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第九話 崩れ始める均衡
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第九話 崩れ始める均衡
均衡が崩れる瞬間は、派手ではない。
音もなく、合図もなく、気づいた時には戻れない位置まで傾いている。
グレイソン伯爵家では、その「気づき」が、ようやく現実として形を取り始めていた。
「……この契約も、見送られたのか」
アーヴィン・グレイソンは、報告書を読み終え、深く椅子にもたれかかる。
王都西区の運送組合。
長年、安定した利益をもたらしてきた取引先だ。
理由は簡潔だった。
条件が合わない。
判断が遅い。
どれも、以前なら問題にならなかったはずの要素だ。
「代替案は?」
そう問う声には、焦りが滲んでいた。
「……現在、検討中です。ただ、複数の商会が、エルヴェイン侯爵家との関係を深めておりまして」
その言葉で、部屋の空気が一段、重くなる。
エルヴェイン。
聞き慣れた名であり、
かつては、自分の影にいたはずの家。
「また、か」
アーヴィンは、短く吐き捨てた。
彼は、ようやく理解し始めていた。
これは、偶発的な不運ではない。
そして、誰かが裏で糸を引いているわけでもない。
信頼の移動だ。
それは、命令では起こらない。
脅しでも、取引でもない。
人が、人を選ぶことで、自然に起きる。
一方、エルヴェイン侯爵家では、別の報告が上がっていた。
「西区の運送組合ですが、正式にこちらとの直接契約を希望しています」
補佐官の声は、淡々としている。
「条件は、先方から提示されています。こちらに有利な内容です」
クラリス・フォン・エルヴェインは、書類に目を通し、わずかに頷いた。
「問題点は?」
「現時点では、特に。ただし、グレイソン家との関係整理を、暗に求めているようです」
「応じる必要はありません」
彼女は、即答した。
「こちらが関与するのは、契約の内容のみ。過去の関係には触れません」
補佐官は、少し意外そうに彼女を見る。
「……距離を取るのではなく、放置する、と」
「はい」
クラリスは、静かに続ける。
「切る必要のないものは、切りません。ですが、支える理由もありません」
それが、彼女の選んだ立場だった。
夜、アーヴィンは、かつての記憶を反芻していた。
婚約を解消した日のこと。
彼は、合理的な判断をしたつもりだった。
感情を排し、
不要な要素を整理し、
より有利な未来を選んだ。
だが今、思う。
合理性とは、
数字だけで測れるものではなかった。
彼が軽視したのは、
調整。
信頼。
人と人の間にある、目に見えない積み重ね。
それが失われた時、
均衡は、静かに崩れ始める。
数日後、王都の小規模な会合で、
ある噂が囁かれた。
「最近、エルヴェイン家に話を通すと、物事が早い」
「無駄がない。決断も明確だ」
「……以前は、誰かが裏で整えていたのだろうな」
その言葉に、誰も反論しなかった。
名指しはされない。
だが、誰のことかは、皆が知っている。
アーヴィン・グレイソンは、
まだ完全には理解していない。
だが、確実に感じている。
自分が立っている場所が、
少しずつ、
――確実に、
低くなっていることを。
クラリス・フォン・エルヴェインは、
新たな契約書に目を通しながら、
静かに次の均衡を整えていた。
ざまあは、
もう始まっている。
ただしそれは、
叫び声も、断罪も伴わない。
選ばれなくなるという、最も残酷な形で。
均衡が崩れる瞬間は、派手ではない。
音もなく、合図もなく、気づいた時には戻れない位置まで傾いている。
グレイソン伯爵家では、その「気づき」が、ようやく現実として形を取り始めていた。
「……この契約も、見送られたのか」
アーヴィン・グレイソンは、報告書を読み終え、深く椅子にもたれかかる。
王都西区の運送組合。
長年、安定した利益をもたらしてきた取引先だ。
理由は簡潔だった。
条件が合わない。
判断が遅い。
どれも、以前なら問題にならなかったはずの要素だ。
「代替案は?」
そう問う声には、焦りが滲んでいた。
「……現在、検討中です。ただ、複数の商会が、エルヴェイン侯爵家との関係を深めておりまして」
その言葉で、部屋の空気が一段、重くなる。
エルヴェイン。
聞き慣れた名であり、
かつては、自分の影にいたはずの家。
「また、か」
アーヴィンは、短く吐き捨てた。
彼は、ようやく理解し始めていた。
これは、偶発的な不運ではない。
そして、誰かが裏で糸を引いているわけでもない。
信頼の移動だ。
それは、命令では起こらない。
脅しでも、取引でもない。
人が、人を選ぶことで、自然に起きる。
一方、エルヴェイン侯爵家では、別の報告が上がっていた。
「西区の運送組合ですが、正式にこちらとの直接契約を希望しています」
補佐官の声は、淡々としている。
「条件は、先方から提示されています。こちらに有利な内容です」
クラリス・フォン・エルヴェインは、書類に目を通し、わずかに頷いた。
「問題点は?」
「現時点では、特に。ただし、グレイソン家との関係整理を、暗に求めているようです」
「応じる必要はありません」
彼女は、即答した。
「こちらが関与するのは、契約の内容のみ。過去の関係には触れません」
補佐官は、少し意外そうに彼女を見る。
「……距離を取るのではなく、放置する、と」
「はい」
クラリスは、静かに続ける。
「切る必要のないものは、切りません。ですが、支える理由もありません」
それが、彼女の選んだ立場だった。
夜、アーヴィンは、かつての記憶を反芻していた。
婚約を解消した日のこと。
彼は、合理的な判断をしたつもりだった。
感情を排し、
不要な要素を整理し、
より有利な未来を選んだ。
だが今、思う。
合理性とは、
数字だけで測れるものではなかった。
彼が軽視したのは、
調整。
信頼。
人と人の間にある、目に見えない積み重ね。
それが失われた時、
均衡は、静かに崩れ始める。
数日後、王都の小規模な会合で、
ある噂が囁かれた。
「最近、エルヴェイン家に話を通すと、物事が早い」
「無駄がない。決断も明確だ」
「……以前は、誰かが裏で整えていたのだろうな」
その言葉に、誰も反論しなかった。
名指しはされない。
だが、誰のことかは、皆が知っている。
アーヴィン・グレイソンは、
まだ完全には理解していない。
だが、確実に感じている。
自分が立っている場所が、
少しずつ、
――確実に、
低くなっていることを。
クラリス・フォン・エルヴェインは、
新たな契約書に目を通しながら、
静かに次の均衡を整えていた。
ざまあは、
もう始まっている。
ただしそれは、
叫び声も、断罪も伴わない。
選ばれなくなるという、最も残酷な形で。
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