『沈黙を選んだ令嬢は、対等な未来を手に取る』

ふわふわ

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第3話 誰も知らないところで、歯車はずれ始める

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第3話 誰も知らないところで、歯車はずれ始める

 昼下がりの屋敷は、驚くほど静かだった。

 かつてなら、この時間には来客の馬車が出入りし、使用人たちが慌ただしく動き回っていたはずだ。王太子の婚約者という肩書きは、それだけで人を引き寄せる力を持っていた。

 ――けれど今は、違う。

 私は窓辺の椅子に腰掛け、膝の上に一冊の本を広げていた。指先で頁をめくる音だけが、部屋に穏やかに響く。

(こんなにも静かな午後が、この国に存在していたなんて)

 皮肉ではなく、心からの感想だった。

 婚約者であった頃は、静かな時間ほど不安だった。
 「何かを忘れているのではないか」
 「次に備えるべきことがあるのではないか」
 常に、誰かの期待と評価が背後にあったからだ。

 今は違う。

 この時間は、私のもの。
 誰のためでもなく、ただ私が過ごすための時間。

「……お嬢様」

 控えめな声とともに、扉がノックされた。

「どうぞ」

 顔を上げると、侍女のマルタが静かに入ってくる。彼女の手には、小さな銀のトレイが載っていた。

「追加の紅茶をお持ちしました。それと……」

 マルタは少しだけ言いよどみ、視線を落とす。

「本日、三件ほど、お訪ねがありました」

「お断りしてくださったのですよね」

「はい。ただ……皆さま、驚かれておりました」

 私は本を閉じ、紅茶のカップを受け取った。

「驚くのは、当然ですわ」

 婚約破棄の翌日、引きこもるどころか、穏やかに過ごしている令嬢など、想定外もいいところだろう。

「特に……王城からの使いが」

 その言葉に、私はようやく少しだけ眉を上げた。

「王城?」

「王太子殿下の側近の方が。『お嬢様のお加減を確認したい』と」

 ――やはり。

 私は小さく息を吐き、カップに口をつける。温かい紅茶が喉を通り、胸の奥に落ちていく。

(心配、ですか)

 いいえ、違う。

 彼らが知りたいのは、私の「状態」だ。
 取り乱しているのか。
 泣き伏しているのか。
 あるいは、怒り狂っているのか。

 つまり、自分たちの判断が正しかったと安心できる材料。

「何とお答えしましたの?」

「『お嬢様はお変わりなくお過ごしです』と」

「それで十分ですわ」

 私は微笑んだ。

 事実以上の説明は、必要ない。

 沈黙が落ちる。

 マルタは、しばらく私の様子を窺ってから、意を決したように口を開いた。

「……お嬢様は、本当にお辛くはないのですか?」

 その問いは、とても静かで、けれど真剣だった。

 私は一瞬だけ考え、それから正直に答える。

「ええ。驚くほど」

 嘘ではない。

 もちろん、長年の習慣が消えた違和感はある。
 けれど、それは喪失ではなく――解放だ。

「むしろ、今の方が……自分の輪郭がはっきりしています」

 マルタは、少し目を見開き、それから柔らかく微笑んだ。

「それを聞いて、安心いたしました」

 彼女が部屋を出ると、再び静寂が戻る。

 私は椅子に深く腰掛け、天井を見上げた。

 この屋敷の外では、きっと様々な憶測が飛び交っている。
 ヴァレリアは壊れた。
 気丈に振る舞っているだけだ。
 いずれ後悔する。

 どれも、他人が勝手に描く物語だ。

(本当のところは――)

 私は、何も失っていない。

 むしろ、これまで「当たり前」として差し出してきたものを、取り戻しただけ。

 時間。
 静けさ。
 そして、自分の選択権。

 それらが、どれほど価値のあるものだったかを、私はようやく知った。

 ふと、廊下の向こうが騒がしくなる。

 低い声で指示を出す父の声。
 使用人たちが慌てて応じる気配。

(……父は、もう動いていますわね)

 婚約破棄は、私個人の問題では終わらない。
 アルトワ家と王家の関係。
 政治的な距離感。
 これから、少しずつ調整が必要になるだろう。

 けれど。

(その渦中に、私が立つ必要はありません)

 それが、今の私の立場だ。

 私は窓の外を見た。

 庭の木々が、風に揺れている。
 その動きはとても自然で、無理がない。

 ――流れに逆らわないこと。
 それは、弱さではない。

 時には、それが最も強い選択になる。

 誰も知らないところで、歯車はずれ始めている。

 音もなく。
 静かに。
 けれど、確実に。

 それが、誰にとって致命的になるのか――
 まだ、答えは出ていない。

 ただ一つだけ、はっきりしていることがある。

 私はもう、
 その歯車に、自分の指を挟まれるつもりはない。

(第3話・完)
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