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第二話 殿下の机は空っぽですわ
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第二話 殿下の机は空っぽですわ
婚約破棄の翌朝。
王城は、ちょっとしたお祭り状態になっていた。
もちろん祝祭ではない。
混乱という名のお祭りである。
「殿下! 北方同盟への返答書簡が見当たりません!」
「港湾整備計画の最終案が未提出です!」
「財務局より、予算案の再確認をとのことです!」
王太子カイゼルの執務室の前には、役人たちの列ができていた。
そして当の本人は――
「……レティシアに確認しろ」
無意識に、そう言った。
空気が、凍る。
沈黙。
沈黙。
さらに沈黙。
侍従が、恐る恐る口を開いた。
「殿下……レティシア様は、昨日をもって政務補佐を退かれました」
「……ああ、そうだったな」
軽く言ったつもりだった。
だが、胸の奥に妙な違和感が残る。
「ならば副官に――」
「副官は補佐業務の詳細をご存じありません」
「では財務局に聞け」
「財務局は“王太子殿下直轄案件”として処理されていたため、内部資料がございません」
「は?」
空気が、さらに重くなる。
執務机の上には書類が山積みだ。
けれど。
肝心の最終案が、どこにもない。
「……そんなはずはない」
カイゼルは机を叩いた。
「俺は、確認した」
そうだ。
確かに見た。
署名もした。
内容も……。
……内容?
どんな文章だった?
何が書いてあった?
思い出そうとしても、妙に曖昧だ。
そこへ、控えめなノック。
「殿下」
入ってきたのはセリーナだった。
昨日と変わらぬ、可憐な微笑み。
「お疲れのご様子ですわ。お手伝いしましょうか?」
その一言で、カイゼルは少しだけ安心する。
「そうだな。レティシアの代わりに、お前が補佐に入ればいい」
役人たちが一斉に顔を上げた。
ほんの一瞬、だが。
「で、ではまず北方同盟への返答案を――」
「え、ええと……」
セリーナは書類を受け取り、ぱらぱらとめくる。
そして、にこり。
「難しい言葉が多いですわね」
役人たちの顔が、ぴくりと動く。
「殿下が決めればよろしいのでは?」
「俺が?」
「ええ、国の未来を導くのは殿下なのですから」
その言葉に、カイゼルの胸がわずかに高鳴る。
そうだ。
俺は王太子だ。
レティシアがいなくとも、問題ない。
だが。
「殿下、北方同盟は塩の関税引き下げを求めております。拒否すれば同盟破棄もあり得ます」
「塩ごときで大げさだな」
「塩は兵站と保存食の要です」
「代わりはいくらでもあるだろう」
その瞬間、役人の一人が青ざめた。
「……ございません」
室内が、静まり返る。
「塩湖は北方に集中しております。我が国は輸入依存です」
「なら値下げすればいい」
「財政が破綻いたします」
「では拒否だ」
「戦争になります」
「……は?」
カイゼルの額に、じわりと汗が浮かぶ。
昨日まで、こんなやり取りはなかった。
いや、あったのかもしれない。
だがその都度、レティシアが静かに整理し、
“最適解”だけを机に置いていた。
自分は選ぶだけだった。
選ぶ、だけ。
「殿下」
侍従がさらに声を落とす。
「財務局より連絡です。次期予算案が白紙状態だと」
「白紙?」
「最終草案が未提出とのことです」
「そんな馬鹿な」
カイゼルは書棚を開ける。
引き出しを引く。
だが。
あるはずの束が、ない。
昨日、レティシアが持っていた赤い革表紙のファイル。
あれはどこへ?
当然だ。
あれは――彼女の私物だった。
「……」
静寂。
やがて、誰かが小さく呟く。
「……殿下の机、空っぽですね」
その一言が、やけに重く響いた。
一方その頃。
ヴァルモンド公爵邸。
私は窓辺で紅茶を飲んでいた。
春の陽射しが心地いい。
「お嬢様、王城が大変なことになっているそうです」
「そう」
私はカップを置く。
「三日保てば上出来かと思っておりましたけれど」
「一日でしたね」
「……予想より早かったですわ」
侍女がくすりと笑う。
「お戻りになるおつもりは?」
「ございませんわ」
私は静かに首を振った。
「愛を選ばれたのでしょう?」
ならば、責任も愛で解決なさって。
私は立ち上がる。
机の上には、整然と並んだ書類。
王家と無関係な、新しい案件。
「さて。今度は“私のため”に働きますわ」
扉の外では、公爵が深刻な顔で待っている。
「レティシア。王家から呼び出しが――」
「お断りくださいませ」
にこり、と微笑む。
「私はもう、関係のない人間ですので」
その言葉が、ゆっくりと広がっていく。
王城に。
社交界に。
そして――王太子の耳へ。
まだ彼は気づいていない。
本当に空っぽなのは、机ではなく。
――自分だったということに。
婚約破棄の翌朝。
王城は、ちょっとしたお祭り状態になっていた。
もちろん祝祭ではない。
混乱という名のお祭りである。
「殿下! 北方同盟への返答書簡が見当たりません!」
「港湾整備計画の最終案が未提出です!」
「財務局より、予算案の再確認をとのことです!」
王太子カイゼルの執務室の前には、役人たちの列ができていた。
そして当の本人は――
「……レティシアに確認しろ」
無意識に、そう言った。
空気が、凍る。
沈黙。
沈黙。
さらに沈黙。
侍従が、恐る恐る口を開いた。
「殿下……レティシア様は、昨日をもって政務補佐を退かれました」
「……ああ、そうだったな」
軽く言ったつもりだった。
だが、胸の奥に妙な違和感が残る。
「ならば副官に――」
「副官は補佐業務の詳細をご存じありません」
「では財務局に聞け」
「財務局は“王太子殿下直轄案件”として処理されていたため、内部資料がございません」
「は?」
空気が、さらに重くなる。
執務机の上には書類が山積みだ。
けれど。
肝心の最終案が、どこにもない。
「……そんなはずはない」
カイゼルは机を叩いた。
「俺は、確認した」
そうだ。
確かに見た。
署名もした。
内容も……。
……内容?
どんな文章だった?
何が書いてあった?
思い出そうとしても、妙に曖昧だ。
そこへ、控えめなノック。
「殿下」
入ってきたのはセリーナだった。
昨日と変わらぬ、可憐な微笑み。
「お疲れのご様子ですわ。お手伝いしましょうか?」
その一言で、カイゼルは少しだけ安心する。
「そうだな。レティシアの代わりに、お前が補佐に入ればいい」
役人たちが一斉に顔を上げた。
ほんの一瞬、だが。
「で、ではまず北方同盟への返答案を――」
「え、ええと……」
セリーナは書類を受け取り、ぱらぱらとめくる。
そして、にこり。
「難しい言葉が多いですわね」
役人たちの顔が、ぴくりと動く。
「殿下が決めればよろしいのでは?」
「俺が?」
「ええ、国の未来を導くのは殿下なのですから」
その言葉に、カイゼルの胸がわずかに高鳴る。
そうだ。
俺は王太子だ。
レティシアがいなくとも、問題ない。
だが。
「殿下、北方同盟は塩の関税引き下げを求めております。拒否すれば同盟破棄もあり得ます」
「塩ごときで大げさだな」
「塩は兵站と保存食の要です」
「代わりはいくらでもあるだろう」
その瞬間、役人の一人が青ざめた。
「……ございません」
室内が、静まり返る。
「塩湖は北方に集中しております。我が国は輸入依存です」
「なら値下げすればいい」
「財政が破綻いたします」
「では拒否だ」
「戦争になります」
「……は?」
カイゼルの額に、じわりと汗が浮かぶ。
昨日まで、こんなやり取りはなかった。
いや、あったのかもしれない。
だがその都度、レティシアが静かに整理し、
“最適解”だけを机に置いていた。
自分は選ぶだけだった。
選ぶ、だけ。
「殿下」
侍従がさらに声を落とす。
「財務局より連絡です。次期予算案が白紙状態だと」
「白紙?」
「最終草案が未提出とのことです」
「そんな馬鹿な」
カイゼルは書棚を開ける。
引き出しを引く。
だが。
あるはずの束が、ない。
昨日、レティシアが持っていた赤い革表紙のファイル。
あれはどこへ?
当然だ。
あれは――彼女の私物だった。
「……」
静寂。
やがて、誰かが小さく呟く。
「……殿下の机、空っぽですね」
その一言が、やけに重く響いた。
一方その頃。
ヴァルモンド公爵邸。
私は窓辺で紅茶を飲んでいた。
春の陽射しが心地いい。
「お嬢様、王城が大変なことになっているそうです」
「そう」
私はカップを置く。
「三日保てば上出来かと思っておりましたけれど」
「一日でしたね」
「……予想より早かったですわ」
侍女がくすりと笑う。
「お戻りになるおつもりは?」
「ございませんわ」
私は静かに首を振った。
「愛を選ばれたのでしょう?」
ならば、責任も愛で解決なさって。
私は立ち上がる。
机の上には、整然と並んだ書類。
王家と無関係な、新しい案件。
「さて。今度は“私のため”に働きますわ」
扉の外では、公爵が深刻な顔で待っている。
「レティシア。王家から呼び出しが――」
「お断りくださいませ」
にこり、と微笑む。
「私はもう、関係のない人間ですので」
その言葉が、ゆっくりと広がっていく。
王城に。
社交界に。
そして――王太子の耳へ。
まだ彼は気づいていない。
本当に空っぽなのは、机ではなく。
――自分だったということに。
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