婆になる前に、嫁に行きます ――私が下賜を受け入れた理由――

ふわふわ

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第22話 正妻という言葉

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第22話 正妻という言葉

アークトゥルス侯爵の怪我が癒えはじめる頃、
屋敷の中に、ある言葉が戻ってきた。

それは、誰かが宣言したわけではない。
通達も、命令もない。

ただ、自然に――
まるで最初からそうであったかのように。

「正妻様」

その呼び方が、
朝の廊下で、
昼の執務室で、
夕刻の庭で、
使われるようになっていた。

タニアは、
最初の数度は聞き流した。

訂正もしない。
肯定もしない。

だが、
その呼び方は消えなかった。

理由は、明白だ。

彼女が、
正妻としての役割を果たしていた
からである。

午前、
屋敷の財務報告が行われる。

アークが同席する中、
タニアが説明を担当する。

数字は、
彼女の判断で動いたものだ。

配置換え。
支出の抑制。
取引条件の見直し。

すべて、
彼女の署名がある。

「異論は?」

アークが問い、
誰も口を開かない。

それが、
答えだった。

昼過ぎ、
使用人の一人が不正を疑われる案件が持ち上がる。

証拠は揃っている。
だが、
情状を汲めば、
即座の処断は避けられる。

「どうする」

アークは、
タニアに視線を向ける。

判断を、
委ねている。

「配置転換と、
監督強化で十分です」

「理由は?」

「この屋敷にとって、
切るより、
使う方が損が少ない」

感情は、
一切含まれていない。

アークは、
短く頷いた。

「その通りだ」

処断は、
彼女の言葉通りに決まった。

その場にいた使用人たちは、
はっきりと理解した。

――この屋敷で、
最終判断を下すのは、
この二人だ。

午後、
中央からの文書が届く。

内容は、
形式的な婚姻の確認。

「侯爵家における女主人の立場を、
明確にせよ」

それは、
命令ではない。

だが、
無視できるものでもない。

アークは、
文書を机に置き、
タニアを見る。

「どう思う」

問いは、
彼女の意思を
確かめるものだった。

タニアは、
しばらく考え、
静かに答える。

「形式は、
必要でしょう」

「だが――」

一呼吸置く。

「私が望むのは、
肩書きではありません」

アークは、
黙って聞いている。

「判断に関われること。
責任を負えること。
それが保証されるなら、
形式には従います」

それは、
条件提示だった。

媚びでも、
拒絶でもない。

アークは、
少しだけ口元を緩める。

「十分だ」

それ以上、
言葉は要らなかった。

夕刻、
庭を歩きながら、
タニアはふと立ち止まる。

後宮にいた頃、
正妻という言葉は、
遠く、
重く、
自分とは無縁だった。

今は違う。

それは、
奪われるものでも、
与えられるものでもない。

――積み重ねた結果だ。

夜、
侍女長が控えめに言う。

「皆、
もう迷っておりません」

「何を、ですか」

「奥様が、
この屋敷の正妻であることを」

タニアは、
小さく息を吐いた。

それは、
喜びではない。

だが、
拒否する理由もない。

婆になる前に、
行き先を選んだ。

今は、
その場所で
名を持つ女になった。

そしてそれは、
終着点ではない。

ここから先も、
彼女は判断し続ける。

正妻という言葉に、
縛られるためではなく――
それを使うために。

タニアは、
静かに夜の帳に身を委ねた。
アークトゥルス侯爵の怪我が癒えはじめる頃、
屋敷の中に、ある言葉が戻ってきた。

それは、誰かが宣言したわけではない。
通達も、命令もない。

ただ、自然に――
まるで最初からそうであったかのように。

「正妻様」

その呼び方が、
朝の廊下で、
昼の執務室で、
夕刻の庭で、
使われるようになっていた。

タニアは、
最初の数度は聞き流した。

訂正もしない。
肯定もしない。

だが、
その呼び方は消えなかった。

理由は、明白だ。

彼女が、
正妻としての役割を果たしていた
からである。

午前、
屋敷の財務報告が行われる。

アークが同席する中、
タニアが説明を担当する。

数字は、
彼女の判断で動いたものだ。

配置換え。
支出の抑制。
取引条件の見直し。

すべて、
彼女の署名がある。

「異論は?」

アークが問い、
誰も口を開かない。

それが、
答えだった。

昼過ぎ、
使用人の一人が不正を疑われる案件が持ち上がる。

証拠は揃っている。
だが、
情状を汲めば、
即座の処断は避けられる。

「どうする」

アークは、
タニアに視線を向ける。

判断を、
委ねている。

「配置転換と、
監督強化で十分です」

「理由は?」

「この屋敷にとって、
切るより、
使う方が損が少ない」

感情は、
一切含まれていない。

アークは、
短く頷いた。

「その通りだ」

処断は、
彼女の言葉通りに決まった。

その場にいた使用人たちは、
はっきりと理解した。

――この屋敷で、
最終判断を下すのは、
この二人だ。

午後、
中央からの文書が届く。

内容は、
形式的な婚姻の確認。

「侯爵家における女主人の立場を、
明確にせよ」

それは、
命令ではない。

だが、
無視できるものでもない。

アークは、
文書を机に置き、
タニアを見る。

「どう思う」

問いは、
彼女の意思を
確かめるものだった。

タニアは、
しばらく考え、
静かに答える。

「形式は、
必要でしょう」

「だが――」

一呼吸置く。

「私が望むのは、
肩書きではありません」

アークは、
黙って聞いている。

「判断に関われること。
責任を負えること。
それが保証されるなら、
形式には従います」

それは、
条件提示だった。

媚びでも、
拒絶でもない。

アークは、
少しだけ口元を緩める。

「十分だ」

それ以上、
言葉は要らなかった。

夕刻、
庭を歩きながら、
タニアはふと立ち止まる。

後宮にいた頃、
正妻という言葉は、
遠く、
重く、
自分とは無縁だった。

今は違う。

それは、
奪われるものでも、
与えられるものでもない。

――積み重ねた結果だ。

夜、
侍女長が控えめに言う。

「皆、
もう迷っておりません」

「何を、ですか」

「奥様が、
この屋敷の正妻であることを」

タニアは、
小さく息を吐いた。

それは、
喜びではない。

だが、
拒否する理由もない。

婆になる前に、
行き先を選んだ。

今は、
その場所で
名を持つ女になった。

そしてそれは、
終着点ではない。

ここから先も、
彼女は判断し続ける。

正妻という言葉に、
縛られるためではなく――
それを使うために。

タニアは、
静かに夜の帳に身を委ねた。
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