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第2話 涙の夜と、禁断の継承
しおりを挟むアリーナはベッドの上で膝を抱え、どれだけの時間が過ぎたのかもわからなかった。
窓の外はすでに深夜。屋敷の庭園を照らす月明かりが、部屋のカーテンを通して淡く床に落ちている。
枕は涙でぐしょ濡れになり、銀色の髪が乱れて頰に張りついていた。
「……どうして……どうして私なの……」
声にならない呟きが、喉の奥で何度も繰り返される。
昨夜の舞踏会の光景が、瞼を閉じるたびに鮮明に蘇る。
レコルトの冷たい瞳。
ミランの勝ち誇った笑み。
貴族たちの嘲笑混じりの囁き。
すべてが胸を抉る。
アリーナはこれまで、自分の人生が穏やかで幸福だと信じてきた。
公爵家の長女として生まれ、王太子の婚約者として育てられ、周囲から祝福されてきた。
レコルトのことは、幼い頃から好きだった。
彼の笑顔を守りたくて、いつもそばにいようと努力してきた。
それなのに。
「退屈な人形のような女」
「田舎の貴族にでも嫁げばいい」
その言葉が、頭の中でエコーのように響く。
アリーナはぎゅっと拳を握った。爪が掌に食い込み、痛みが走る。
痛い。
でも、この痛みの方が、まだマシだった。心の痛みよりは。
部屋の隅に置かれた古い木箱が、再び視界に入った。
祖母から母へ、そして母からアリーナへ――「決して人に見せてはならない」と厳しく言い渡された遺品。
母はいつも言っていた。
「これはエルドリア家の恥。古い時代に禁じられたものを、あなたの祖母が密かに持ち続けたの。でも、もう必要ない時代よ」
アリーナは立ち上がり、よろよろと木箱に近づいた。
鍵はかかっていなかった。
昨夜、衝動的に開けてしまったときから、そのままだった。
箱の中には、革装丁の古びた本が一冊だけ。
表紙には、複雑に絡み合う銀と黒の紋様。
中央に描かれた魔法陣のような図形は、見ているだけで頭がくらくらする。
アリーナは震える手で本を取り出し、ベッドに戻った。
ページをめくる。
古い文字。
現代の共通語とは違う、古代語で書かれている部分が多い。
それでも、不思議と意味が頭に流れ込んでくる。
――これは、魔導書。
――古の時代、王国がまだ魔法戦争の真っ只中にあった頃に編纂された、禁忌の知識。
通常の魔法は、自然界に存在する魔素を媒介として発動する。
だがこの魔導書に記された魔法は違う。
「魂の深淵より力を引き出す」
「常人の百倍の魔力を一時的に得る」
「禁忌ゆえに、使用者は命を削る」
アリーナの指が、ページを止めた。
そこには、祖母の筆跡で小さな書き込みがあった。
『私の愛しい孫へ。
もしあなたがこの本を開く日が来たなら、それはあなたが深い絶望の中にいるということでしょう。
私はこの力を使って、家族を守った。
あなたも、必要なら使ってください。
ただし、代償は大きい。
それでも、あなたの人生はあなた自身のもの。
誰かに踏みにじられて終わるものではない。
強く生きて。
――祖母エレノアより』
アリーナの目から、また涙がこぼれた。
今度は悲しみの涙だけではなかった。
祖母も、同じように傷ついたことがあるのだろうか。
それでも立ち上がったのだろうか。
アリーナは本を抱きしめた。
「……私、弱いままじゃ嫌」
声が、少しだけ強くなった。
「レコルトが私を捨てたなら、私だって……私だって、幸せになる権利がある」
その瞬間、魔導書が淡く光った。
ページが勝手にめくれられ、一つの魔法陣が浮かび上がる。
――初級の感知魔法。
魔導書は、持ち主の意志に応じて、必要なページを開くらしい。
アリーナは、恐る恐る指を魔法陣に触れた。
すると、頭の中に知識が流れ込んできた。
どうやって魔力を循環させるか。
どうやって呪文を唱えるか。
すべてが、まるで自分の記憶のように自然に理解できた。
「……試してみよう」
アリーナはベッドから立ち上がり、部屋の中央に立った。
深呼吸をして、魔力を意識する。
普段の魔法授業では、微々たる魔力しか感じられなかった。
それが原因で、アリーナは「魔法の才能がない」と陰で言われていた。
でも今は違う。
体の中を、熱い川が流れているような感覚。
魂の奥底から、力が湧き上がってくる。
アリーナは、呪文を唱えた。
「ルミナス・プローベ」
小さな光の玉が、手のひらの上に現れた。
普通なら、ろうそく程度の明るさしか出せない初級魔法。
だがアリーナの光は、部屋全体を昼のように照らした。
眩しさに目を覆いながら、アリーナは息を呑んだ。
「……これが、私の力?」
光は安定して浮かび続け、疲れを感じない。
魔導書の力は、本物だった。
アリーナは、光を見つめながら呟いた。
「これで……私、変われる」
そのとき、部屋の扉がノックされた。
「お嬢様……お目覚めでしょうか?」
侍女長のエマの声だった。
アリーナは慌てて光を消し、魔導書を枕の下に隠した。
「エマ……入って」
扉が開き、エマが入ってきた。
年配の侍女は、アリーナの腫れた目を見て、心配そうに眉を寄せた。
「お嬢様……昨夜のことは、本当に……」
エマは言葉を詰まらせた。
屋敷中が動揺している。
公爵である父は王宮に抗議の手紙を書いているが、王太子の決定に逆らうのは難しい。
兄のエリオットは、剣を握りしめて王宮に乗り込もうかと本気で悩んでいるらしい。
アリーナは、弱々しく微笑んだ。
「エマ、私……もう泣かない」
エマが驚いたように目を見開く。
「お嬢様?」
「私、決めたの。王立魔導アカデミーに入学する」
エマは息を呑んだ。
王立魔導アカデミーは、王国の最高学府。
貴族の子弟が通うが、魔法の才能がなければ入学すら難しい。
アリーナには才能がない――それがこれまでの常識だった。
「でも、お嬢様……魔法が……」
「大丈夫」
アリーナの声に、初めて強い意志が宿っていた。
「私、頑張ってみる。もう、誰かに馬鹿にされたくない」
エマは、しばらくアリーナを見つめていた。
そして、深く頭を下げた。
「……わかりました。お嬢様の決意なら、私どもは全力でお支えいたします」
朝が来た。
アリーナは鏡の前で髪を整えながら、自分に言い聞かせた。
今日から、新しい私。
レコルトが私を見捨てたなら、私だって前を向く。
ミランに負けたくない。
そして――いつか、二人に後悔させてみせる。
その決意を胸に、アリーナは父の書斎に向かった。
父に、アカデミー入学の願いを伝えるために。
魔導書は、枕の下で静かに光を待っていた。
アリーナの新しい人生が、今、始まろうとしていた。
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