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第五話 帰る場所
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第五話 帰る場所
マルグリット・フォン・ルーヴェンが王宮から完全に距離を置いてから、十日が過ぎていた。
その間、彼女のもとに届いた王宮からの書簡は、すでに片手では数えきれない。
正式な要請、非公式な相談、そして個人的な感情を滲ませたものまで、その内容はさまざまだったが、共通している点が一つあった。
――誰一人として、「自分たちが何を失ったのか」を言葉にしていない。
マルグリットは、それらを一通ずつ確認し、必要なものだけを分類した後、書斎の引き出しに静かにしまった。
返書を書くことはない。
もはや、それは彼女の役目ではないからだ。
ルーヴェン家の屋敷は、穏やかな時間に包まれていた。
王宮にいた頃は、常に次の案件、次の会議、次の判断が待ち構えていた。
一息つく間もなく、気づけば夜が明けていることも珍しくなかった。
だが今は違う。
朝は鳥の声で目を覚まし、紅茶をゆっくりと味わい、必要な分だけ本を読む。
時間が、ようやく彼女のもとに戻ってきた。
「……不思議なものですね」
庭を眺めながら、マルグリットは小さく呟いた。
王太子妃になるために生きてきたはずの人生が、こうしてあっさりと別の形を取り戻している。
喪失感よりも先に、静かな安堵があったことに、自分でも少し驚いていた。
その日の午後、ルーヴェン家に一人の客が訪れた。
「辺境公爵領よりの使者でございます」
侍女の報告に、マルグリットは一瞬だけ視線を上げる。
「辺境公爵……?」
その名に、覚えがないわけではなかった。
中央政界から距離を置きながらも、領地経営と軍備を着実に整え、近年評価を高めている人物――フェリクス・フォン・グランツ。
直接会ったことはない。
だが、彼の名が挙がる書類を扱ったことは、何度もあった。
「お通しして」
応接室に現れた使者は、年若いながらも礼儀正しい青年だった。
「突然の訪問、失礼いたします。辺境公爵フェリクス・フォン・グランツより、マルグリット様へお伝えしたいことがございます」
「用件を伺いますわ」
使者は一度、深く頭を下げた。
「公爵は、マルグリット様が王宮を退かれたことを聞き及びました。その上で、お願いがございます」
そう前置きし、差し出されたのは一通の書簡だった。
封蝋には、簡素ながらも力強い紋章が刻まれている。
飾り気のない印章は、書き手の性格をそのまま映しているようだった。
マルグリットは、その場で封を切り、静かに目を走らせる。
――王宮を去られたと聞きました。
――貴女のこれまでの働きについて、私は記録を通して存じています。
――もし差し支えなければ、辺境公爵領の政策顧問として力を貸していただけないでしょうか。
――これは、王宮への復帰を意味するものではありません。
――貴女の意思を、何よりも尊重します。
簡潔で、無駄のない文面だった。
そこには、同情も、命令も、期待を押しつける言葉もない。
マルグリットは、しばらく沈黙したまま考え込む。
王宮からの書簡は、いつも曖昧だった。
「助けてほしい」と言いながら、責任の所在を明確にしない。
「戻ってほしい」と言いながら、何をどう任せるのかを示さない。
だが、この書簡は違う。
役職が明確で、責任範囲も示唆されている。
そして何より、「断っても構わない」という前提が、はっきりと書かれていた。
「……随分と、誠実な方のようですね」
思わず、そう口にすると、使者は少しだけ安堵したように表情を緩めた。
「公爵は、形式を好まれません。必要だと判断した相手に、必要な形でお願いをする方です」
「なるほど」
マルグリットは書簡を畳み、机の上に置いた。
「すぐに返事はできませんわ。ですが……前向きに検討させていただきます」
その言葉に、使者は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。お返事は、どのような形でも構いません」
使者が去った後、マルグリットは再び庭に出た。
風が、穏やかに頬を撫でる。
王宮にいた頃には感じることのなかった、自由な空気だ。
「……帰る場所、ですか」
それは、王宮ではない。
誰かの期待を背負い、役割に縛られる場所でもない。
自分の意思で選び、必要とされ、尊重される場所。
それが、これからの彼女の“帰る場所”になるのかもしれない。
一方、王宮では――。
「辺境公爵が、マルグリットに接触した?」
その報告を受けたロイド・ヴァルシュタインは、顔色を変えた。
「……なぜ、今になって」
だが、その問いに答えられる者はいない。
王宮が手放したものは、すでに別の場所で必要とされ始めている。
その事実だけが、静かに、しかし確実に突きつけられていた。
マルグリット・フォン・ルーヴェンは、もう戻らない。
少なくとも――“あの場所”には。
彼女の新しい物語は、今、別の地で静かに動き始めていた。
マルグリット・フォン・ルーヴェンが王宮から完全に距離を置いてから、十日が過ぎていた。
その間、彼女のもとに届いた王宮からの書簡は、すでに片手では数えきれない。
正式な要請、非公式な相談、そして個人的な感情を滲ませたものまで、その内容はさまざまだったが、共通している点が一つあった。
――誰一人として、「自分たちが何を失ったのか」を言葉にしていない。
マルグリットは、それらを一通ずつ確認し、必要なものだけを分類した後、書斎の引き出しに静かにしまった。
返書を書くことはない。
もはや、それは彼女の役目ではないからだ。
ルーヴェン家の屋敷は、穏やかな時間に包まれていた。
王宮にいた頃は、常に次の案件、次の会議、次の判断が待ち構えていた。
一息つく間もなく、気づけば夜が明けていることも珍しくなかった。
だが今は違う。
朝は鳥の声で目を覚まし、紅茶をゆっくりと味わい、必要な分だけ本を読む。
時間が、ようやく彼女のもとに戻ってきた。
「……不思議なものですね」
庭を眺めながら、マルグリットは小さく呟いた。
王太子妃になるために生きてきたはずの人生が、こうしてあっさりと別の形を取り戻している。
喪失感よりも先に、静かな安堵があったことに、自分でも少し驚いていた。
その日の午後、ルーヴェン家に一人の客が訪れた。
「辺境公爵領よりの使者でございます」
侍女の報告に、マルグリットは一瞬だけ視線を上げる。
「辺境公爵……?」
その名に、覚えがないわけではなかった。
中央政界から距離を置きながらも、領地経営と軍備を着実に整え、近年評価を高めている人物――フェリクス・フォン・グランツ。
直接会ったことはない。
だが、彼の名が挙がる書類を扱ったことは、何度もあった。
「お通しして」
応接室に現れた使者は、年若いながらも礼儀正しい青年だった。
「突然の訪問、失礼いたします。辺境公爵フェリクス・フォン・グランツより、マルグリット様へお伝えしたいことがございます」
「用件を伺いますわ」
使者は一度、深く頭を下げた。
「公爵は、マルグリット様が王宮を退かれたことを聞き及びました。その上で、お願いがございます」
そう前置きし、差し出されたのは一通の書簡だった。
封蝋には、簡素ながらも力強い紋章が刻まれている。
飾り気のない印章は、書き手の性格をそのまま映しているようだった。
マルグリットは、その場で封を切り、静かに目を走らせる。
――王宮を去られたと聞きました。
――貴女のこれまでの働きについて、私は記録を通して存じています。
――もし差し支えなければ、辺境公爵領の政策顧問として力を貸していただけないでしょうか。
――これは、王宮への復帰を意味するものではありません。
――貴女の意思を、何よりも尊重します。
簡潔で、無駄のない文面だった。
そこには、同情も、命令も、期待を押しつける言葉もない。
マルグリットは、しばらく沈黙したまま考え込む。
王宮からの書簡は、いつも曖昧だった。
「助けてほしい」と言いながら、責任の所在を明確にしない。
「戻ってほしい」と言いながら、何をどう任せるのかを示さない。
だが、この書簡は違う。
役職が明確で、責任範囲も示唆されている。
そして何より、「断っても構わない」という前提が、はっきりと書かれていた。
「……随分と、誠実な方のようですね」
思わず、そう口にすると、使者は少しだけ安堵したように表情を緩めた。
「公爵は、形式を好まれません。必要だと判断した相手に、必要な形でお願いをする方です」
「なるほど」
マルグリットは書簡を畳み、机の上に置いた。
「すぐに返事はできませんわ。ですが……前向きに検討させていただきます」
その言葉に、使者は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。お返事は、どのような形でも構いません」
使者が去った後、マルグリットは再び庭に出た。
風が、穏やかに頬を撫でる。
王宮にいた頃には感じることのなかった、自由な空気だ。
「……帰る場所、ですか」
それは、王宮ではない。
誰かの期待を背負い、役割に縛られる場所でもない。
自分の意思で選び、必要とされ、尊重される場所。
それが、これからの彼女の“帰る場所”になるのかもしれない。
一方、王宮では――。
「辺境公爵が、マルグリットに接触した?」
その報告を受けたロイド・ヴァルシュタインは、顔色を変えた。
「……なぜ、今になって」
だが、その問いに答えられる者はいない。
王宮が手放したものは、すでに別の場所で必要とされ始めている。
その事実だけが、静かに、しかし確実に突きつけられていた。
マルグリット・フォン・ルーヴェンは、もう戻らない。
少なくとも――“あの場所”には。
彼女の新しい物語は、今、別の地で静かに動き始めていた。
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