婚約破棄は、他人事ですので

ふわふわ

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第三十二話 察してしまうということ

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第三十二話 察してしまうということ

 待つことは、アバンダンティアにとって特別な負担ではなかった。
 感情の起伏に振り回されるよりも、状況がどの方向へ動こうとしているのかを静かに観測するほうが、彼女にはずっと自然だった。

 だからこそ――
 彼女は、察してしまった。

 マーキュリーからの返答は、まだ届いていない。
 だが、その沈黙そのものが、彼女にとっては一つの情報だった。

(考えている。
 そして、決めきれていない)

 人は、本当に重要な選択を前にしたときほど、言葉を失う。
 早く答えが出ないのは、どちらも手放したくないからだ。

 その日、アバンダンティアは一人で王都の図書館を訪れていた。
 予定に組み込まれていたわけではないが、迷ったとき、思考を整理したいとき、彼女の足は自然とこの場所に向かう。

 高い天井。
 整然と並ぶ書架。
 人の感情が介在しない、静かな空間。

 ここでは、誰も期待を押し付けない。
 誰も「婚約者としてどうあるべきか」を語らない。

(余計な前提がない場所は、思考が澄みますわね)

 窓際の席に腰を下ろし、一冊の本を手に取る。
 王国史における婚姻政策と同盟関係の変遷をまとめた、やや硬い内容の書物だった。

 そこに並ぶのは、愛の物語ではない。
 誰と誰が結びつき、誰が利益を得て、誰が責任を背負わされたのか。
 淡々と、構造だけが記されている。

(やはり、個人の感情は後付けですわ)

 ページをめくりながら、アバンダンティアはマーキュリーの言葉を思い返す。

「俺は、選ばなければならない」

 あの言葉は誠実だった。
 だが同時に、彼がまだ選びきれていないことも、はっきりと示していた。

 マーキュリーは有能で、責任感が強く、周囲からの期待にも応え続けてきた人物だ。
 だからこそ、「何かを手放す」という選択が、極端に苦手なのだ。

(彼は、どちらかを選ぶのではなく、
 両立できる道を探している)

 だが、アバンダンティアには分かっている。
 この件に関しては、それが不可能だということを。

 彼女は本を閉じ、静かに目を伏せた。
 自分の内側を確かめる。

 怒りはない。
 悲しみも、ほとんど感じない。

 あるのは、確信だけだった。

(この婚約は、終わりますわね)

 それは予感ではなく、分析の結果だった。
 マーキュリーが選べる選択肢と、選べない選択肢を並べれば、導かれる結論は一つしかない。

 彼は、自分を変えるよりも、関係を終わらせる道を選ぶ。
 それは弱さではなく、彼が今の立場と役割を手放せないという、ただそれだけの理由だ。

(そして、それ自体が間違いだとは思いません)

 価値観の違い。
 ただ、それだけのこと。

 図書館を出ると、夕暮れが王都を包んでいた。
 行き交う人々は皆、自分の人生の当事者であり、誰もが自分の事情を抱えている。

 アバンダンティアは歩きながら考える。

 婚約破棄とは、悲劇だろうか。
 少なくとも世間は、そう扱うだろう。

 だが彼女にとっては、一つの事象に過ぎない。
 問題は、それをどう扱うかだ。

 屋敷に戻り、自室で紅茶を淹れる。
 湯気の向こうで、彼女は小さく息を整えた。

 まだ、何も起きていない。
 だが、起きることはほぼ確定している。

 だからこそ、今のうちに準備ができる。
 感情の整理ではない。
 立ち回りの準備だ。

 婚約破棄は、当事者にとっては事件になる。
 だが第三者にとっては、噂であり、娯楽であり、消費される物語だ。

(ならば――)

 アバンダンティアはカップを静かに置いた。

(消費される前に、主導権を握るだけですわ)

 それは復讐でも、感情的なざまぁでもない。
 ただの合理的な判断。

 察してしまったからこそ、彼女は動ける。
 知らなかったふりはしない。
 泣いて縋ることもしない。

 起きる未来を正面から受け止め、それを価値に変える。
 それが、アバンダンティア・コーニュコピアという令嬢のやり方だった。

 婚約破棄は、まだ起きていない。
 だが彼女の中では、すでに次の段階へ進む準備が整っている。

 あとは――
 彼が決断するのを待つだけ。

 その結末が、最後の確認になることを、彼女は疑っていなかった。
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