8 / 38
第八話 沈黙の返答
しおりを挟む
第八話 沈黙の返答
返事を待つ時間ほど、人を追い詰めるものはない。
グレイソン伯爵家では、その沈黙が、日を追うごとに重くのしかかっていた。
アーヴィン・グレイソンは、執務室の机に置かれたままの書簡を、何度も視線でなぞる。
――受領の連絡のみ。
それが、エルヴェイン侯爵家からの返答だった。
否定でも、拒絶でもない。
だが、承諾でもない。
そして何より、続きがない。
「検討に時間がかかる、だと……」
その言葉を、彼は噛みしめるように呟いた。
以前であれば、検討など不要だった。
彼が声をかければ、調整は自然と進み、形になった。
だが今は違う。
待たされる立場になった。
しかも、理由を問うことすらできない。
「……まだか」
家臣に向けた問いは、ほとんど独り言に近い。
「先方からの追加連絡は、ありません」
その答えに、アーヴィンは苛立ちを隠しきれなかった。
催促すれば、弱みを見せる。
黙っていれば、時間だけが過ぎる。
どちらを選んでも、主導権は戻らない。
一方、エルヴェイン侯爵家の空気は、驚くほど落ち着いていた。
クラリス・フォン・エルヴェインは、いつも通り執務をこなしている。
机の上に積まれた案件は増えているが、彼女の手は止まらない。
「グレイソン家の件ですが」
補佐官が、控えめに切り出す。
「進めなくて、よろしいのでしょうか」
「進めていますよ」
クラリスは、即座に答えた。
「ただし、優先順位は下です」
それだけのことだった。
彼女にとって、今は「選択する時間」だ。
一つの関係に縛られる必要はない。
むしろ、複数の可能性を並べ、
最も合理的なものを選ぶ立場にある。
午後、別の商会との協議が終わった後、
クラリスはふと、補佐官に問いかけた。
「グレイソン家の状況は?」
「……正直に申し上げますと、芳しくありません」
補佐官は、言葉を選びながら続ける。
「返答を待つ間に、他の取引先が動いています。空白を嫌う者たちが、別の選択肢を探し始めています」
クラリスは、静かに頷いた。
「当然ですね」
空白は、誰かが埋める。
待つ者ではなく、動く者によって。
その夜、アーヴィンは、かつて婚約を解消した日のことを思い出していた。
あの時、自分は「切り捨てた」と思っていた。
不要な要素を排除し、身軽になったと。
だが今、分かる。
切り捨てられていたのは、
――自分の方だった。
彼は、ようやく理解し始めていた。
クラリスは、何も奪っていない。
攻撃もしていない。
復讐の言葉すら、口にしていない。
それでも、自分は追い詰められている。
選ばれなくなったからだ。
数日後、エルヴェイン侯爵家に、再び書簡が届く。
今度は、やや踏み込んだ内容だった。
条件の譲歩。
過去の経緯への配慮。
クラリスは、それを読み終え、静かに息を整えた。
そして、こう告げる。
「こちらの条件は、変わりません。先方が応じられるかどうか、それだけです」
その言葉には、感情も、ためらいもなかった。
沈黙は、拒絶よりも雄弁だ。
そして、返答を待たせるという行為そのものが、
すでに答えになっている。
アーヴィン・グレイソンは、
まだ気づいていない。
この沈黙が、
最後の猶予であることを。
クラリス・フォン・エルヴェインは、
次の案件に目を通しながら、
静かに、盤面を見下ろしていた。
返事を待つ時間ほど、人を追い詰めるものはない。
グレイソン伯爵家では、その沈黙が、日を追うごとに重くのしかかっていた。
アーヴィン・グレイソンは、執務室の机に置かれたままの書簡を、何度も視線でなぞる。
――受領の連絡のみ。
それが、エルヴェイン侯爵家からの返答だった。
否定でも、拒絶でもない。
だが、承諾でもない。
そして何より、続きがない。
「検討に時間がかかる、だと……」
その言葉を、彼は噛みしめるように呟いた。
以前であれば、検討など不要だった。
彼が声をかければ、調整は自然と進み、形になった。
だが今は違う。
待たされる立場になった。
しかも、理由を問うことすらできない。
「……まだか」
家臣に向けた問いは、ほとんど独り言に近い。
「先方からの追加連絡は、ありません」
その答えに、アーヴィンは苛立ちを隠しきれなかった。
催促すれば、弱みを見せる。
黙っていれば、時間だけが過ぎる。
どちらを選んでも、主導権は戻らない。
一方、エルヴェイン侯爵家の空気は、驚くほど落ち着いていた。
クラリス・フォン・エルヴェインは、いつも通り執務をこなしている。
机の上に積まれた案件は増えているが、彼女の手は止まらない。
「グレイソン家の件ですが」
補佐官が、控えめに切り出す。
「進めなくて、よろしいのでしょうか」
「進めていますよ」
クラリスは、即座に答えた。
「ただし、優先順位は下です」
それだけのことだった。
彼女にとって、今は「選択する時間」だ。
一つの関係に縛られる必要はない。
むしろ、複数の可能性を並べ、
最も合理的なものを選ぶ立場にある。
午後、別の商会との協議が終わった後、
クラリスはふと、補佐官に問いかけた。
「グレイソン家の状況は?」
「……正直に申し上げますと、芳しくありません」
補佐官は、言葉を選びながら続ける。
「返答を待つ間に、他の取引先が動いています。空白を嫌う者たちが、別の選択肢を探し始めています」
クラリスは、静かに頷いた。
「当然ですね」
空白は、誰かが埋める。
待つ者ではなく、動く者によって。
その夜、アーヴィンは、かつて婚約を解消した日のことを思い出していた。
あの時、自分は「切り捨てた」と思っていた。
不要な要素を排除し、身軽になったと。
だが今、分かる。
切り捨てられていたのは、
――自分の方だった。
彼は、ようやく理解し始めていた。
クラリスは、何も奪っていない。
攻撃もしていない。
復讐の言葉すら、口にしていない。
それでも、自分は追い詰められている。
選ばれなくなったからだ。
数日後、エルヴェイン侯爵家に、再び書簡が届く。
今度は、やや踏み込んだ内容だった。
条件の譲歩。
過去の経緯への配慮。
クラリスは、それを読み終え、静かに息を整えた。
そして、こう告げる。
「こちらの条件は、変わりません。先方が応じられるかどうか、それだけです」
その言葉には、感情も、ためらいもなかった。
沈黙は、拒絶よりも雄弁だ。
そして、返答を待たせるという行為そのものが、
すでに答えになっている。
アーヴィン・グレイソンは、
まだ気づいていない。
この沈黙が、
最後の猶予であることを。
クラリス・フォン・エルヴェインは、
次の案件に目を通しながら、
静かに、盤面を見下ろしていた。
1
あなたにおすすめの小説
婚約破棄を申し入れたのは、父です ― 王子様、あなたの企みはお見通しです!
みかぼう。
恋愛
公爵令嬢クラリッサ・エインズワースは、王太子ルーファスの婚約者。
幼い日に「共に国を守ろう」と誓い合ったはずの彼は、
いま、別の令嬢マリアンヌに微笑んでいた。
そして――年末の舞踏会の夜。
「――この婚約、我らエインズワース家の名において、破棄させていただきます!」
エインズワース公爵が力強く宣言した瞬間、
王国の均衡は揺らぎ始める。
誇りを捨てず、誠実を貫く娘。
政の闇に挑む父。
陰謀を暴かんと手を伸ばす宰相の子。
そして――再び立ち上がる若き王女。
――沈黙は逃げではなく、力の証。
公爵令嬢の誇りが、王国の未来を変える。
――荘厳で静謐な政略ロマンス。
(本作品は小説家になろう、カクヨムにも掲載中です)
冷遇妃マリアベルの監視報告書
Mag_Mel
ファンタジー
シルフィード王国に敗戦国ソラリから献上されたのは、"太陽の姫"と讃えられた妹ではなく、悪女と噂される姉、マリアベル。
第一王子の四番目の妃として迎えられた彼女は、王宮の片隅に追いやられ、嘲笑と陰湿な仕打ちに晒され続けていた。
そんな折、「王家の影」は第三王子セドリックよりマリアベルの監視業務を命じられる。年若い影が記す報告書には、ただ静かに耐え続け、死を待つかのように振舞うひとりの女の姿があった。
王位継承争いと策謀が渦巻く王宮で、冷遇妃の運命は思わぬ方向へと狂い始める――。
(小説家になろう様にも投稿しています)
第二王女と次期公爵の仲は冷え切っている
山法師
恋愛
グレイフォアガウス王国の第二王女、シャーロット。
フォーサイス公爵家の次期公爵、セオドア。
二人は婚約者であるけれど、婚約者であるだけだった。
形だけの婚約者。二人の仲は冷め切っているし冷え切っている。
そもそも温度など、最初から存在していない。愛も恋も、友情も親しみも、二人の間には存在しない。
周知の事実のようなそれを、シャーロットもセオドアも否定しない。
お互いにほとんど関わりを持とうとしない、交流しようとしない、シャーロットとセオドアは。
婚約者としての親睦を深める茶会でだけ、顔を合わせる。
親睦を深める茶会だというのに、親睦は全く深まらない。親睦を深めるつもりも深める意味も、二人にはない。
形だけの婚約者との、形だけの親睦を深める茶会。
今日もまた、同じように。
「久しぶりに見る君が、いつにも増して愛らしく見えるし愛おしく思えて、僕は今にも天に召されそうなほどの幸福を味わっている。──?!」
「あたしのほうこそセオ様とお顔を合わせること、夢みたいに思ってるんですからね。大好きなセオ様を独り占めしているみたいに思えるんですよ。はっ?!」
顔を合わせて確認事項を本当に『確認』するだけの茶会が始まるはずが、それどころじゃない事態に陥った。
幼い頃、義母に酸で顔を焼かれた公爵令嬢は、それでも愛してくれた王太子が冤罪で追放されたので、ついていくことにしました。
克全
恋愛
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。
設定はゆるくなっています、気になる方は最初から読まないでください。
ウィンターレン公爵家令嬢ジェミーは、幼い頃に義母のアイラに酸で顔を焼かれてしまった。何とか命は助かったものの、とても社交界にデビューできるような顔ではなかった。だが不屈の精神力と仮面をつける事で、社交界にデビューを果たした。そんなジェミーを、心優しく人の本質を見抜ける王太子レオナルドが見初めた。王太子はジェミーを婚約者に選び、幸せな家庭を築くかに思われたが、王位を狙う邪悪な弟に冤罪を着せられ追放刑にされてしまった。
【完結】狡い人
ジュレヌク
恋愛
双子のライラは、言う。
レイラは、狡い。
レイラの功績を盗み、賞を受賞し、母の愛も全て自分のものにしたくせに、事あるごとに、レイラを責める。
双子のライラに狡いと責められ、レイラは、黙る。
口に出して言いたいことは山ほどあるのに、おし黙る。
そこには、人それぞれの『狡さ』があった。
そんな二人の関係が、ある一つの出来事で大きく変わっていく。
恋を知り、大きく羽ばたくレイラと、地に落ちていくライラ。
2人の違いは、一体なんだったのか?
【完結】陛下、花園のために私と離縁なさるのですね?
紺
ファンタジー
ルスダン王国の王、ギルバートは今日も執務を妻である王妃に押し付け後宮へと足繁く通う。ご自慢の後宮には3人の側室がいてギルバートは美しくて愛らしい彼女たちにのめり込んでいった。
世継ぎとなる子供たちも生まれ、あとは彼女たちと後宮でのんびり過ごそう。だがある日うるさい妻は後宮を取り壊すと言い出した。ならばいっそ、お前がいなくなれば……。
ざまぁ必須、微ファンタジーです。
私は《悪役令嬢》の役を降りさせて頂きます
・めぐめぐ・
恋愛
公爵令嬢であるアンティローゼは、婚約者エリオットの想い人であるルシア伯爵令嬢に嫌がらせをしていたことが原因で婚約破棄され、彼に突き飛ばされた拍子に頭をぶつけて死んでしまった。
気が付くと闇の世界にいた。
そこで彼女は、不思議な男の声によってこの世界の真実を知る。
この世界が恋愛小説であり《読者》という存在の影響下にあることを。
そしてアンティローゼが《悪役令嬢》であり、彼女が《悪役令嬢》である限り、断罪され死ぬ運命から逃れることができないことを――
全てを知った彼女は決意した。
「……もう、あなたたちの思惑には乗らない。私は、《悪役令嬢》の役を降りさせて頂くわ」
※全12話 約15,000字。完結してるのでエタりません♪
※よくある悪役令嬢設定です。
※頭空っぽにして読んでね!
※ご都合主義です。
※息抜きと勢いで書いた作品なので、生暖かく見守って頂けると嬉しいです(笑)
【完結】え?今になって婚約破棄ですか?私は構いませんが大丈夫ですか?
ゆうぎり
恋愛
カリンは幼少期からの婚約者オリバーに学園で婚約破棄されました。
卒業3か月前の事です。
卒業後すぐの結婚予定で、既に招待状も出し終わり済みです。
もちろんその場で受け入れましたよ。一向に構いません。
カリンはずっと婚約解消を願っていましたから。
でも大丈夫ですか?
婚約破棄したのなら既に他人。迷惑だけはかけないで下さいね。
※ゆるゆる設定です
※軽い感じで読み流して下さい
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる