働いたら負けって、もう負けてますわ。 ―お小遣い制侯爵様は、奥様が怖い―』

ふわふわ

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第八話 甘い申し出

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第八話 甘い申し出

 夜会から数日後。

 エルミリアは王都の中心にある老舗の喫茶室に足を運んでいた。

 重厚な木製の扉、落ち着いた照明。ここは商家や上流貴族が密談に使う場所として知られている。

 指定された個室に入ると、すでに一人の女性が座っていた。

 艶やかな黒髪に、深い紫のドレス。姿勢はまっすぐで、視線は鋭い。

「初めてお目にかかりますわね、エルミリア様」

 穏やかな笑み。

 だが、その目は笑っていない。

「ヴィオレーヌ・カザンと申します」

 商人の娘。

 噂は聞いていた。

 カザン商会の一人娘。父の右腕とまで言われる存在。

「ご丁寧に」

 エルミリアは向かいに座る。

 紅茶が運ばれる。

 香りは上質だ。

「単刀直入に申し上げます」

 ヴィオレーヌはカップに手を伸ばしながら言った。

「ラトゥール家の資金繰りは、かなり厳しいですわ」

 隠さない。

 遠回しにもしない。

「ご存じで?」

「ある程度は」

「でしたら話は早いですわ」

 彼女は指先でテーブルを軽く叩く。

「父はラトゥール家に資金を出す予定です」

「融資、でございますか」

「いえ」

 微笑む。

「投資です」

 その言い方は、はっきりしていた。

「投資とは」

「将来の見返りを見込んで、でございます」

 彼女は続ける。

「侯爵家の名、社交界の立場、そして将来的な利権」

 なるほど、とエルミリアは思う。

 これは単なる救済ではない。

 取り込む、ということだ。

「ギヨーム様は、そのお話をご存じで?」

「もちろん」

 ヴィオレーヌは頷く。

「彼は“助けてくれる存在”を必要としておりますもの」

 その言葉に棘はない。

 ただ事実があるだけだ。

「そして、エルミリア様」

 視線が向く。

「あなたは金を回さない」

 静かな断言。

「回さぬのではなく、条件を整えたいだけでございます」

「同じことですわ」

 ヴィオレーヌは即座に返す。

「今、必要なのは流動性。理屈ではございません」

「流動性は、計画と共にあるべきでございます」

「計画は後から整えられます」

「整えられなかった例を、私は多く知っております」

 沈黙。

 二人の視線がぶつかる。

「あなたは優秀でいらっしゃる」

 ヴィオレーヌは素直に言った。

「ですが、優秀であることと、選ばれることは別ですわ」

「選ばれる?」

「ええ」

 彼女は紅茶を一口含む。

「彼は、支えてくれる者を選ぶ」

 その言葉は、ほぼ宣言だった。

「つまり」

「近いうちに、婚約は解消されるでしょう」

 はっきりと。

 濁さず。

 エルミリアは驚かない。

 ただ、静かに問い返す。

「その後は」

「私が婚約者になります」

 迷いはない。

「父はそれを望んでおりますし、私も合理的だと考えております」

「合理的」

「侯爵家の名は価値がある。カザン商会の資金も価値がある。互いに利がある」

 それは理屈としては正しい。

 だが。

「彼は、それを理解しておりますか」

「理解する必要はございません」

 即答だった。

「理解は、私がいたします」

 静かだが、強い。

「あなたは彼を支えるのではなく、管理なさるおつもりで」

「管理とは、安定させることですわ」

 ヴィオレーヌは微笑む。

「お小遣い帳が書けないなら、私が教えて差し上げます」

 その言葉に、皮肉はない。

 本気だ。

「どうしてもできないなら?」

「私が管理いたします」

 完全に、実権を握る構図。

「あなたは、彼を愛しておいでで?」

 エルミリアは静かに問う。

 ヴィオレーヌは一瞬だけ考える。

「必要であれば、愛しますわ」

 その答えは、商人らしい。

「感情は後からついてきます」

 合理。

 徹底している。

「エルミリア様」

 彼女は立ち上がる。

「あなたは優秀すぎました」

「……」

「彼は、楽をしたいのです」

 静かな一言。

 そして去っていく。

 個室に一人残ったエルミリアは、カップを手に取る。

 紅茶は少し冷めていた。

「優秀すぎる、か」

 それは褒め言葉ではない。

 価値観の不一致。

 彼は“支えてくれる存在”を求める。

 彼女は“共に責任を負う存在”であろうとした。

 違う。

 決定的に。

 エルミリアはカップを置く。

 窓の外には、王都の街並みが広がっている。

 金は流れる。

 名は売られる。

 立場は買われる。

 そして、誇りは試される。

 婚約は、もう長くはない。

 そう確信しながら、彼女は静かに席を立った。
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