10 / 33
第九話 焦る王太子
しおりを挟む
第九話 焦る王太子
王宮の空気は、張り詰めていた。
重厚な扉の向こう、執務室では怒声が響いている。
「なぜだ!」
カイルベルトが机を叩く。
「奇跡はなぜ起きない! 港はなぜ止まる! 市場はなぜ騒ぐ!」
答える者はいない。
財務官は青ざめ、軍務官は視線を落とし、侍従たちは息を潜めている。
「フォルティス家の支援が……」
誰かが恐る恐る口にした。
「それが原因かと」
「黙れ!」
怒鳴る声が天井に反響する。
「支援など関係ない! 国は王家が支えるものだ!」
その言葉は、空虚だった。
王太子は知らなかった。
“支える”という言葉が、どれほど具体的な作業の積み重ねで成り立っているかを。
「代替の物流はどうした!」
「港湾統制は、まだ混乱が……」
「医療物資は!」
「在庫は底をつきました」
机の上に積まれた報告書は、どれも赤字と遅延の文字で埋まっている。
カイルベルトは拳を握る。
「エレシアの差し金だ」
その名を出した瞬間、空気が凍る。
「彼女が裏で妨害しているに違いない」
財務官が静かに言う。
「殿下。フォルティス家は、ただ契約を終了しただけです」
「それが妨害だ!」
「……契約は、殿下が破棄なさった婚約に基づくものです」
沈黙。
カイルベルトの瞳に怒りが宿る。
「俺が悪いと言いたいのか」
誰も答えない。
答えは明白だからだ。
その頃、教会。
ルチアは自室で鏡を見つめていた。
「どうして……」
祈っても何も起きない。
掌に温もりは宿らない。
かつては、薬が効いた瞬間を“奇跡”と呼んでいた。
今は、ただの沈黙。
「わたくしは……聖女なのに……」
ドアの向こうで、抗議の声が上がる。
「奇跡は嘘だったのか!」 「寄付を返せ!」
司祭グラナードは額の汗を拭う。
「王太子殿下に責任を押し付けるしか……」
信仰は、失われるのが早い。
一方、フォルティス公爵邸。
私は書斎で新たな報告を受けていた。
「王宮内で意見が割れております」
「予想より早いですわね」
アーヴィンが頷く。
「国王陛下は、沈黙を保っておられます」
「賢明ですわ」
私は指先で机を軽く叩く。
「陛下は、感情で動かれませんもの」
「王太子殿下は?」
「焦っておられるでしょう」
私は窓の外を見る。
遠くに王城の塔が見える。
「焦りは、判断を鈍らせます」
そして鈍った判断は、必ず過ちを生む。
「お嬢様」
「ええ?」
「王太子殿下が、明日にも直接訪問する可能性がございます」
私はわずかに眉を上げる。
「頭を下げに?」
「いえ」
アーヴィンの声は淡々としている。
「恫喝に」
私は小さく笑った。
「らしいですわね」
翌日。
王宮では決断が下された。
「フォルティス家へ赴く」
カイルベルトは立ち上がる。
「直接話をつける」
ミリアが不安そうに袖を掴む。
「殿下……怒鳴らないでくださいませ」
「俺は正しい」
その言葉は、もはや自分に言い聞かせているようだった。
夕刻。
フォルティス公爵邸の門前に王家の馬車が止まる。
重い扉が開く。
カイルベルトが、怒りを押し殺した顔で降り立つ。
応接室。
私はすでに席に着いていた。
「ご機嫌よう、殿下」
「……エレシア」
その声には、わずかな疲労が滲んでいる。
「港を動かせ」
挨拶もなく、命令。
「奇跡の件も、そちらの妨害だろう」
私はゆっくりと扇を開く。
「証拠は?」
「状況が証拠だ!」
「状況は、殿下の婚約破棄から始まりましたわ」
沈黙。
視線がぶつかる。
「国が困っている」
「それは残念ですわ」
「助けろ」
命令口調。
私は首を傾げる。
「助ける理由がございません」
カイルベルトの拳が震える。
「俺は王太子だぞ!」
「ええ」
私は穏やかに頷く。
「ですが、わたくしはもう婚約者ではございません」
その一言が、重く落ちる。
焦りが、初めてはっきりと彼の瞳に浮かんだ。
奇跡は止まり。
港は止まり。
支援は消えた。
そして今。
王太子は、初めて気づき始める。
自分が切ったものの重さに。
私は静かに告げた。
「契約の話をなさるなら、違約金をお支払いくださいませ」
焦りは、怒りよりも醜い。
そして。
その焦りが、次の過ちを生むのだ。
王宮の空気は、張り詰めていた。
重厚な扉の向こう、執務室では怒声が響いている。
「なぜだ!」
カイルベルトが机を叩く。
「奇跡はなぜ起きない! 港はなぜ止まる! 市場はなぜ騒ぐ!」
答える者はいない。
財務官は青ざめ、軍務官は視線を落とし、侍従たちは息を潜めている。
「フォルティス家の支援が……」
誰かが恐る恐る口にした。
「それが原因かと」
「黙れ!」
怒鳴る声が天井に反響する。
「支援など関係ない! 国は王家が支えるものだ!」
その言葉は、空虚だった。
王太子は知らなかった。
“支える”という言葉が、どれほど具体的な作業の積み重ねで成り立っているかを。
「代替の物流はどうした!」
「港湾統制は、まだ混乱が……」
「医療物資は!」
「在庫は底をつきました」
机の上に積まれた報告書は、どれも赤字と遅延の文字で埋まっている。
カイルベルトは拳を握る。
「エレシアの差し金だ」
その名を出した瞬間、空気が凍る。
「彼女が裏で妨害しているに違いない」
財務官が静かに言う。
「殿下。フォルティス家は、ただ契約を終了しただけです」
「それが妨害だ!」
「……契約は、殿下が破棄なさった婚約に基づくものです」
沈黙。
カイルベルトの瞳に怒りが宿る。
「俺が悪いと言いたいのか」
誰も答えない。
答えは明白だからだ。
その頃、教会。
ルチアは自室で鏡を見つめていた。
「どうして……」
祈っても何も起きない。
掌に温もりは宿らない。
かつては、薬が効いた瞬間を“奇跡”と呼んでいた。
今は、ただの沈黙。
「わたくしは……聖女なのに……」
ドアの向こうで、抗議の声が上がる。
「奇跡は嘘だったのか!」 「寄付を返せ!」
司祭グラナードは額の汗を拭う。
「王太子殿下に責任を押し付けるしか……」
信仰は、失われるのが早い。
一方、フォルティス公爵邸。
私は書斎で新たな報告を受けていた。
「王宮内で意見が割れております」
「予想より早いですわね」
アーヴィンが頷く。
「国王陛下は、沈黙を保っておられます」
「賢明ですわ」
私は指先で机を軽く叩く。
「陛下は、感情で動かれませんもの」
「王太子殿下は?」
「焦っておられるでしょう」
私は窓の外を見る。
遠くに王城の塔が見える。
「焦りは、判断を鈍らせます」
そして鈍った判断は、必ず過ちを生む。
「お嬢様」
「ええ?」
「王太子殿下が、明日にも直接訪問する可能性がございます」
私はわずかに眉を上げる。
「頭を下げに?」
「いえ」
アーヴィンの声は淡々としている。
「恫喝に」
私は小さく笑った。
「らしいですわね」
翌日。
王宮では決断が下された。
「フォルティス家へ赴く」
カイルベルトは立ち上がる。
「直接話をつける」
ミリアが不安そうに袖を掴む。
「殿下……怒鳴らないでくださいませ」
「俺は正しい」
その言葉は、もはや自分に言い聞かせているようだった。
夕刻。
フォルティス公爵邸の門前に王家の馬車が止まる。
重い扉が開く。
カイルベルトが、怒りを押し殺した顔で降り立つ。
応接室。
私はすでに席に着いていた。
「ご機嫌よう、殿下」
「……エレシア」
その声には、わずかな疲労が滲んでいる。
「港を動かせ」
挨拶もなく、命令。
「奇跡の件も、そちらの妨害だろう」
私はゆっくりと扇を開く。
「証拠は?」
「状況が証拠だ!」
「状況は、殿下の婚約破棄から始まりましたわ」
沈黙。
視線がぶつかる。
「国が困っている」
「それは残念ですわ」
「助けろ」
命令口調。
私は首を傾げる。
「助ける理由がございません」
カイルベルトの拳が震える。
「俺は王太子だぞ!」
「ええ」
私は穏やかに頷く。
「ですが、わたくしはもう婚約者ではございません」
その一言が、重く落ちる。
焦りが、初めてはっきりと彼の瞳に浮かんだ。
奇跡は止まり。
港は止まり。
支援は消えた。
そして今。
王太子は、初めて気づき始める。
自分が切ったものの重さに。
私は静かに告げた。
「契約の話をなさるなら、違約金をお支払いくださいませ」
焦りは、怒りよりも醜い。
そして。
その焦りが、次の過ちを生むのだ。
20
あなたにおすすめの小説
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
愛していました。待っていました。でもさようなら。
彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。
やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
【完結】あなたに知られたくなかった
ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。
5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。
そんなセレナに起きた奇跡とは?
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
断腸の思いで王家に差し出した孫娘が婚約破棄されて帰ってきた
兎屋亀吉
恋愛
ある日王家主催のパーティに行くといって出かけた孫娘のエリカが泣きながら帰ってきた。買ったばかりのドレスは真っ赤なワインで汚され、左頬は腫れていた。話を聞くと王子に婚約を破棄され、取り巻きたちに酷いことをされたという。許せん。戦じゃ。この命燃え尽きようとも、必ずや王家を滅ぼしてみせようぞ。
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる