
タニアは、
その事実を冷静に受け止める。
翌日、
彼女は使者を走らせた。
相手は、
最も古く、
最も実務的な取引先。
「条件の再確認を」
形式的な理由だ。
だが、
実際には――
関係の再構築。
応接室で向かい合った商人は、
慎重な目をしていた。
「侯爵様が不在と聞き及んでおります」
「はい。
ですが、契約は有効です」
「もちろん。
ただ……」
言葉を濁す商人に、
タニアは資料を差し出した。
最新の帳簿。
署名。
封印。
「こちらは、
すべて私の責任で処理しております」
「……全権で?」
「はい」
一瞬の沈黙。
商人は、
深く息を吐いた。
「失礼しました。
我々の不安は、
杞憂だったようですね」
その場で、
取引は更新された。
屋敷に戻ると、
使用人たちの視線が変わる。
――あの人は、
主がいなくても、
屋敷を守れる。
その評価は、
安心を生んだ。
だが同時に、
別の感情も芽生える。
――この女は、
どこまで権限を持つのか。
夕方、
一人の使用人が進言してきた。
「奥様、
侯爵様のご不在が長引いております。
いっそ……」
言葉を濁す。
「続けてください」
「正式な婚姻の話を、
進められては……」
タニアは、
一瞬だけ目を伏せた。
それは、
避けてきた話題だった。
婚姻は、
保護であり、
同時に拘束でもある。
「今は、
その時ではありません」
静かな拒否。
「ですが……」
「今は」
重ねて言う。
使用人は、
それ以上何も言わなかった。
夜、
タニアは一人、
執務室に残る。
机の上には、
アークからの最後の書簡。
短い文字。
――任せる。
その言葉の重さを、
今、改めて感じていた。
もし、
彼が戻らなければ。
その時、
自分はどうするのか。
答えは、
すでにある。
――生き残る。
誰かの帰還を、
前提にしない。
それが、
後宮で学んだ、
最も大切な教訓だった。
タニアは、
静かに灯りを消す。
主が戻らなくても、
屋敷は揺れない。
そう証明することが、
今の彼女の役目だった。
そしてそれは、
誰かの妻になる前に、
一人の人間として立つ
という選択でもあった。
アークトゥルス侯爵の帰還予定日は、
いつの間にか帳簿から消えていた。
戦場から届く報せは断片的で、
勝敗も、損害も、詳細は伏せられている。
「まだ……戻られないのですか」
侍女の問いに、
タニアは首を横に振った。
「戦は、生き物です。
予定通りに終わる方が、稀でしょう」
それは、
自分に言い聞かせる言葉でもあった。
主が不在の期間が延びるほど、
屋敷の中には、別の空気が生まれる。
不満ではない。
不安だ。
――このまま、
戻らなかったら?
誰も口には出さない。
だが、
その問いは確実に広がっていた。
ある夜、
タニアは帳簿を確認していて、
小さな異変に気づく。
支出は問題ない。
収入も、安定している。
だが、
一部の取引先が、様子見を始めている。
支払いが遅れる。
返事が鈍る。
それは、
屋敷の女主人が“正式ではない”
という認識の表れだった。
――試されている。
タニアは、
その事実を冷静に受け止める。
翌日、
彼女は使者を走らせた。
相手は、
最も古く、
最も実務的な取引先。
「条件の再確認を」
形式的な理由だ。
だが、
実際には――
関係の再構築。
応接室で向かい合った商人は、
慎重な目をしていた。
「侯爵様が不在と聞き及んでおります」
「はい。
ですが、契約は有効です」
「もちろん。
ただ……」
言葉を濁す商人に、
タニアは資料を差し出した。
最新の帳簿。
署名。
封印。
「こちらは、
すべて私の責任で処理しております」
「……全権で?」
「はい」
一瞬の沈黙。
商人は、
深く息を吐いた。
「失礼しました。
我々の不安は、
杞憂だったようですね」
その場で、
取引は更新された。
屋敷に戻ると、
使用人たちの視線が変わる。
――あの人は、
主がいなくても、
屋敷を守れる。
その評価は、
安心を生んだ。
だが同時に、
別の感情も芽生える。
――この女は、
どこまで権限を持つのか。
夕方、
一人の使用人が進言してきた。
「奥様、
侯爵様のご不在が長引いております。
いっそ……」
言葉を濁す。
「続けてください」
「正式な婚姻の話を、
進められては……」
タニアは、
一瞬だけ目を伏せた。
それは、
避けてきた話題だった。
婚姻は、
保護であり、
同時に拘束でもある。
「今は、
その時ではありません」
静かな拒否。
「ですが……」
「今は」
重ねて言う。
使用人は、
それ以上何も言わなかった。
夜、
タニアは一人、
執務室に残る。
机の上には、
アークからの最後の書簡。
短い文字。
――任せる。
その言葉の重さを、
今、改めて感じていた。
もし、
彼が戻らなければ。
その時、
自分はどうするのか。
答えは、
すでにある。
――生き残る。
誰かの帰還を、
前提にしない。
それが、
後宮で学んだ、
最も大切な教訓だった。
タニアは、
静かに灯りを消す。
主が戻らなくても、
屋敷は揺れない。
そう証明することが、
今の彼女の役目だった。
そしてそれは、
誰かの妻になる前に、
一人の人間として立つ
という選択でもあった。
8
あなたにおすすめの小説
「身分が違う」って言ったのはそっちでしょ?今さら泣いても遅いです
ほーみ
恋愛
「お前のような平民と、未来を共にできるわけがない」
その言葉を最後に、彼は私を冷たく突き放した。
──王都の学園で、私は彼と出会った。
彼の名はレオン・ハイゼル。王国の名門貴族家の嫡男であり、次期宰相候補とまで呼ばれる才子。
貧しい出自ながら奨学生として入学した私・リリアは、最初こそ彼に軽んじられていた。けれど成績で彼を追い抜き、共に課題をこなすうちに、いつしか惹かれ合うようになったのだ。
両親に溺愛されて育った妹の顛末
葉柚
恋愛
皇太子妃になるためにと厳しく育てられた私、エミリアとは違い、本来私に与えられるはずだった両親からの愛までも注ぎ込まれて溺愛され育てられた妹のオフィーリア。
オフィーリアは両親からの過剰な愛を受けて愛らしく育ったが、過剰な愛を受けて育ったために次第に世界は自分のためにあると勘違いするようになってしまい……。
「お姉さまはずるいわ。皇太子妃になっていずれはこの国の妃になるのでしょう?」
「私も、この国の頂点に立つ女性になりたいわ。」
「ねえ、お姉さま。私の方が皇太子妃に相応しいと思うの。代わってくださらない?」
妹の要求は徐々にエスカレートしていき、最後には……。
「お前とは結婚できない」って言ったのはそっちでしょ?なのに今さら嫉妬しないで
ほーみ
恋愛
王都ベルセリオ、冬の終わり。
辺境領主の娘であるリリアーナ・クロフォードは、煌びやかな社交界の片隅で、ひとり静かにグラスを傾けていた。
この社交界に参加するのは久しぶり。3年前に婚約破棄された時、彼女は王都から姿を消したのだ。今日こうして戻ってきたのは、王女の誕生祝賀パーティに招かれたからに過ぎない。
「リリアーナ……本当に、君なのか」
――来た。
その声を聞いた瞬間、胸の奥が冷たく凍るようだった。
振り向けば、金髪碧眼の男――エリオット・レインハルト。かつての婚約者であり、王家の血を引く名家レインハルト公爵家の嫡男。
「……お久しぶりですね、エリオット様」
私を見下していた婚約者が破滅する未来が見えましたので、静かに離縁いたします
ほーみ
恋愛
その日、私は十六歳の誕生日を迎えた。
そして目を覚ました瞬間――未来の記憶を手に入れていた。
冷たい床に倒れ込んでいる私の姿。
誰にも手を差し伸べられることなく、泥水をすするように生きる未来。
それだけなら、まだ耐えられたかもしれない。
だが、彼の言葉は、決定的だった。
「――君のような役立たずが、僕の婚約者だったことが恥ずかしい」
悪役令嬢として断罪? 残念、全員が私を庇うので処刑されませんでした
ゆっこ
恋愛
豪奢な大広間の中心で、私はただひとり立たされていた。
玉座の上には婚約者である王太子・レオンハルト殿下。その隣には、涙を浮かべながら震えている聖女――いえ、平民出身の婚約者候補、ミリア嬢。
そして取り巻くように並ぶ廷臣や貴族たちの視線は、一斉に私へと向けられていた。
そう、これは断罪劇。
「アリシア・フォン・ヴァレンシュタイン! お前は聖女ミリアを虐げ、幾度も侮辱し、王宮の秩序を乱した。その罪により、婚約破棄を宣告し、さらには……」
殿下が声を張り上げた。
「――処刑とする!」
広間がざわめいた。
けれど私は、ただ静かに微笑んだ。
(あぁ……やっぱり、来たわね。この展開)
【完結】婚約者の義妹と恋に落ちたので婚約破棄した処、「妃教育の修了」を条件に結婚が許されたが結果が芳しくない。何故だ?同じ高位貴族だろう?
つくも茄子
恋愛
国王唯一の王子エドワード。
彼は婚約者の公爵令嬢であるキャサリンを公の場所で婚約破棄を宣言した。
次の婚約者は恋人であるアリス。
アリスはキャサリンの義妹。
愛するアリスと結婚するには「妃教育を修了させること」だった。
同じ高位貴族。
少し頑張ればアリスは直ぐに妃教育を終了させると踏んでいたが散々な結果で終わる。
八番目の教育係も辞めていく。
王妃腹でないエドワードは立太子が遠のく事に困ってしまう。
だが、エドワードは知らなかった事がある。
彼が事実を知るのは何時になるのか……それは誰も知らない。
他サイトにも公開中。
悪役令嬢は永眠しました
詩海猫(8/29書籍発売)
ファンタジー
「お前のような女との婚約は破棄だっ、ロザリンダ・ラクシエル!だがお前のような女でも使い道はある、ジルデ公との縁談を調えてやった!感謝して公との間に沢山の子を産むがいい!」
長年の婚約者であった王太子のこの言葉に気を失った公爵令嬢・ロザリンダ。
だが、次に目覚めた時のロザリンダの魂は別人だった。
ロザリンダとして目覚めた木の葉サツキは、ロザリンダの意識がショックのあまり永遠の眠りについてしまったことを知り、「なぜロザリンダはこんなに努力してるのに周りはクズばっかりなの?まかせてロザリンダ!きっちりお返ししてあげるからね!」
*思いつきでプロットなしで書き始めましたが結末は決めています。暗い展開の話を書いているとメンタルにもろに影響して生活に支障が出ることに気付きました。定期的に強気主人公を暴れさせないと(?)書き続けるのは不可能なようなのでメンタル状態に合わせて書けるものから書いていくことにします、ご了承下さいm(_ _)m
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる