婚約破棄は、他人事ですので

ふわふわ

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第三十八話 あなたが主役だと思っていらしただけですわ

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第三十八話 あなたが主役だと思っていらしただけですわ

 マーキュリー・ヘルメスは、長く息を吐いた。
 第三十七話で提示された選択肢は、彼にとって予想以上に重かった。主役の幻想を手放すこと。感情の優位を判断より上に置かないこと。それは、彼がこれまで当然のように身につけてきた「貴族としての成功法則」を否定するに等しい。

「君は……」

 言葉を探すように、彼は視線を彷徨わせる。

「俺が、主役でいたいと思っていると……そう見ていたのか?」

 問いは静かだったが、その奥に滲む焦りは隠せていない。アバンダンティアは、彼の反応を観察するように一瞬だけ黙り、やがて淡々と答えた。

「ええ。正確には、“主役であるべきだ”と思っていらした、ですわ」

 否定ではない。断定でもない。
 観測結果の報告だった。

 マーキュリーは眉を寄せる。

「それは……貴族として当然だろう。責任も、判断も、前に立つ者が負う」

「ええ。前に立つこと自体は否定しません」

 アバンダンティアは頷く。

「問題は、“前に立つこと”と“中心に据えられること”を、同一視してしまう点です」

 マーキュリーは言葉を失った。
 彼女の言い回しは穏やかだが、核心を外さない。

「あなたは、わたくしが隣にいることで、安心していました」

「それの、何が問題だ?」

「隣に“立つ”ことと、隣に“置く”ことは違います」

 その一言が、重く落ちた。

 マーキュリーは、過去の場面を思い返す。社交の場での立ち位置、紹介の順番、発言の締めくくり。いつの間にか、自分が話をまとめ、彼女が補足する形が出来上がっていた。悪意はなかった。だが、疑いもしなかった。

「君は……」

 彼は、ようやく気づいたように呟く。

「最初から、主導権を争うつもりがなかった」

「ええ」

 アバンダンティアは即答する。

「争う価値がないからです」

 挑発ではない。侮辱でもない。
 構造の評価だ。

「主導権とは、奪うものではなく、合意で配置されるもの。争う時点で、もう歪んでいます」

 マーキュリーは、椅子の背に深く身を預けた。

「……俺は、君に導かれているつもりでいた」

「導いてはいません」

 彼女は首を横に振る。

「ただ、整理していただけですわ」

 沈黙が落ちる。
 彼の胸に去来するのは、怒りではない。恥でもない。もっと曖昧で、もっと厄介な感情――理解の遅れに対する焦燥だった。

「俺は……」

 マーキュリーは、言葉を選ぶ。

「君が、冷静すぎるから、距離を感じた」

「距離は、あります」

 アバンダンティアは否定しなかった。

「ですが、それは上下ではありません。役割の違いです」

「役割……」

「ええ。あなたは、物語の中心に立つ役割を自分に課している。わたくしは、物語の構造を整える役割を選んでいる」

 彼女は続ける。

「どちらが正しい、という話ではありません。ただ――同時に同じ物語に立つと、衝突が起きる」

 マーキュリーは、苦く笑った。

「つまり……」

 彼は、ようやく言葉にする。

「俺は、君を“共演者”だと思っていたが、君は最初から“演出側”だった」

「近いですわ」

 アバンダンティアは、ほんの少しだけ微笑む。

「ただ、演出家は舞台に立つこともあります。必要であれば」

「必要でなければ?」

「降ります」

 迷いのない答えだった。

 マーキュリーは、その潔さに言葉を失う。
 彼にとって、舞台を降りるという選択肢は、敗北に等しい。だが彼女にとっては、最適化にすぎない。

「……君は、最初から」

 彼は、ゆっくりと確認する。

「俺が主役だと思って動いていることを、分かっていたのか」

「ええ」

 そして、彼女は静かに言った。

「だから申し上げたのです」

 一拍置いて、はっきりと。

「あなたが主役だと思っていらしただけですわ」

 その言葉は、冷たくも、優しくもなかった。
 ただ、現実だった。

 マーキュリーは目を閉じる。
 自分が抱いていた違和感の正体が、ようやく輪郭を持った。彼女は冷たいのではない。自分の立ち位置を曖昧にしないだけだ。そして、自分は――彼女の隣に立っているつもりで、中心に置かれることを期待していた。

「……それでも」

 彼は、最後の希望を確かめるように言う。

「それでも、君は……俺と続ける可能性を、残しているのか?」

 アバンダンティアは、少しだけ考えた。
 その間、彼女の視線は彼を捉えたままだ。逃げない。濁さない。

「可能性は、常にあります」

 だが、と付け加える。

「同時に、条件もあります」

「条件?」

「主役であることを、譲れるかどうか」

 マーキュリーは、答えられなかった。
 その沈黙が、答えの代わりだった。

 アバンダンティアは、内心で静かに結論づける。

(ええ。ここまでですわね)

 彼女は立ち上がり、軽く一礼する。

「次は、あなたの“とても大事な話”をお待ちしますわ」

 それは、猶予でもあり、宣告でもあった。

 舞台は、すでに整っている。
 あとは、誰が、どの役を選ぶかだけだった。
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