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第4話 父の書斎と、ひとつの線引き
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第4話 父の書斎と、ひとつの線引き
父の書斎は、屋敷の奥まった場所にある。
重厚な扉の前に立つと、いつも少しだけ背筋が伸びた。幼い頃から、この部屋は「軽い気持ちで踏み込んではならない場所」だったからだ。
――けれど今日は、不思議と足取りが軽い。
私は扉をノックし、返事を待ってから中へ入った。
「失礼いたしますわ」
書斎の中央、執務机に向かっていた父――アルトワ公爵は、顔を上げて私を見た。
その視線に、驚きと安堵が入り混じる。
「……顔色は悪くないな」
「ええ。よく眠れましたもの」
私はそう答えて、自然に父の向かいに腰を下ろした。
室内には、紙とインクの匂いが満ちている。
王家からの書簡、貴族院関係の報告書、諸侯との往復文書。
婚約破棄が、すでに“政治の話題”になっていることは、一目で分かった。
父はしばらく私を見つめ、それから低く息を吐いた。
「……泣いていると思っていた」
「そのご期待には、添えませんでしたわね」
冗談めかして言うと、父はほんの一瞬だけ口元を緩めた。
「強がりではないのだな」
「いいえ。ようやく、肩の力が抜けただけです」
私は、そう言ってはっきりと父の目を見た。
父は黙り込み、机に指を組む。
その沈黙は長く、しかし重くはなかった。
「ユージェーヌ殿下からは、今朝一番で書簡が届いた」
「……どのような内容ですの?」
「形式的なものだ。婚約破棄は“円満な合意”であり、アルトワ家に不利益が及ばぬよう配慮する、と」
私は思わず、苦笑した。
「ずいぶんと、聞こえの良い言葉ですこと」
「そうだな」
父の声には、感情がほとんど乗っていなかった。
「だがな、ヴァレリア」
父は、はっきりと続けた。
「それは、王家が“まだ我々を必要としている”という証でもある」
その言葉に、私は少しだけ考える。
婚約は破棄された。
それでも、完全に縁を切るつもりはない――。
「……都合の良い距離を、保ちたいということですわね」
「その通りだ」
父は頷いた。
「お前が、どれほど王家の内部調整に役立っていたか、彼らはよく分かっている。失ってから、なおさらな」
胸の奥で、何かが静かに落ち着いた。
怒りはない。
むしろ、納得だった。
「父上」
私は、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「私はもう、王家の緩衝材になるつもりはありません」
父の視線が、鋭くなる。
「それは――」
「我が儘ではございません」
私は、先にそう断った。
「今後、アルトワ家として、王家とどう距離を取るか。それは父上のご判断です。ただ」
私は、一度だけ息を吸う。
「その中に、私を組み込まないでいただきたいのです」
沈黙。
父は目を閉じ、深く考え込む。
この人は、感情よりも先に、常に現実を見る。
しばらくして、父は静かに口を開いた。
「……よく、そこまで整理できたな」
「考える時間は、十分にありましたもの」
「そうか」
父は椅子にもたれ、天井を見上げた。
「王家から、縁談の打診も来ている」
私は眉を上げた。
「もう、ですの?」
「噂が広がるのは早い。しかも、“王太子に不要とされた令嬢”という肩書きは、逆に注目を集める」
――なるほど。
世の中は、つくづく皮肉だ。
「相手は?」
「いくつかあるが……その中に」
父は、一枚の書簡を取り上げた。
「グラーフ侯爵家からの打診がある」
その名を聞いた瞬間、私は思わず瞬きをした。
「……アルベリク・フォン・グラーフ侯爵?」
「知っているか」
「ええ。戦功と政務、両方で名高い方ですわね。冷静沈着、無駄を嫌うと聞いています」
――そして、極めて慎重。
父は頷いた。
「正式な縁談ではない。ただの“意思表示”だ。お前がその気なら、話を進める余地がある、という程度だな」
私は、すぐには答えなかった。
グラーフ侯爵家。
王家に近すぎず、遠すぎず。
独立性が高く、余計な干渉を嫌う。
(……私の条件には、合っていますわね)
だが。
「父上」
私は、はっきりと告げる。
「私が望むのは、静かな生活です。肩書きも、期待も、最小限で」
「分かっている」
父は即答した。
「だからこそ、グラーフ家なのだ。彼らは、派手な社交を好まない。お前が前に出ることも、求めないだろう」
その言葉に、私は少しだけ心が緩むのを感じた。
――前に出なくていい。
それは、何よりの条件だった。
「すぐに返事は出しませんわ」
「当然だ」
父は、穏やかに言った。
「考える時間は、いくらでもある。少なくとも、王家の顔色を窺う必要は、もうない」
私は立ち上がり、深く一礼する。
「ありがとうございます、父上」
書斎を出ると、廊下の空気が少しだけ軽く感じられた。
王家との線引き。
自分の立ち位置。
それらが、ようやくはっきりした。
(私は、誰かの“補佐役”ではありません)
(自分の人生の、当事者です)
歩きながら、私は小さく息を吐いた。
グラーフ侯爵――アルベリク・フォン・グラーフ。
まだ会ったこともないその名が、
なぜか、不思議と騒がしくは響かなかった。
むしろ。
(静かに、話ができそうですわね)
そんな予感だけが、胸の奥に残っていた。
――歯車は、また一つ。
音もなく、けれど確実に、
次の位置へと動き始めている。
父の書斎は、屋敷の奥まった場所にある。
重厚な扉の前に立つと、いつも少しだけ背筋が伸びた。幼い頃から、この部屋は「軽い気持ちで踏み込んではならない場所」だったからだ。
――けれど今日は、不思議と足取りが軽い。
私は扉をノックし、返事を待ってから中へ入った。
「失礼いたしますわ」
書斎の中央、執務机に向かっていた父――アルトワ公爵は、顔を上げて私を見た。
その視線に、驚きと安堵が入り混じる。
「……顔色は悪くないな」
「ええ。よく眠れましたもの」
私はそう答えて、自然に父の向かいに腰を下ろした。
室内には、紙とインクの匂いが満ちている。
王家からの書簡、貴族院関係の報告書、諸侯との往復文書。
婚約破棄が、すでに“政治の話題”になっていることは、一目で分かった。
父はしばらく私を見つめ、それから低く息を吐いた。
「……泣いていると思っていた」
「そのご期待には、添えませんでしたわね」
冗談めかして言うと、父はほんの一瞬だけ口元を緩めた。
「強がりではないのだな」
「いいえ。ようやく、肩の力が抜けただけです」
私は、そう言ってはっきりと父の目を見た。
父は黙り込み、机に指を組む。
その沈黙は長く、しかし重くはなかった。
「ユージェーヌ殿下からは、今朝一番で書簡が届いた」
「……どのような内容ですの?」
「形式的なものだ。婚約破棄は“円満な合意”であり、アルトワ家に不利益が及ばぬよう配慮する、と」
私は思わず、苦笑した。
「ずいぶんと、聞こえの良い言葉ですこと」
「そうだな」
父の声には、感情がほとんど乗っていなかった。
「だがな、ヴァレリア」
父は、はっきりと続けた。
「それは、王家が“まだ我々を必要としている”という証でもある」
その言葉に、私は少しだけ考える。
婚約は破棄された。
それでも、完全に縁を切るつもりはない――。
「……都合の良い距離を、保ちたいということですわね」
「その通りだ」
父は頷いた。
「お前が、どれほど王家の内部調整に役立っていたか、彼らはよく分かっている。失ってから、なおさらな」
胸の奥で、何かが静かに落ち着いた。
怒りはない。
むしろ、納得だった。
「父上」
私は、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「私はもう、王家の緩衝材になるつもりはありません」
父の視線が、鋭くなる。
「それは――」
「我が儘ではございません」
私は、先にそう断った。
「今後、アルトワ家として、王家とどう距離を取るか。それは父上のご判断です。ただ」
私は、一度だけ息を吸う。
「その中に、私を組み込まないでいただきたいのです」
沈黙。
父は目を閉じ、深く考え込む。
この人は、感情よりも先に、常に現実を見る。
しばらくして、父は静かに口を開いた。
「……よく、そこまで整理できたな」
「考える時間は、十分にありましたもの」
「そうか」
父は椅子にもたれ、天井を見上げた。
「王家から、縁談の打診も来ている」
私は眉を上げた。
「もう、ですの?」
「噂が広がるのは早い。しかも、“王太子に不要とされた令嬢”という肩書きは、逆に注目を集める」
――なるほど。
世の中は、つくづく皮肉だ。
「相手は?」
「いくつかあるが……その中に」
父は、一枚の書簡を取り上げた。
「グラーフ侯爵家からの打診がある」
その名を聞いた瞬間、私は思わず瞬きをした。
「……アルベリク・フォン・グラーフ侯爵?」
「知っているか」
「ええ。戦功と政務、両方で名高い方ですわね。冷静沈着、無駄を嫌うと聞いています」
――そして、極めて慎重。
父は頷いた。
「正式な縁談ではない。ただの“意思表示”だ。お前がその気なら、話を進める余地がある、という程度だな」
私は、すぐには答えなかった。
グラーフ侯爵家。
王家に近すぎず、遠すぎず。
独立性が高く、余計な干渉を嫌う。
(……私の条件には、合っていますわね)
だが。
「父上」
私は、はっきりと告げる。
「私が望むのは、静かな生活です。肩書きも、期待も、最小限で」
「分かっている」
父は即答した。
「だからこそ、グラーフ家なのだ。彼らは、派手な社交を好まない。お前が前に出ることも、求めないだろう」
その言葉に、私は少しだけ心が緩むのを感じた。
――前に出なくていい。
それは、何よりの条件だった。
「すぐに返事は出しませんわ」
「当然だ」
父は、穏やかに言った。
「考える時間は、いくらでもある。少なくとも、王家の顔色を窺う必要は、もうない」
私は立ち上がり、深く一礼する。
「ありがとうございます、父上」
書斎を出ると、廊下の空気が少しだけ軽く感じられた。
王家との線引き。
自分の立ち位置。
それらが、ようやくはっきりした。
(私は、誰かの“補佐役”ではありません)
(自分の人生の、当事者です)
歩きながら、私は小さく息を吐いた。
グラーフ侯爵――アルベリク・フォン・グラーフ。
まだ会ったこともないその名が、
なぜか、不思議と騒がしくは響かなかった。
むしろ。
(静かに、話ができそうですわね)
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